ブライアン・トラックスラー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ブライアン・トラックスラー(本名Brian Lee Traxler , 1967年9月26日 - 2004年11月19日)は、米国イリノイ州出身で、ダイエーに在籍したプロ野球選手。主なポジションは一塁手。左投げ左打ち。日本での愛称はコロコロちゃん。
目次 |
[編集] 来歴・人物
1988年ドラフト16位でドジャースと契約。米国でのキャリアはマイナー暮らしが長かったが、1991年にメジャー初昇格。11打席で唯一のヒットを放ったのが当時メッツの大エースであったデービッド・コーンであったのが本人の自慢話となっていた。しかし、当時のドジャースには同じ一塁にエリック・キャロスら有望選手が多く、再びマイナー暮らしに逆戻りとなった。
1994年に当時ドジャースと友好関係を築こうとしていたダイエーに入団。ダイエー球団ではなく、ダイエー本社海外部が2年契約で獲得。それも二塁を守ることのできる右打者を欲しがっていた現場の意向を軽視した上での獲得であった。ちなみに新興球団であるダイエーに対する伝統あるドジャース側の態度は冷淡で、トミー・ラソーダ氏が2月のキャンプ時に来日した際に、後日訪問した巨人や中日のキャンプ地では熱心な技術指導まで行ったのに対して、ダイエーのキャンプ地は短時間視察を行ったのみであり、友好関係は程なく消滅した。
前半戦は、よく似た体型ながら1993年にフィリーズをワールドシリーズへ導く働きを見せたジョン・クラック一塁手を髣髴とさせるパワーと巧打ぶりを発揮し、クラック同様に主砲・秋山幸二の前を打つ3番打者としてなかなかの働きを見せた。守備範囲は狭いもののグラブ捌きも悪くなく、身長175cmながら100kg近い体型もあって「コロコロちゃん」の愛称で親しまれた。チーム事情から二塁を守ることになった似た体型の藤本博史との一・二塁間は良きも悪しきもこの年の名物であった。ビール好きでも知られ、ビールをジョッキで何杯も美味そうに飲み干す様子が報じられていた。後半戦は弱点をつかれ、凡打に終わることが多くなり成績も急降下。チームもAクラス入りを逃した。
1995年はケビン・ミッチェル獲得により、1994年にプレーしていたケビン・ライマー外野手又はトラックスラーのどちらかが解雇されることになった。FAで内野手の石毛宏典を獲得していたこともあってトラックスラーを解雇することが決定的であったが、トラックスラーはダイエー本社海外部の肝いりで獲得した選手であったことから、簡単に解雇することができず、1995年の高知キャンプにも来日していた。結局、一塁手として石毛または藤本を起用したい現場の意向からトラックスラーはキャンプ中に解雇されたが、ダイエー本社側はメンツを潰される形となり、ミッチェルの処遇にあたって少なからず悪影響を及ぼすものとなった。気の毒であったのは解雇される方針であることを知らされず高知入りしたトラックスラーであったが、同僚で仲の良かったライマーも満足な成績を残すことなくその年限りで解雇。親会社の関係と、ライマーとかぶるポジションを考えるとやはりトラックスラーを残した方が正解であった。
帰国後、マイナーリーグでプレーを続け、現役引退後はドジャーズ傘下のマイナー組織で打撃コーチを務め、福岡のローカル番組で元気に後進を指導する様子を見せ、第2の野球人生を順調に歩んでいる様子であったが、2004年11月19日、米国テキサス州サンアントニオで急死。37歳の若さであった。アルコール中毒による肝硬変が死因とされ、好きな酒が寿命を縮めることになった。
[編集] エピソード
- ダイエーは主力選手をモチーフとした博多人形を売り出したが、トラックスラーを模した博多人形は当時の売り上げ1位であった。
- テキサス育ちであることから、常にカウボーイハットを被っていた。試合前にカウボーイスタイルで登場し、輪投げのパフォーマンスを披露するなどしてファンの心をつかみ、打席に入る際には福岡ドームのホークスビジョンには、トラックスラーがカウボーイ姿で敵を懲らしめるアニメーションが流れた。
- トラックスラーをカタカナ表記にすると長すぎるため、球場によっては電光掲示板で全て出すことが出来ず、トラックで終わってしまう球場や、トラクスラーと表示される球場もあった。
[編集] 日本での通算成績
129試合 打率.263 15本塁打 62打点
[編集] メジャーでの通算成績
9試合 打率.091 0本塁打 0打点