福岡ソフトバンクホークス
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福岡ソフトバンクホークス(ふくおかソフトバンクホークス、Fukuoka SoftBank HAWKS Baseball Club)は、日本のプロ野球の九州地方唯一の球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。本拠地は福岡Yahoo! JAPANドーム(福岡市中央区)。2軍の本拠地は雁の巣球場(同市東区)を使用している。
チーム名 | 福岡ソフトバンクホークス |
加盟団体 | パシフィック・リーグ(1軍)、ウエスタン・リーグ(2軍) |
創設年度 | 1938年 |
チーム名の遍歴 | 南海軍(1938年-1944年途中) →近畿日本軍(1944年途中-1945年) →グレートリング(1946年-1947年途中) →南海ホークス(1947年途中-1988年) →福岡ダイエーホークス(1989年-2004年) →福岡ソフトバンクホークス(2005年-) |
フランチャイズの遍歴 | 大阪府(1952年-1988年)→福岡県(1989年-) |
本拠地 | 福岡Yahoo! JAPANドーム(1軍)、福岡市雁の巣レクリエーションセンター野球場(2軍) |
収容人員 | 35,695人(ヤフードーム) |
オーナー | 孫正義 |
親会社 | ソフトバンク |
監督 | 王貞治 |
タイトル | リーグ戦:15回、日本シリーズ:4回 |
(優勝年度) | (リーグ戦)1946、1948、1951、1952、1953、 1955、1959、1961、1964、1965、 1966、1973、1999、2000、2003 (日本シリーズ)1959、1964、1999、2003 |
プレーオフ | 4回 - 1勝3敗(太字は勝利した年) 1973、2004、2005、2006 |
[編集] 球団の歴史
[編集] 戦前
- 1938年に南海鉄道を親会社とする南海軍(なんかいぐん)が結成される。同年3月29日に加盟し、秋季リーグ戦から参加。本拠地は大阪府堺市。
- 1939年に本拠地球場として中百舌鳥球場が完成したが、公式戦は主に西宮球場と甲子園で行われた。戦前のチーム成績は今ひとつではあったが、鶴岡一人、のち松竹ロビンスの主軸・岩本義行、悲劇のエース・神田武夫と実力のある選手がチームを支えた。
- 1944年の戦時企業統合政策(陸上交通事業調整法)により南海鉄道は関西急行鉄道と合併。同年6月1日より近畿日本鉄道となり、合わせてチーム名は近畿日本(きんきにほん)へ改称された(現在のオリックス・バファローズの前身である大阪近鉄バファローズとは球団としての関係はない)。
[編集] 鶴岡監督政権
- 終戦後の1946年、プロ野球再開でリーグに復帰。あわせてチーム名をグレートリングに改名。愛称は「近畿」で、「近畿グレートリング」と呼ばれることもあった(参照)。監督は鶴岡(当時は山本姓)が選手兼任。戦後混乱で物資・食料が不足する中、鶴岡は公私を問わず選手らの面倒をみるなど奔走。機動力を重視した戦術で、プロ野球再開シーズンを球団初優勝で飾った。
- 翌1947年6月1日、旧南海鉄道の事業一切が近畿日本鉄道から南海電気鉄道へ譲渡され、球団の親会社も南海電気鉄道へ移行。これにあわせてチーム名を南海ホークスに改称した。
- 1949年シーズンオフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。1950年に新本拠地として大阪球場が完成。ようやく自前の球場を確保する。
- 1951年からリーグ3連覇。戦後より続けてきた機動力野球は、鉄壁の守備力を誇る「100万ドルの内野陣」(一塁・飯田徳治、二塁・鶴岡のち岡本伊三美、三塁・蔭山和夫、遊撃・木塚忠助)を生み出した。この頃の南海は「洗練されたプレーで観客を魅了する都会的なチーム」と評された。1955年にもリーグ優勝を果たしたものの日本シリーズではいずれも読売ジャイアンツ(以下、巨人と省略)に敗れ、「ナンカイ(何回)戦っても巨人に勝てないナンカイ(南海)」と揶揄された。
- 機動力野球では巨人に対抗できないと考えた鶴岡は、チーム構想を長打力重視の「400フィート打線」へと転換。しかしなかなか軌道に乗らず、1956年から3年連続で西鉄ライオンズに苦杯を喫する。
- 1959年に立教大学から立教三羽烏「長嶋・杉浦・本屋敷」の一人杉浦忠が入団。長嶋茂雄は大学時代から南海に「栄養費」の支給を受けており、入団は確実と言われたが、土壇場のどんでん返しで読売ジャイアンツに奪われる。
- 1959年に4年ぶり7度目のリーグ優勝を果たす。この年は打線以上に杉浦忠を中心とする投手陣が強固であり、日本シリーズでは杉浦が第1戦から4連投して4連勝、4勝0敗のストレートで巨人を下し、球団初の日本一に輝いた。大阪市内を巡航したパレードは「涙の御堂筋パレード」と言われた。当時は強豪チームというだけでなく人気も阪神タイガースを凌ぎ関西一であった。
- 鶴岡は1965年に一旦辞任するが、後任監督となった蔭山和夫が就任4日後に急死したため復帰、1968年まで指揮を執った。
- テレビ野球中継が始まると、南海は人気を背景に高額の放映権料を要求した。また、直接球場に足を運ばなければ意味がないとして、TVの効果を疑問視していた。ところが、TV中継の拡大ともに、系列の日本テレビ放送網による全国ネット中継を行う巨人と同一のセ・リーグである阪神タイガースばかりが放送され、野球人気そのものがセ偏重となり、パの南海の人気は低落していった。その結果として、南海戦のTV中継はさらに減少する悪循環であった。かつて南海電鉄が毎日放送の主要株主であった関係から、放映権も毎日放送中心だったが、阪神への一極集中が進むにつれ、いかに阪神戦を確保するかに放送局の関心も移っていった(ただ、毎日放送との関係は、ダイエーへの身売りまで続いた)。
- 快進撃を続けたチームだが、当時から経営的には低迷した。毎年の赤字を電鉄本社が補填し続ける現状に、電鉄労働組合からは賃上げ闘争のつどやり玉に挙げられ、「野球に回す金があったら給料を上げろ」「早く球団を売れ」と黒字化の見通しの立たない球団への風当たりは強いものがあった(同じく鉄道会社が親会社の近鉄・阪急も苦戦続きであった)。
[編集] 暗黒時代
- 1969年は飯田徳治が監督に就任したが、投手陣に怪我人が続出したこともあって2リーグ分立後初の最下位に転落。飯田は1年で辞任し、後任には選手兼任で野村克也が就任。野村はヘッドコーチにドン・ブレイザーを招聘し、現在のID野球の原点となる「シンキング・ベースボール」をスローガンとした。野村時代はリーグ優勝は1973年のみだったが、6度のAクラス入りと安定した成績を残した。しかし1977年シーズン終盤に野村が解任されると後を追うように江夏豊・柏原純一もチームを去り、チーム力が大きく低下する。1978年、広瀬叔功が監督に就任。野村カラーの一掃を目指し、「泥まみれの野球」を標榜するも門田博光のアキレス腱断裂などもあり、6位、5位と低迷。
- 1980年にはドカベンこと香川伸行が入団し、序盤は首位争いを演じるも結局は最下位に低迷し、広瀬は退陣。1981年から1982年は野村監督時代のヘッドコーチであるブレイザーが務め、1983年にはかつてのスター穴吹義雄が二軍監督から昇格。1984年には阪急や近鉄と首位争いを演じるも終盤に10連敗を喫し、優勝戦線から脱落してしまう。さらにシーズンオフ(1985年早々)にはスター候補として期待を集めていた久保寺雄二が急死するアクシデントもあった。1986年に黄金時代のエース・杉浦忠が監督に就任するも長期低迷には歯止めがかからず、川勝傳オーナーが亡くなった1988年にダイエーへの売却が決定した。
[編集] 福岡ダイエー時代
[編集] 平和台
- 1988年11月1日、南海電鉄はホークスの名を残すことと杉浦の留任を条件に、球団をダイエーに売却。関西国際空港開業に伴う難波再開発事業を推し進め、不採算の球団を売却しようとする南海側と、福岡再開発事業の目玉に球団を保有し、九州を核とした商圏拡大を目論んだダイエー側の思惑が一致したためであった。
- 大阪市では売却に対し反対運動も行われたが(関西地区においても、今でもホークスファンが少なくない。その点に関しては後述)、チームの本拠地は福岡市・平和台球場に移され球団名も福岡ダイエーホークスと改められた。新天地となる福岡は、南海と覇権を激しく争った西鉄ライオンズ(→西武ライオンズ)の本拠地だっただけに、福岡のファンに受け入れられるか心配されていたが、10年ぶりのプロ球団設置に地元では歓迎ムードの方が大きかった。もっとも移転後ダイエーがしばらく下位低迷を続けたこともあり、今のような圧倒的人気という訳には行かずスタンドには空席が目立つことも多かった。また、当時の西武との対戦では西武ファンの割合が多かった。
- なお、この年は近鉄バファローズに13勝11敗2分け、オリックス・ブレーブスに12勝13敗1分け、西武ライオンズに11勝13敗2分けと上位球団と互角に戦い、最終的に1位と3位の勝率が2厘差というパ・リーグ史上最大の混戦を演出する立役者となった。さらに準本拠地・北九州市民球場では7戦して全勝(特に最初の主催ゲームとなった4月20日は吉田豊彦の完投で、オリックスの開幕連勝を8で止めている)しており、ファンの間では「北九州不敗神話」と言われた。
- 1990年から田淵幸一が監督に就任。しかし同年はチーム成績6位、1991年5位、1992年4位と戦力の底上げをすることができず田淵は辞任した。この年を最後に平和台球場から撤退。
[編集] 福岡ドーム
- 1993年、根本陸夫が監督に就任。この年、史上初の開閉式屋根を有するドーム球場として福岡ドームが完成するも、新本拠地での初年度は、打線がホームゲーム60試合でわずか18本塁打しか打てず、また投手陣も平和台時代の惨状が改善されないまま最下位に転落。これで南海時代の1978年からこの年まで16年連続シーズン負け越しで、これは国鉄スワローズの15年連続(1962年~1976年)を更新した日本プロ野球ワースト記録である。現状打破に向け、同年11月に佐々木誠・村田勝喜・橋本武広との交換で、西武ライオンズから秋山幸二・渡辺智男・内山智之を獲得する大型トレードを成立させ、日本中を驚かせた。
- 1994年、初めて優勝争いに加わり、快進撃を見せるも、わずかの差でAクラスを逃す。しかし、南海時代の1977年以来17年ぶりに勝ち越した。同年オフのドラフト会議では、城島健司を1位指名した。また、FAで西武から石毛宏典・工藤公康も移籍。西鉄時代の本拠地だった関係で、当時の福岡にはライオンズファンも多かったが、ライオンズから多くの主力選手を移籍させることにより、これらのファンをホークスファンとすることに成功した。
- 1995年、王貞治が監督に就任。実績のある選手が揃い、一気に優勝への期待が高まったが、故障者続出などにより、5位に終わる。
- 1996年5月9日に日本生命球場で開催された近鉄バファローズ戦で敗北した後、日頃の采配を疑問視されていた王の乗ったバスがファンから生卵をぶつけられるという事件が発生した。この年は大不振で、この日で9勝22敗と大きく負け越しており、結局この年は最下位に終わった。なお、本試合は同球場最後のプロ野球公式戦であった。また、この年で南海時代から19年連続Bクラスとなり、それまで広島東洋カープが保持していた連続Bクラス日本記録(1950年から1967年までの18年)を更新した。
- 1997年、日本ハムファイターズと同率の4位に終わり、20年連続Bクラスでかつ4位以下。連続4位以下の記録は近鉄バファローズの1950年から1968年までの19年連続を更新する日本プロ野球ワースト記録となった。
- 1998年、オリックス・ブルーウェーブと同率の3位に入り、南海時代から続いていた連続Bクラスの記録は20年で止まる。ただし前年度(1997年)の順位がオリックスの2位に対しダイエーは4位だったため、翌1999年の本拠地開幕権を獲得できなかった。
- 1999年、福岡移転後初のリーグ優勝。このとき、シーズン終了直前まで総得点が総失点を下回り、史上初の珍事かと話題になったが、最終的には総得点が上回った。さらに日本シリーズでは星野仙一率いる中日ドラゴンズを4勝1敗で下し、日本一。キャプテン秋山幸二が2本の本塁打とファインプレーでシリーズMVPを獲得。秋山は西武時代の1991年にも日本シリーズMVPを獲得しており、史上初の2球団での日本シリーズMVP獲得者となった。球団の地元、北九州地区でRKB毎日放送で中継された1999年10月28日の第5戦は、ビデオリサーチ調べで平均視聴率47.1%(RKB毎日放送史上1977年・1978年の日本レコード大賞に次ぐ歴代3位)、瞬間最高視聴率71.6%という驚異的な数字を記録した。
- 2000年、リーグ2連覇。日本シリーズは長嶋茂雄率いる読売ジャイアンツとの対戦で「ON対決」と騒がれたが、2勝したのち4連敗で敗れた。またシリーズ直前、藤井将雄投手が肺癌のため急逝。
- 2002年5月14日と5月15日、台湾の台北市立天母棒球場で行われた対オリックス・ブルーウェーブ戦で、日本のプロ野球の公式戦としては戦後初となる台湾での試合が興行された。しかしその後失速、優勝した西武に16.5ゲーム差をつけられる惨敗を喫する(台湾での蒸し暑い気候から一転、次のカード(長野)の気温1ケタ間近という寒さの中での試合が、多くの選手に同時に不調をもたらした原因ではないかと見られている)。同年、秋山が現役引退。
- 2003年、前年まで21年連続で負け越していた西武にも勝ち越し、リーグ「完全優勝」(全球団への勝ち越し)を達成。その後、阪神タイガースとの熾烈な日本シリーズを制し、4勝3敗で2度目の日本一を達成した。また、史上初の100打点の選手が4人(井口資仁、松中信彦、城島健司、ペドロ・バルデス)の「100打点カルテット」が活躍した。
- 2004年はシーズンを1位で通過しながら、同年から導入されたプレーオフで西武の前に2勝3敗で敗れ、優勝を奪われた。レギュラーシーズンの活躍と打撃三冠王を評価されてチームの主砲松中信彦がリーグMVP、抑え投手として活躍した新人王に三瀬幸司が輝き、ベストナインにも4名が入った。
- 2004年10月、秋山が2軍監督(現1軍野手総合コーチ)として復帰。
[編集] 球団売却
- 2004年10月13日、ダイエーが自主再建を断念し、産業再生機構への支援を要請。機構側が「国営ホークスになることは無い」と語ったことから球団の売却が濃厚になる。11月30日、ソフトバンクが球団を総額200億円で買収することなどを正式発表。同日付で日本プロフェッショナル野球組織への加盟申請を行った。12月24日、加盟申請(球団譲渡)がプロ野球オーナー会議で承認され、翌年1月28日にダイエーの保有する球団株式(所有割合98%、残りの2%は中内正前オーナーが継続保有)をソフトバンクが50億円で譲り受けることになった。これと同時にソフトバンクとホークスタウンは、営業譲渡と合わせ20年間の福岡ドーム使用契約を結んだ。1年間の球場使用料は48億円となる。また同日付けでコロニー・キャピタル傘下のホークスタウンが所有する興行権を150億円で取得する営業譲渡契約を締結することで合意した。
同日、ソフトバンクは新チーム名福岡ソフトバンクホークスとロゴマークを発表。また、次項に掲載しているマスコットや球団の応援歌などについてもダイエー時代とほぼ同じものを採用することを合わせて発表した。
[編集] 福岡ソフトバンク時代
- 2005年1月28日、ソフトバンクがダイエーの保有していた球団株式と興行権を取得し、福岡ドームの使用契約を締結することで名実ともに「福岡ソフトバンクホークス」のスタートを切った。また監督の王貞治が球団の取締役副社長兼GM(ゼネラルマネージャー)に就任することも発表された。
- 新チームマークは英語の「S(SoftBank)」と「h(Hawks)」を組み合わせたもの。チームロゴに挿入されている黄色の2本線は親会社・ソフトバンクのCIロゴをアレンジした。また、大リーグ通算214本塁打を誇り、独特のオープンスタンスで日本でも有名なトニー・バティスタを新球団の目玉として2年総額1500万ドル(約15億8000万円)で獲得。
- 2005年1月30日、新チームお披露目・ファン交流イベント「The First Reception 2005」が福岡Yahoo!JAPANドームで行われた。このイベントで初めて新ユニフォーム・新応援歌・2005年のスローガンなどが発表された。「中高年が少年のような顔をして歌っているのを見て、これを変えたら暴動が起きるなと思った」とオーナー・孫正義が語ったとおり、応援歌は歌詞などの一部最小限を改定した(『ダイエー』の部分を『ソフトバンク』に変えた)のみでそのまま引き継がれた。このイベントは有料だったが、入場料は全額がスマトラ島沖地震・新潟県中越地震の被災者を支援するための義援金に充てられ、孫オーナー自らもこれと同額の義援金を送ることを発表した。
- 2005年3月9日、6月28日と6月29日に予定されていた千葉ロッテマリーンズ戦の韓国開催が、ソウルで試合ができなくなったことと韓国プロ野球の人気低迷から採算が合わないと判断されたため、中止されることとなった。この2試合はロッテ側の主催試合であったため、千葉マリンスタジアムで代替開催された。
- 2005年シーズンの開幕直後はロッテに先行を許したものの、交流戦終盤からの15連勝や本拠地ヤフードームでの12連勝で首位に立つとその後は1度も転落することなく、レギュラーシーズンを89勝(勝率.664)という好成績で2位ロッテに4.5ゲーム差を付けて1位で通過した。しかし、アドバンテージの1勝を得るための条件「5.0ゲーム差以上」にはわずか0.5ゲーム届かなかった。また、城島の負傷離脱、松中の不振が最後まで響いた形となり、プレーオフでは2勝3敗で敗れ、またしても優勝を逃した。プレーオフ#同一の組で再度決定戦を行うものを参照。シーズンオフ、バティスタが退団、城島がシアトル・マリナーズへFA移籍。
- 2006年7月5日、福岡Yahoo!JAPANドームでの西武戦後、王監督が記者会見を開き、胃の手術のため休養することを発表。翌日から一時チームを離脱した。監督代行は森脇浩司チーフコーチが務めた。
- 2006年のプレーオフではレギュラーシーズン3位から第1ステージを制し勝ち上がるが、レギュラーシーズン1位の北海道日本ハムファイターズに2連敗を喫し、3年連続のプレーオフ第2ステージ敗退となった。シーズンオフ、ホルベルト・カブレラが退団、フリオ・ズレータがロッテへ移籍。小久保裕紀がFA移籍で巨人から復帰、寺原とのトレードで横浜ベイスターズから多村仁を獲得。
[編集] チームの特徴
- 戦後チームの球団愛称となった「グレートリング」は鉄道の車輪をイメージし、併せて近鉄の社章や沿線の「大和」(大→おおきな 和→わ に掛けて、大きな輪→グレートリング)地区、並びに合併会社である近鉄の一致団結をイメージしたものだった。しかし当時の英語のスラングで「女性器」を意味していたため、このチーム名を面白がって観戦に来た米軍兵士が「グレートリング」という言葉を聞くたびに大笑いしていたと言われる(グレートリングは米兵の間では性交そのもの、または男性器を意味していたとの説もある。あくまで俗語であり明確な定義がないため真説は不明)。そのため翌年の親会社の変更に合わせて南海「ホークス」と改称している。
- 「ホークス」は南海電鉄の社章が車輪の両側から鷹の羽根が伸びる意匠だったことにあやかったもので(この社章はもともと南海電鉄の前身の1つである阪堺鉄道(現在の阪堺電気軌道とは別)のもので、さらに元をたどれば当時阪堺鉄道がイギリスから輸入した客車に付いていたカーテンのデザインに由来するという)、ダイエー、ソフトバンクがそれぞれ買収した後も現在に至るまで引き継がれている。鶴岡一人の著書『御堂筋の凱歌』には「『コンドルス』も愛称の有力候補に挙がったが、当時の球団代表の頭髪が薄いため『いくらなんでもハゲタカじゃまずいだろう』ということで『ホークス』になった」というエピソードが記されているが、これは後に監督を退いた鶴岡が講演会に呼ばれた時に、聴衆を引き付けるためによく利用した冗談である。また、ソフトバンクに譲渡される際にもチーム名を『コンドルス』にするプランがあったと孫正義オーナーが語っていたが、これもまた自らの頭髪が薄いことにかけた冗談であることは言うまでもない。
- 1948年のフランチャイズ制導入にあたり暫定的に本拠地を甲子園球場に変更。1950年9月12日の大阪球場完成に伴い移転。
- 南海時代はチームの生え抜き選手が監督に就任したが、1981年から2年間指揮を取ったドン・ブレイザーは大リーグでプレーした後1967年に南海に移籍し3年間活躍した。その後、ダイエーになってからは田淵幸一、根本陸夫、王貞治と外様監督を招聘している。
- ダイエー時代は強力打線を前面に押し出した豪快な野球を展開。平和台時代は終盤での逆転勝ちが多かったことから親会社に掛けて「閉店間際の大バーゲン」と呼ばれた。1994年には「おっしょい打線」、2001年には「ダイハード打線」という愛称が付いた。特に2001年以降は、小久保裕紀・松中信彦・城島健司・井口資仁といった中軸を担う日本人選手のレベルが高く、来日以来3年連続で打率3割をマークしたペドロ・バルデスや、ホークス外国人のシーズン最多本塁打をマークしたフリオ・ズレータでさえ、彼らが極度のスランプに陥るか怪我で戦線を離脱しない限りはクリーンアップを打てないほどであった。2004年以降は、それまで打線の中核を担ってきた選手の退団(小久保、井口、城島など)が相次ぎ、新たに中核を担える日本人選手の育成が望まれる。
- 優勝すれば監督の任期は長くなり、逆に優勝できなければ短くなるという傾向はどの球団にも見られるが、ホークスの場合はそれが顕著である。優勝11回の鶴岡一人が23年、優勝1回の野村克也が8年、優勝3回の王貞治は2007年で13年目を迎える。王はGMも兼任しており、近年の野球界ではまれに見る長期政権である。ホークスが福岡に完全に根付き、また、癌手術を受けた王の体調の問題もあるため、今後は秋山幸二総合コーチなどのOBが監督として選出されることが見込まれる。
- 福岡移転後の首脳陣の背番号は基本的に1軍が80番台、2軍が70番台、トレーニングコーチが90番を除く(後述)90番台を使用している。南海最後の監督であり、引き続きダイエーの初代監督となった杉浦忠もこれに基づき、南海時代の71番をダイエーとなってからは81番に変更している。
- チーム名が福岡ダイエーホークスだった1989年から2004年までの16年間、単独の優勝 - 2位・4位 - 最下位はすべて経験しているが、単独3位になったことが1回もなかった。単独3位になる可能性は1994年・1998年・2002年があった。
- 地元福岡では絶対的なファンが多いが関東にも地元に負けないほどのファンがたくさんいる。プロ野球12球団の中では阪神には及ばないが巨人、中日を抜いて二番目に人気の球団である。
- 他球団とは違い若い年齢のファンがたくさんいる。特に川崎宗則、和田毅などの女性ファンもたくさんいる。
[編集] マスコット
- 球団マスコットは総勢8人と12球団最多。いずれもモチーフは鷹。ホークスタウンの住人という設定。ロサンゼルスオリンピックのマスコット・イーグルサムのデザイナーでもあるロバート・ムーアがこのホークファミリーの製作を手がけた。昔、彼らは当時の親会社ダイエーのテレビCMにもたびたび出演していた。
- ちなみに平和台球場を本拠地としていた時には、以下の4人のマスコットが存在した。
[編集] ユニフォームの変遷
- 1938年 - 1940年 「NANKAI」のロゴで前立てにラインが入る。左袖にはボールに羽が生えたマーク。
- 1940年 - 1943年 戦況の悪化によりロゴが漢字となるが、ワッペンはそのまま残された。1944年に親会社・南海電鉄が近畿日本鉄道と合併し近畿日本となったがユニフォームは不明。
- 1946年 - 1947年 前立てラインに新しいチームカラーのグリーンを使用。1947年からユニフォームの左胸に南海のマークを使用。ビジターは「GREATRING」のロゴで後に「N」一文字に。
- 1947年 - 1949年 球団名が南海ホークスとなり、ダークブルーのユニフォームが登場。帽子が白でツバが緑。
- 1948年 戦後の黎明期に縦縞を使用。優勝するものの1年で廃止。
- 1949年 - 1950年 1988年の球団身売りまで使用していたロゴが登場。縁取りは黄色。ビジター用にあたるグレーのユニフォームは鷹のマークだったが、1950年からシールズ型のユニフォームが登場。
- ロゴや鷹のマークなど、この年に登場したホークスの意匠は今竹七郎が制作した。
- 1951年 - 1958年 ボタンが比翼仕立てのユニフォームが登場。ラインも廃止され、シンプルな印象となった。この間、帽子マークが1956年から変更される。
- 1959年 - 1968年 鶴岡監督のアイデアで肩から袖、パンツに太いラインを入れたデザインが登場。1960年から腰番号が付けられる。南海黄金時代を象徴するユニホームであり、オールドファンは南海と言えばこのユニフォームを連想する。帽子のNHマークがNの右側とHの左側の縦線を共有するものから、電車の車輪をモチーフとしたHをNと組み合わせたものに変更された。
- 1969年 深緑をオレンジが挟むユニフォームが登場。しかし最下位ということもあり1年で廃止。
- 1970年 - 1971年 鶴岡時代のスタイルを復活。肩にラインはないが、それ以外は従来どおり。
- 1972年 - 1976年 いろんな色が作成できる伸縮性ニット製ユニフォームの登場により、パイレーツのデザインを参考にした(黒に近い深緑地・黄土色)ベルトレスユニフォームが登場。同時にプルオーバータイプに変更される。1975年にはペットマークがつけられた。
- 1974年 - 1976年 上記のパイレーツ型ユニフォームにプラスする形でアスレチックスを意識したデザイン(黄緑色・黄色)が登場。1975年にペットマークが付けられ、1976年にはビジター用のパンツのラインを廃止。
- 1977年 パイレーツ、アスレティックス型のユニフォームが廃止され、新たに首、袖のラインが緑、黄、赤の3色のユニフォームとなる。ラインのない白地のホーム用ユニフォームも登場し、この年より背番号の上にローマ字で選手名が入る。
- 1978年 - 1983年 広瀬監督就任と同時に肩に太いラインを復活。1980年にホーム用が縦縞に変更されるも最下位のため1年で廃止され、1981年に以前のスタイルが復活。
- 1984年 - 1988年 鶴岡時代を髣髴とさせるデザインが復活するが、皮肉にも南海最後のユニフォームとなった。ビジター用は上半身緑で肩にラインがない。
- 1989年 - 1992年 球団名が福岡ダイエーホークスとなり、三宅一生デザインの縦縞が登場。1991年途中からビジター用ユニフォームをベージュからグレーに変更(投手陣から「捕手の出すサインが見づらい」との指摘があったため)。
- この時に注目を集めたのが鷹の顔をモチーフとしたヘルメットで、ファンからは「ガッチャマンヘルメット」と呼ばれた。
- 帽子は1998年まで(2軍は2000年まで)は黒地だが、FDHマークがホーム用はオレンジ、ビジター用は白。1999年から(2軍は2001年から)はヘルメットと同様に黒地でつばがオレンジ、FDHマークは白となった。
- 2005年 - チーム買収により福岡ソフトバンクホークスに名称変更。レボリューション・イエローがチームカラーとなり、胸に「SoftBank HAWKS」(ホーム)・「SoftBank」(ビジター)のロゴが入る。袖にはソフトバンクのロゴをイメージした2本のラインが入っている。地色はホーム用が白、ビジター用は黒と、ダイエー時代の色を踏襲。帽子・ヘルメットのつばは再び黒となった。
- 2006年7月15日から17日まで「鷹の祭典2006 in ヤフードーム」と題したイベントが開催され、3日間限定のユニフォームを使用。イベントのキャッチフレーズである「BIG YELLOW DREAM」にちなみチームカラーであるレボリューション・イエローをベースにしている。また、同時に登場したつばの色がレボリューション・イエローの帽子は後半戦以降も継続して使用されることになった。つばに違う色をつける形の帽子は、ダイエー時代と同じである。
[編集] 運営会社
- 「福岡ソフトバンクホークス株式会社」
- 球団保有
- 「福岡ソフトバンクホークスマーケティング株式会社」
- 野球及びその他スポーツ施設の経営・管理
- 映像や音声等コンテンツの配信サービス
[編集] ユニフォーム等のスポンサー
- ヘルメット - サニックス(白蟻駆除会社)(02年 - 06年途中)→ベスト電器(07シーズン)
- ユニフォームの袖 - エムシーコーポレーション(01年 - 05年)→アパマンショップ(06年 - )
- パンツ - 日本オラクル(06年)→日本グッドイヤー (07年)
[編集] チーム成績・記録
- リーグ優勝 15回
- (1946年、1948年、1951年-1953年、1955年、1959年、1961年、1964年-1966年、1973年、1999年、2000年、2003年)
- 日本一 4回
- (1959年、1964年、1999年、2003年)
- Aクラス 22回
- (1941年、1965年、1966年、1968年、1970年、1972年 - 1974年、1976年、1977年、1998年 - 2006年)
- Bクラス 38回
- (1938年秋 - 1940年、1942 - 1944年、1946 - 1964年、1967年、1969年、1971年、1975年、1978年 - 1997年)
- 前期優勝 1回(1973年前期)
- レギュラーシーズン1位 2回(2004年、2005年)
- 最多勝 99勝(1955年)
- 最多敗 85敗(1990年)
- 最多引分 16分(1974年)
- 最高勝率 .750(1951年)
- 最低勝率 .283(1940年)
- 連続Aクラス入り回数 17年
- 連続Bクラス入り回数 20年
※1973年は前期1位(通年勝率では3位)でプレーオフに進出し、阪急に勝って優勝。2004年・2005年はレギュラーシーズン1位でプレーオフ第2ステージに進んだが、2004年は西武、2005年は千葉ロッテに敗退。2006年はレギュラーシーズン3位よりプレーオフ第1ステージでシーズン2位の西武を破って第2ステージに進むものの、シーズン1位の北海道日本ハムに敗退。
[編集] その他の記録
- 最小ゲーム差 0.5ゲーム(1954年、1956年)
- 最大ゲーム差 45.5ゲーム(1940年)
- 最高得点 822(2003年)
- 最多安打 1461本(2003年)
- 最多本塁打 203本(2001年)
- 最小本塁打 3本(1944年)
- 最高打率 .297(2003年)
- 最低打率 .184(1943年)
- 最高防御率 1.82(1941年)
- 最低防御率 5.63(1980年)
[編集] 歴代の本拠地
- 1939年 - 1947年 中百舌鳥球場
- 1948年 - 1950年 甲子園球場
- 1950年 - 1988年 大阪球場(※1950年9月より使用)
- 1989年 - 1992年 平和台野球場
- 1993年 - 現在 福岡ドーム (2005年から福岡Yahoo! JAPANドームに名称変更)
※福岡移転後は準本拠地として北九州市民球場でも公式戦を行っている
[編集] 歴代の監督
- 1938年 - 1940年 高須一雄
- 1941年 - 1942年 三谷八郎
- 1942年 加藤喜作(第1期)
- 1943年 高田勝生
- 1943年 - 1945年 加藤喜作(第2期)
- 1946年 - 1964年 山本一人→鶴岡一人(第1期、1962年シーズンは成績不振を理由に数ヶ月間休養し、この間に蔭山和夫(第1期)が代行)
- 1965年 蔭山和夫(第2期、実質指揮を執ることなく急逝)
- 1965年 - 1968年 鶴岡一人(第2期)
- 1969年 飯田徳治
- 1970年 - 1977年 野村克也
- 1977年 穴吹義雄(第1期、この時は臨時代行)
- 1978年 - 1980年 広瀬叔功
- 1981年 - 1982年 ドン・ブレイザー
- 1983年 - 1985年 穴吹義雄(第2期)
- 1986年 - 1989年 杉浦忠
- 1990年 - 1992年 田淵幸一
- 1993年 - 1994年 根本陸夫
- 1995年 - 王貞治(2006年シーズン途中の7月6日から2006年シーズンオフまで手術のため休養。森脇浩司が代行)
[編集] 永久欠番
- なし
[編集] 準永久欠番
- 2:城島健司
- 不動の正捕手であり球界を代表する選手であった城島が、2006年メジャー挑戦でシアトル・マリナーズへ移籍した。球団は、若手捕手の台頭を期待する意味で背番号2番を空け、将来の正捕手に与える方針をとっている。
- 15:藤井将雄
- 「炎の中継ぎ」として活躍し、1999年、当時のパ・リーグ最多ホールド記録を樹立。福岡移転後のリーグ初優勝および日本一の原動力となる。日本シリーズ中に胸部の痛みを訴え、入退院を繰り返しつつも復活を期して2軍で調整していたが、2000年10月13日、チームのV2を見届けたのち、肺がんのために逝去。享年31。
2001年以降、15番は欠番となっており、近い将来正式に永久欠番となることも検討されている。 - 90:景浦安武(あぶさん)
- 水島新司原作の漫画『あぶさん』の主人公で、外野手兼指名打者。無論架空の選手である。連載開始の1973年から2007年現在も90番をつけ続けている。藤原満がコーチ就任時に背番号90を希望するものの、水島から「これはあぶさんの背番号だから」と断られたという逸話があるほどで、この背番号を背負うのはタブーとなっている。そのため、南海時代から90番をつけた人物はなく、現在に至るまで球団の配慮で欠番扱いになっている。
[編集] かつての準永久欠番
- 9:小久保裕紀
- 2003年シーズン終了後に読売ジャイアンツへ無償トレードされて以降、チーム不在の3年間ダイエー時代につけていた「9」は準永久欠番扱いであった。ホークスに復帰する2007年以降、引き続き「9」を付けてプレーしている。
[編集] 主な歴代球団歌
- 灰田勝彦は「歌手よりも野球選手になりたかった」と公言するほどの野球ファンで、野球関連ではこの曲以外にも「野球小僧」「輝けロビンス」(大陽ロビンス球団歌)を歌っている(「輝けロビンス」では作曲も担当)。
- 福岡移転以来、長年公式球団歌としてその役を担っていた。球場(試合開始1時間前に流されていた)の他、ダイエー系列店舗や系列コンビニエンスストアのローソンでもこの曲が流され、優勝の際やシーズン終了のセレモニーで流された。しかし、後述の「いざゆけ若鷹軍団」(当時:公式応援歌)に対して知名度が低く、ソフトバンクに球団移行と共にその幕を下ろすことになった(後年、阿久悠は、この曲が利用されなくなってしまったことを大変遺憾に思うというコメントを発表している)。
- いざゆけ若鷹軍団(作詞:原田種良、補作詞:森由里子、作曲:富山光弘)
- ダイエー時代の球団歌はあくまで「ダイヤモンドの鷹」であったため、こちらは「公式応援歌」であった。福岡ダイエーホークスの設立に併せて制作されたものの、歌詞の中にオリックス・ブレーブスを連想させる「勇者」という言葉があったため、その部分が修正された。2001年からは主力選手(小久保裕紀・松中信彦・城島健司・柴原洋・田之上慶三郎)の歌うバージョンが球場でも流れた(2003年に小久保が巨人に移籍したため、この年限りで使用されなくなった)。その後、ソフトバンクへの球団売却の際、消滅の危機にあったが、この曲に対するファンの支持が高いため(後述)、歌詞の一部分を修正して現在も使われており、ソフトバンク時代からは正式に公式球団歌となった(『ダイエー』の部分が『ソフトバンク』に変更され、また前奏部分と2番と3番の間奏部分に雄叫びや掛け声が追加されている)。ダイエー時代後半にはパラパラやハードロックなどのアレンジが加えられたバージョンや、森口博子が歌ったバージョンも登場していた。
- 2005年11月6日に行われた「ホークスファン感謝の集い」では、田口昌徳が引退セレモニーで熱唱した。
- 福岡ではテレビやラジオでホークスの話題になると必ずと言っていい程BGMにこの歌が流れ、さらにファンを中心にカラオケでもよく歌われる曲のひとつであり、県民にとっては福岡を代表する歌となっており、一種の「県民歌」のようになっている。また福岡吉本から東京へ進出した博多華丸・大吉は舞台に登場する際の出囃子にこの曲のイントロ部分を使用している(ただし先述のように福岡では県民歌のような存在であり、「この曲がかかればホークスの選手が出てくるのが当然」という雰囲気もあるため、さすがに華丸・大吉は福岡では出囃子として使っていない)。
- また、ホークスの選手はもちろんのこと、他球団の選手にも人気があり、カラオケで熱唱する者もいるほどである。またダイエーが親会社だった頃は店内でこの曲を繰り返し流していたため、プロ野球に詳しくない主婦層にも馴染みが深い曲でもあった(ソフトバンクに身売りした現在は「ホークス応援感謝セール」の時だけ流れる)。
- TBSテレビ『アッコにおまかせ!』で「横浜中華街の在日中国人が選ぶ日本の歌」の調査をした際、この歌が第2位にランクインしている(放送当時中華街付近にダイエーが出店していたため)。
- 2007年には、エイベックス所属の音楽グループ「AAA」が「いざゆけ若鷹軍団2007」としてこの歌を歌う。
- 1番の歌詞の第7節目で論争が起こっている。ソフトバンクに身売り後の歌詞は「栄光をめざし」となっているためである。歌詞を勝手に変えたのではないかと言う憶測などもあるが、誤植が浸透してしまったためである。正式な歌詞は「栄光めざし」である。「いざゆけ若鷹軍団」において、第1節目から第8節目までは七五調を採っており、作詞者の原作品では七音である「栄光めざし」となっている。また、曲においても「こう」の部分がスラーのある四分音符2つとなっているため、「栄光めざし」の歌詞が正しい事を裏付けている。
- 可能性(作詞:山本智幸、作曲:山本智幸/久保田光太郎、歌:エスカーゴ)
- 球団公式サポートソング。九州朝日放送全面協力のもと、KBCラジオ内で応援歌タイトルを募集、それをもとにエスカーゴが楽曲制作、KBC野球放送でのオンエアーの他、STOPやオールザッツホークス等のイベントで歌われた。
- なお、エスカーゴは2003年に解散している。
- 勝利の空へ(作詞・作曲・歌:藤井フミヤ)
- 球団公式セレモニーソング。福岡ソフトバンクホークスの誕生に合わせて制作され、2005年の開幕戦で藤井本人によって初披露された。ヤフードームでの試合に勝った時は「勝利の花火」を上げて「いざゆけ若鷹軍団」とこの曲が流れるのが定番となっている。
[編集] 福岡移転後のチームスローガン
[編集] 福岡ダイエーホークス
- 1989年:Just Now For The Fan
- 1990年:Action Baseball
- 1991年:Action Baseball Ⅱ〜嵐を起こせ鷹軍団
- 1992年:BIG CHALLENGE '92
- 1993年:GO WILD! GO!〜野生派宣言
- 1994年:ING 1994年、何かが起こる
- 1995年:AIMING 狙います。
- 1996年:一二三いかせます。
- 1997年:Wild but Balanced
- 1998年:AIMING2
- 1999年:Get the top
- 2000年:めざせ! V2
- 2001年:Super Hawks 2001〜鷹の時代
- 2002年:2002 Super Hawks AGAIN〜All Together
- 2003年:Victory Again〜羽ばたけHAWKS
- 2004年:GOLDEN HAWKS〜果てしなき勝利への挑戦
[編集] 福岡ソフトバンクホークス
- 2005年:めざせ世界一!
- 2006年:めざせ世界一!
- 2007年:めざせ世界一!
[編集] エピソード
[編集] 新規加盟に際して
- 南海軍は1938年のリーグ戦からの出場を目指して同年3月1日に創部し、3月29日に日本職業野球連盟に加盟申請を行ったが、既に1937年度から8チームでのリーグ戦を開催していたため、南海軍の出場を認めると9チームで開催することとなり、日程上1チームは試合から外されてしまう。
また当時の部員は監督の他選手14名と人数的にも少ないため、加盟が認められるかどうか不安な材料も多かった。しかし、連盟とリーグ参加各チームは条件付きの参入を決めた。これは春季リーグの参加は開幕が近付いており日程編成の調整が難しかったことも考えられているが、一番の理由としては「選手を補強し、その実力を考慮に入れた上で秋季リーグからの参加を認める」というもので、春季リーグはいわばリーグ戦に参加できない準加盟チーム扱いでのスタートだった。
[編集] 1試合最多失点試合
- 日本のプロ野球がまだ1リーグの時代だった1940年4月6日の阪急軍戦で、南海軍は2-32の30点差をつけられての記録的大敗を喫した。この2チームの後身、ダイエーvsオリックスは、2003年7月26日に福岡ドームで対戦した時に26-7、また同年8月1日に神戸・Yahoo!BBスタジアムで対戦した時には29-1でいずれもダイエーが大勝している。特に8月1日のそれは2リーグ制以後の最多得点試合・最多点差試合であった。まだ同一カード2連戦で55得点・失点はプロ野球記録となっている。
[編集] 上空にB-25
- 1942年4月18日、南海軍は甲子園球場で大洋軍と対戦していた。午後3時ごろ、東から双発機が飛来し、そのまま西の方へ過ぎ去った。この双発機こそ、ドーリットル空襲に参加したB-25の1機(15番機。機長ドナルド・G・スミス中尉)であった。このB-25は直後に神戸を爆撃した。なお、この日行われたプロ野球の試合は、この試合のみだった。
[編集] 最多得点完封勝利試合
- グレートリング時代の1946年7月15日に高岡高等専門学校の校庭で開かれたゴールドスターとの対戦は、8回に累計16人を繰り出し1イニング12得点の大量得点を含め26-0の最多得点完封勝利の記録を達成した。この記録は2005年3月27日の千葉ロッテvs東北楽天で同スコアでロッテが勝った試合と並ぶタイ記録。
[編集] 没収試合で掴んだ初優勝
- 1946年のペナントレースは11月5日の最終日まで優勝の行方がわからなかった。この日、後楽園球場で東京巨人軍vsセネタース、そしてグレートリングvs中部日本軍の変則ダブルヘッダーが行われ、そこで巨人が勝ち、かつグレートリングが敗れると2チームが同勝率で1位となり、同点決勝戦に持ち越される可能性があった。
だが第1試合で巨人軍が1-4で敗れたため、グレートリングは出番を待たずに創部9年目、悲願のリーグ戦初優勝を決めた。なお、グレートリングはその最終戦で別所昭を先発に迎えたが、鼻血と失神により途中降板するアクシデントがあり4-7で敗戦している。 - 後年、当時の山本(鶴岡)一人監督兼内野手は「優勝したのはパシフィックの藤本定義さん(同チーム監督)のおかげだよ」と回顧している。というのは、パシフィックは戦前既存球団に在籍していた藤井勇(元阪神)、白石敏男(元巨人)の両選手を獲得。すでに両選手は戦前所属した球団から給料をもらっていなかったので藤本は自由契約の身分だと考えて獲得したが、日本野球連盟は調査をすることを決めて「調査が完了するまでは公式戦出場を認めない」とした。だが、それを無視して2人を無断で5月の公式戦4試合に出場させてしまい、後にこれらの試合が没収試合となってしまった。
このうち2試合がグレートリング戦だった。5月23日の試合は元々7-5でグレートリングが勝っていたので勝敗には関係ないが、26日の試合はパシフィックに4-7で敗戦していた。これが没収試合の規定で9-0でグレートリングの勝利となった。もし没収試合がなく、最終戦が上記の成績だったら、巨人vsグレートリングの同点決勝となっていた。
[編集] 毎回得点試合・毎回失点試合
- 1952年6月7日後楽園球場で開かれた東急フライヤーズとの対戦で、日本プロ野球史上初の毎回得点記録が達成された。それも1回から5回までは毎回2点ずつを小刻みに取り、最終9回には一挙4点を挙げ18-4での大勝劇で史上初の快挙を飾った。スコアは毎回得点の項にテーブルとして掲載している。
- 逆に毎回失点を喫してしまった経験を2回持っている。1回目は1975年5月11日の阪急戦(西宮球場)で4-15で敗れた試合で阪急に毎回得点(この時は阪急がホームなので9回の攻撃がなく、攻撃が行われた8回までの得点で毎回得点が成立)を献上している。2回目はダイエーに移行した1997年5月7日に福岡ドームで開かれた西武との対戦で、こちらは7回に大量6点を失うなど0-21の完封負けを喫している。
[編集] 日本シリーズ最少観客動員記録
- 1953年の日本シリーズ(巨人戦)は本来第5戦を後楽園球場、第6・7戦を大阪球場で行う予定だったが、日米野球の日程の関係、並びに当時の大会規定で「第1・3・5・7戦と第2・4・6戦は毎年両リーグが交互に指定し、また第1・2戦、第3・4戦、第5・6戦はそれぞれ連続して同じ地区の球場を指定すること」という取り決めもあり、予定を変えて5・6戦を南海主催、7戦を後楽園という日程として行った。この内第6戦は本来の大阪球場ではなく大阪タイガースの本拠地阪神甲子園球場を借りて開催したが、有料観客はわずか6346人というシリーズ史上最少記録となった。一部では大阪球場の収容可能人数が約3万人しかないため、より多くの観客を呼び込みたいという思惑から甲子園での開催を希望したという説もあるが、それが裏目に出た格好となった。
[編集] 6人の2ケタ勝利投手
- 2005年に千葉ロッテマリーンズから2ケタ勝利投手が6人出たことで話題となったが、ホークスはこれを南海時代に2回記録している。
- 1956年は田沢芳夫15勝、野母得見14勝、長光告直13勝、小畑正治12勝、皆川睦男11勝、戸川一郎10勝。
8月15日時点で6.5ゲーム差をつけていた西鉄ライオンズが3人の20勝投手(島原幸雄25勝、西村貞朗21勝、稲尾和久21勝)を前面に押し出して8月の7連勝、さらに9月の9連勝で南海を追い上げ、西鉄が0.5ゲーム差で逆転優勝を果たした。 - 1963年は森中千香良17勝、ジョー・スタンカ14勝、杉浦忠14勝、三浦清弘13勝、皆川12勝、高橋栄一郎11勝。
この時も7月10日時点で14.5ゲーム差をつけていた西鉄に、終わってみれば1ゲーム差をつけられての逆転優勝を許している。この年の西鉄は20勝投手が稲尾(28勝)だけだったが、直接対決で9勝20敗1分けと大きく負け越したことが南海にとって大きな痛手となった。
[編集] 祝勝会が残念会に
- 1963年の南海は序盤から快進撃を続け、独走態勢で前半戦を折り返したが、後半戦に入って西鉄ライオンズの猛追を許し、ついに10月になって西鉄と首位をほぼ日替わりとなる一進一退の攻防を繰り広げた。西鉄が残り4試合の時点で南海は全日程(150試合)を終了。85勝61敗4引き分け(勝率.582)で、西鉄の結果待ちとなった。
南海が優勝するには西鉄が最終の近鉄4連戦に2勝以下することが条件であり、3勝1敗なら勝率で並ばれて同点決勝(プレーオフ)に持ち越される。そして4連勝をすると逆転優勝となる。その為、南海の選手らはその西鉄の結果を気にしつつ祝勝会の準備をしていたという。
だが西鉄が最終4連戦を全勝し、最大14.5ゲーム差をひっくり返す奇跡の逆転優勝。南海の祝勝会は残念会となってしまった。
[編集] 死んだフリからの逆転優勝
- 1973年から、パシフィック・リーグでは前後期制(年間130試合を65試合ずつに区切ってリーグ戦を行い、前期と後期の優勝チームが異なった場合に5戦3勝制のプレーオフ〔リーグ優勝決定戦〕を争う)が導入された。
- 南海はこの年の前期、ロッテとの接戦の末に優勝し、プレーオフ出場権を手に入れた。後期も制すれば自動的に年間チャンピオン獲得となるが3位(優勝は阪急)に終わった。
- 当時の野村克也監督は「2ステージの短期決戦になるから、前期リーグが全て。後期で勝てるという保障はどこにもない。それに短期決戦は打力ではなく投手力の戦いになるだろう。よそのチームがどう考えているかわからないが、ウチは投手決戦だ」と、前期とプレーオフに力を入れたことを明かしている。
- プレーオフ戦前の下馬評では後期を制した阪急に勢いがあること、そして後期の南海は阪急に全く勝てなかった(12敗1分け)ことから「阪急圧倒的有利」と言われた。しかし野村監督の奇数戦(第1戦、第3戦、第5戦)重視の方針が奏功して3勝2敗でプレーオフを制覇し、2シーズン制最初の年間チャンピオン(通算では1966年以来7年ぶり12回目。南海として最後のリーグ優勝)を獲得したが、この年の勝率順の年間総合順位は3位(勝率.540)だった(1位はプレーオフの対戦相手・阪急〔.616〕、2位はロッテ〔.588〕)。年間勝率2位のチームがプレーオフを制してリーグ優勝になった事例は過去に前後期制で3回(1975年・阪急、1979年・近鉄、1982年・西武)、2004年から導入の上位3強トーナメント形式で2回(2004年・西武、2005年・ロッテ)あるが、年間勝率3位のチームがリーグ優勝になったのは2006年現在、この南海のケースだけである。
[編集] 日本名をつけた外国人選手
- 1979年、アメリカからフランク・オーテンジオ選手を獲得した。当初は本名での出場登録だったが、当時巨人で活躍し、世界のホームラン王といわれた王貞治(現監督兼ゼネラルマネージャー)にあやかって、「王天上(おうてんじょう)」という日本名をつけて公式戦に出場させた。しかし期待されていたほどの活躍ができず2年間で退団してしまった。
[編集] 野球用具未着で試合中止
- 1979年7月12日、南海は日生球場での近鉄とのナイターでの対戦を行い、試合後移動日なしの当日移動で後楽園球場での日本ハムとの対戦に臨むことになっていた。
ところが、肝心の野球用具を乗せたバスが東名高速道路日本坂トンネル(静岡県)の火災事故により、大渋滞で球場に到着できなくなってしまい、代わりの野球用具を調達することもできないので、7月13日の試合が取りやめとなる羽目となった。
[編集] 堺市への幻の移転計画
- 大阪球場は関西国際空港の開港(1994年)に伴う難波地区の再開発計画の対象地域に指定されていたため、1990年シーズンを以って閉鎖されることが決まった。親会社である南海電気鉄道は大阪球場に代わる新球場の建設を検討していたところ、大阪市に隣接する堺市が、当時の市長の意向で熱心に誘致を進めた。当初の計画案では中百舌鳥球場(二軍本拠地兼練習場)もしくは大浜公園野球場を増改築して本拠地とし、改修中の暫定措置として日本生命球場や、大阪市住之江区内で計画されていた新球場(現在の大阪市南港中央野球場)を使用することも検討されていた。しかしダイエーへの球団譲渡、福岡市への本拠移転によってこの計画も幻となってしまった。
大阪球場はその後1989年・1990年の2年間、近鉄バファローズが準本拠地として使用したのを最後に役目を終えた。再開発は閉鎖後から行われる予定だったが着工がずれ込んだため、暫定措置としてフィールド部を住宅展示場として使用した後、1998年に完全閉鎖。その後の再開発事業によりなんばパークスとなった。また中百舌鳥球場は地元の草野球や少年野球など一般利用向けに使用されていたが、2001年に閉鎖され、跡地にはマンションが建設された。
[編集] マンションを合宿所に
- 1989年、チームは大阪府から福岡県に本拠地を移し「福岡ダイエーホークス」として新たなスタートを切ったが、ダイエー球団発足当時は若手独身選手専用の合宿所が整備されておらず、暫定的な合宿所を糟屋郡古賀町(現:古賀市)にあるマンションの一部を利用して運用した。なお合宿所は1990年、福岡市東区西戸崎に建設された。
[編集] 生卵事件
- 1996年5月9日、日生球場での近鉄戦に2-3で破れた試合後、ふがいないチームに苛立ちを募らせた一部のファンが、王監督や選手らの乗ったバスに向かって生卵を投げつけるという事件が起きた。チームはこの日の敗戦で4連敗となり、この日時点での成績は9勝22敗と、借金は13に膨らんでおり勝率も3割を切っていた。
この年は開幕から低調で、生卵事件の前日にもチームの敗戦に怒ったファンが選手バスを取り囲む騒ぎが起きるなど、王監督の采配を疑問視するファンの暴走が相次いだ。また生卵事件の際は、ファンが「お前らプロか」というプラカードを掲げ、「貞治やめろ」コールも行っていた。さらに1996年9月16日、西武ライオンズに0-12で大惨敗した時、「頼むからヤメテクレ王」という横断幕を掲げられたり、発炎筒をたかれたり、あげくの果てに、「やる気が無いなら辞めちまえ」と大合唱されたこともあった。
これらの暴走は、福岡ダイエーホークス誕生から1996年で8年目のシーズンを迎えたにもかかわらず、当時のチーム状況は一向に上昇の兆しがなかったため、ファンが待ちきれなくなったのが理由といわれている。
なお、この試合は日生球場で行われた最後のプロ野球公式戦であった。
[編集] 同一カード21年連続負け越し
- 南海の低迷時代と西武の黄金時代が重なったため、西武が初優勝した1982年から南海は西武にシーズン負け越しを喫し続けた。球団が福岡に移転しても西武への苦手意識は払拭できず、その負けっぷりは南海時代と相変わらずであった。1999年に優勝してからチームは黄金時代へと突き進んだものの、松坂大輔や西口文也などの本格派投手を大の苦手にしていたため、西武戦ではその後もシーズン負け越しが続いた。2003年にようやく西武に16勝12敗と勝ち越し、21年連続同一カード負け越しという不名誉な記録にピリオドが打たれた。
- 21年連続で西武に負け越した原因は2つある。1つは西武球場・西武ドームでの勝率の悪さで、1982年から2002年のうち所沢で勝ち越したのは1983年(7勝4敗2分け)と1993年(7勝6敗)の2回しかない。特に2001年は福岡ドーム・北九州でのホームゲームで9勝5敗と勝ち越しながらも西武ドームで3勝11敗と惨敗、これがリーグ3連覇を逃す最大の原因となった。また7月以降の対戦成績で勝ち越したのは1986年(7勝6敗1分け)のみ、五分の成績を残したのも1982年(6勝6敗1分け)と1989年(7勝7敗1分け)の2回だけである。そのため6月までは西武戦で勝ち越しながらも最終的に対戦成績をひっくり返されたのが1983年(6勝3敗1分け→11勝13敗2分け)・1984年(8勝6敗→11勝14敗1分け)・1993年(6勝4敗1分け→10勝15敗1分け)・1997年(8勝5敗→11勝16敗)と4回もある。西武への連続負け越しが始まる前年の1981年は西武球場で6勝5敗1分け、7月以降は7勝4敗2分け。連続負け越しがストップした2003年は西武ドームで6勝5敗、7月以降は8勝4敗だった。
[編集] 2000年の日本シリーズ
- 2000年の日本シリーズは変則日程で行うこととなったが、これは福岡ドームを日本脳神経外科学会に貸し出したためである。
1997年に日本脳神経外科学会が2000年10月24日から27日まで貸し出すように依頼し、福岡ドーム側はこれを球団の許可なく承諾してしまった。その後、球団はシリーズ開催の可能性を考えて期日変更を求めたが、日本脳神経外科学会はすでに日程を発表した後で、国内外からおよそ2万人あまりの人員が集結する大規模な総会ということもあり、これを拒否した。
そこで中内正球団オーナー代行(当時)はシリーズ開催地のセパ入れ替え・他のパ・リーグチームの本拠地球場での開催・シリーズ日程そのものの変更・長崎ビッグNスタジアムなど九州内の他球場での開催等を検討・要請したが、いずれも不可能となった。
結局、日本脳神経外科学会側が26日の学会を16時までから12時までに短縮するなどの協力をしたこともあり、3連戦と4連戦の変則日程で行うことが8月21日に発表された。このシリーズは2勝4敗で敗れたが、変則日程が影響したともいわれている。なおシリーズ終了後、球団は開催日程確保を怠ったとして日本プロ野球機構に制裁金3000万円を支払うこととなった。
[編集] 30本カルテット
- 2001年は、小久保裕紀の44本を筆頭に、松中信彦が36本、城島健司が31本、井口資仁が30本と、30本塁打以上が1チームに4人と、パ・リーグでは史上初の快挙、日本人選手のみでの達成も日本初の快挙であった。また、チーム全体でも203本塁打を記録し、チーム記録を更新した。
- ちなみにこの記録は、セ・リーグでは以下の4チームが記録している。
[編集] 台湾での公式戦
- 前述のように、ダイエー時代の2002年5月14日・15日には、台北市立天母棒球場でオリックス・ブルーウェーブとの2連戦を開催した。元オリックス球団代表・井箟重慶によると、台湾での公式戦はもともとオリックスが計画していたものの、収支面の見通しが立たずに断念。計画が宙に浮く格好になっていたが、2002年にダイエーが開催に漕ぎ着けたものだったという。
- 天母棒球場の収容人員は1万人そこそこで、しかも興行権を台湾企業に6000万円で売却したため、2試合を開催したとしても経費を差し引くと収支はトントンである。福岡ドームで試合を行えば1試合で1億円の収入になるのだが、ダイエーがそれを敢えて捨てて台湾での公式戦開催に踏み切ったのは、将来的な経済波及効果への期待からである。台湾から福岡・北部九州へ訪れる観光客は年間約25000人。これがホークス効果で増えれば10億円規模の地元還元へと繋がると見積もったのである。実際に試合当日の球場周辺には、「柳川・阿蘇・スペースワールドなどの観光地を巡った後、夜は福岡ドームでホークス戦観戦」といった内容のパッケージツアーのパンフレットが並べられていたという。
- 一方、台湾側にも公式戦開催にはメリットがあった。台湾プロ野球は中華職業棒球聯盟(CPBL)として1990年にスタートしたものの、1997年に起こった八百長問題、さらに後発の台湾大聯盟(TML)との対立によってファン離れが進んでいた。そのため人気回復策として日本のプロ野球チームを招聘しようと考えていたのである。もちろん台湾国籍を持つ当時のダイエー監督・王貞治の存在もその考えに至る大きな要因であった。この試合にかける台湾側の期待は大きく、試合開始前のセレモニーには中華民国総統・陳水扁、台北市長・馬英九が駆けつけるほどであった。試合は台湾でも人気の日本人歌手・松浦亜弥の始球式で始まり、第1戦は5-4でダイエーがサヨナラ勝ち、第2戦は打撃戦の末にオリックスが8-7で勝利した。
- ただし、台湾での公式戦を開催したことで新たな問題点も発生している。1つは相手チームの説得で、翌2003年4月には高雄市で西武ライオンズとの2連戦を予定していたが、西武との交渉がまとまらず開催には至らなかった(高雄での開催が予定された2試合は、北九州市民球場で代替開催された)。また台湾での試合後、ダイエーは長野で西武との2連戦、さらに大阪ドームで大阪近鉄バファローズとの2連戦と遠征が続き、台湾での第2戦から5連敗を喫してしまった。これが原因で台湾遠征前には首位だったダイエーは順位を落とし、結果的にこの年は2度と首位に返り咲くことはなかった。これを考えると、選手のコンディションを維持するための日程を作成するというのも新たな課題と言えるかもしれない。
[編集] 猛打爆発の2003年
- この年は前年まで不動の4番だった小久保裕紀が西武ライオンズとのオープン戦で、本塁でのクロスプレーで捕手・椎木匠と交錯、右膝靭帯断裂の重症を負い、シーズンを棒に振ってしまう。そこで5番打者の松中信彦と6番打者の城島健司をそれぞれ4番・5番に据え、2番だったペドロ・バルデスを6番に置いた。これで3番の井口資仁を加えた中軸が完全なジグザグ打線となり、しかも全員が3割を記録(井口.340、松中.324、城島.330、バルデス.311)ということもあって一気に打線が爆発。特にこの4人は揃って100打点以上(井口109、松中123、城島119、バルデス104)を叩きだし、史上初の100打点カルテットを形成。小久保不在の三塁には若手の川崎宗則が定着し、1番村松有人、2番川崎、3番井口の3人は揃って30盗塁以上をマークするなど走りまくった。さらに中軸の4人に加え8番の柴原洋が打率.333、村松も.324をマーク。同一チームから3割打者を6人輩出したのも史上初の快挙(それまでの記録は1987年・読売ジャイアンツと、1996年・広島東洋カープの5人)で、史上初のチーム打率3割を達成するのではないかと期待された。終盤村松の離脱、川崎の打率低下もあり、大記録は達成されなかったが、結局この年のチーム打率が.297と、1999年に横浜ベイスターズが記録したチーム打率記録を更新。さらにチーム得点記録など幾多のプロ野球記録を更新した。この強力打線に加え斉藤和巳ら投手陣の活躍もあり全球団に勝ち越してのリーグ制覇、さらに日本一へと上り詰めた。
- この打線の爆発に加えて小久保の戦線復帰もあって、「2004年のダイエーはどれだけ打つのか」と期待されたが、小久保が巨人への無償トレードによって退団したため実現しなかった。
[編集] 福岡勢初の地元での日本一
- これまで福岡県を本拠地とするプロ野球チームは1956-1958年に西鉄ライオンズ、また1999年には福岡ダイエーホークスが、それぞれ日本シリーズで優勝しているが、全てビジター(前者3回は後楽園球場・読売ジャイアンツ、1999年はナゴヤドーム・中日ドラゴンズとの対戦)での達成だった。
- 福岡のファンは地元での日本一を待望していたが、その念願が2003年に成就された。阪神タイガースとの日本シリーズは大会54年の歴史で初めて全試合ホームチームが勝ちあがる「内弁慶シリーズ」といわれ、地元・福岡ドームでは第1戦を5-4でサヨナラ勝ちする以外は全て圧勝で、最終戦でも阪神の反撃を2点にしのいで福岡移転後2回目(前身の南海時代を含めると4回目)の日本一を地元で獲得した。
- またホークス自体も1959年(後楽園・vs巨人)、1964年(甲子園・vs阪神)、1999年(ナゴヤドーム・vs中日)と過去3回の日本一が全てビジターだったので、これが地元で初の日本一獲得となった。
[編集] 東京での主催遠征
- 2004年6月15日、初めて東京ドームで主催ゲーム・対大阪近鉄バファローズ戦を開催した。これまで東京ドームは日本ハムファイターズが本拠地としていた(現在でも読売ジャイアンツ(巨人)が本拠地としている)ため主催ゲームを行えなかったが、日本ハムが札幌ドームに移転したことに伴って、東京ドームでは巨人とヤクルトスワローズの許諾が得られればパ・リーグの各チームが自由に主催できるようになった。これを受けて、近鉄戦2連戦の内の第1試合を王貞治監督の監督1000勝記念試合として王の古巣・巨人の本拠地でもある東京ドームで開催した。なお第2試合(6月16日)は福岡ドームで開催された。
[編集] 大阪とホークスの今
- 京セラドーム大阪周辺はかつての南海ホークスファンが多く住んでいた地域であり、広告に南海部品(オートバイ用品のチェーン店。南海電気鉄道や南海ホークスとの関連はない)の文字があることなどから、今でも大阪ドームのレフトスタンドでは南海時代の球団旗が振られ、南海時代のユニホームを着るファンがいる(先述の生卵事件の時も一部のファンが、チームのあまりのふがいなさに「南海復活」という幕をスタンドに掲げていた)。オリックス主催の京セラドーム大阪では、平日、休日問わず多くの観客を動員し、ホークスはビジターであるが、ホームチームと同じ位、もしくは、それ以上の観客が応援する。私設応援団も福岡の袴姿(鷹道連合)ではなく、南海カラーの濃緑の法被を着てリードしている。緑の法被を着ている私設応援団(全国緑士グループ)は九州、関西、関東とあるが、本部は福岡ではなく大阪である。(ただし、鷹道連合は九州外での活動をほとんど行わないため関西以東では全国緑士グループのみが活動を行っている。)他にも、南海カラー(白・濃緑・マゼンダ)の選手個人の応援旗が用意される、「南海ホークスの歌」も頻繁に演奏される、「いざゆけ若鷹軍団」の歌詞中の「ソフトバンクホークス」を「南海ホークス」に替えて歌う、病気療養中の王貞治監督を励ますのではなく、南海戦士であった、森脇監督代行を応援する等々興味深い光景が見られる。*また南海時代にホークスの少年野球チームとして堺市に結成された「ジュニアホークス」は立花龍司(千葉ロッテマリーンズコンディショニングディレクター)・元木大介(元巨人)・西浦克拓(元日本ハム)・中村豊(阪神タイガース)・的場直樹(ソフトバンク)・山田真介(広島東洋カープ)を輩出したチームとして知られるが、このチームは現在も活動を続けており、「立花龍司のメジャー流少年野球コーチング」(高橋書店)では彼らの後輩たちがモデルとして登場している。ジュニアホークスのユニフォームは南海末期(1984年-1988年。ただし、ビジター用も『Hawks』のロゴとなり、ホーム用には肩のラインがない点が異なる)のものを踏襲しており、右袖には1978年から1988年まで使われた南海のペットマークをアレンジしたマークがつけられている。なお、以前は野村監督時代末期(1977年)のデザインを踏襲したものが使われたこともあった。歌手やしきたかじんも所属していた。
[編集] スパイ疑惑
- ダイエー時代の1998年、球団職員がアルバイト学生に金銭を渡し、相手キャッチャーのサインを応援バットの動きで選手に教えさせていた、という疑惑が西日本新聞の報道によって持ち上がった(疑惑を持たれた選手は吉永幸一郎・大道典良・柳田聖人)。写真付きで大々的に報じられたため問題になったが、フロントはこれを強く否定。その後パ・リーグ特別調査委員会による調査も行われたが証拠は挙がらず、現在でも実際にあったかは不明のままとなっている。なお、スパイ行為は本拠地(当時の福岡ドーム)で行われていたと報道されたが、疑惑の3選手の打率を他球場と比較したところ、2選手についてはわずかに本拠地での打率は高かったが、残りの1選手は本拠地の打率の方が低かった。
[編集] プレーオフの悲劇
ホークスはパ・リーグで2004年度から導入されたプレーオフ制度で、3年連続してプレーオフ第2ステージの出場権を得たものの、リーグ優勝を逃している。
- 2004年(西武ライオンズ戦)は第1戦、第4戦を制し、第5戦も延長戦に持ち越すが、11回で惜敗。2005年(千葉ロッテマリーンズ戦)は2連敗の後の第3戦9回からの猛攻で同点、さらに10回の逆転サヨナラで流れを変え、第4戦も勝利し逆王手をかけるが、第5戦は8回のロッテの猛攻に逆転を許し、2年連続して最終戦で優勝を逃してしまった。
- これに、パ・リーグの小池唯夫会長は2005年の決勝戦終了後、「ソフトバンクには2年連続して残念な結果を生み出すことになってしまった」とした上で、リーグ戦から決勝戦までの日程間隔の開き(2週間前後)を問題視し、今後この制度の見直しを含めた再検討が行われることを示唆した。
- 2006年はレギュラーシーズン3位通過から第1ステージを、勝ち進んだが、第2ステージで敗れ、プレーオフ導入後3年連続V逸となった。
- ただし2006年までのプレーオフで対戦したチームに対してレギュラーシーズン中の勝ち越しが実は一度も無い(2005年に対戦したロッテとは五分五分だった)。
[編集] 「倍返し。」
- 先述のように2005年にレギュラーシーズン1位ながら千葉ロッテマリーンズにプレーオフで敗れたことから、球団は翌2006年の対ロッテ戦のキャッチフレーズを「倍返し。」として、シーズン開幕前に球団製作のCM(ロッテ側からもボビー・バレンタイン監督および選手数名が特別出演している)を大々的に放送した。またロッテ戦限定で球団マスコットのハリーホークもパワーアップした「スーパーハリー」となった。ヤフードームでの試合でも対戦を盛り上げるために様々なイベントが催され、勝った際にはビジョンに「倍返し。成功」と大きく表示。通常の試合では8発打ち上げられる勝利の花火も、ロッテに勝つと倍の16発打ち上げられた。この年の対ロッテ戦は15勝5敗と大きく勝ち越した。
[編集] 天敵はジャイアンツ
- 日本シリーズに13回出場しているホークスだが、読売ジャイアンツ以外のチームと日本シリーズを行った年(1964年と2003年は阪神タイガース、1999年は中日ドラゴンズ)はすべて勝利しているのに、巨人が相手だと1959年以外は敗退している。1959年はそれまで機動力を重視してきたチームの方向転換(400フィート打線を軸とした攻撃陣の強化)に成功し、かつ杉浦忠という、西鉄ライオンズの稲尾和久に匹敵する切り札投手を獲得した結果の日本一だが、巨人の第2期黄金時代(水原監督時代)やV9(川上監督時代)と重なるなど、不運な面もあることは否めない。
- 巨人以外のチームとシリーズを行ったのはわずか3回であり、またヤクルトスワローズ・横浜ベイスターズ・広島東洋カープとはシリーズを戦ったことはないが、巨人以外の複数チームと戦って負けたことがないのは、ホークスだけである。
- 最近の交流戦ではホークスの戦力上昇と巨人の凋落があいまって、立場が逆転している様相を見せている。2005年から始まった交流戦の戦績は2006年の交流戦終了まで8勝4敗でホークスが大きく勝ち越している。また、内容的にも2005年の敬遠中の盗塁成功とか2006年の斉藤和巳の準完全勝利など、ホークスの方が格上の戦いぶりを見せている。
[編集] 近鉄との合併計画?
- 2004年には千葉ロッテマリーンズや西武ライオンズとの合併が打診されたが(プロ野球再編問題 (2004年)を参照)、1973年にも他球団との合併の噂があった。
- 1973年のオフ、日拓ホームフライヤーズの西村昭孝オーナーがロッテオリオンズとの合併計画を持ち出した。西村は「パ・リーグに将来性はない」として1リーグ制移行を見据えた球団合併を行うことにしたが、このとき関西のスポーツ紙が先走って南海ホークスと近鉄バファローズの合併を報じた。合併についてはまだ明らかにされていなかったにもかかわらず、球界は騒然としたが、その後日拓が日本ハムへ身売りしたことで1リーグ問題も収束に向かい、近鉄との合併の噂も自然消滅した。
- なお前述のように戦中、親会社の南海は近鉄と合併していて、この合併が解消されていなければ、近鉄バファローズそのものが誕生していなかった。
※詳しくはプロ野球再編問題 (1973年)を参照
[編集] 王シュレット事件
- (ワンナイR&R内「王シュレット事件」参照)
[編集] 地元との連携
[編集] 勝ったら企画
- 地元企業・商店が後援のため、球団と提携して各種イベントや、試合で勝利した場合に割引を行なうところが増えている。
[編集] 小売業との連携
- ダイエー時代は小売での競合相手である岩田屋、井筒屋、大丸などの小売業はセールなどは消極的であったが、ペットマークなどの使用の自由化(ロイヤリティーの無料化)といった営業努力、さらに球団の福岡での活躍が重要視されるなど「地域密着」を打ち出すようになり、各種企業の協賛も増えた。ソフトバンクになってからも連携は続いている。最近ではイオン、ゆめタウン、デオデオなど福岡県以外を本拠地とする企業でも地元に店舗を置いていることから協賛する例も多い。
[編集] アビスパ福岡との連携
- アビスパ福岡とホームページをリンクしており、アビスパの選手がヤフードームへ、ホークスの選手が博多の森へと積極的に足を運び交流している。ヤフードームではアビスパの試合のCM等が放映されている。
[編集] その他の業種
[編集] 在福局との連携
- ホークスは、ダイエー時代から在福各局との連携が盛んで1999年の初優勝及び日本一の時には、王監督以下主要選手が毎日、九州・福岡地方ローカルのテレビで見ない日はないくらい出ていたこともある。
[編集] 応援番組
[編集] 現在放送中の応援番組
- 瞬感スポーツ(RKBテレビ)
- ザ・プロ野球~RKBエキサイティングホークス(RKBテレビ)
- RKBエキサイトナイター(RKBラジオ)
- ホークス歌の応援団(RKBラジオ)
- 月刊!ホークス(KBCテレビ)
- KBCホークスナイター(KBCラジオ)
- 夜はこれから!ホークス派宣言(KBCラジオ)
- とべとべホークス(TNC)
- 夢空間スポーツ(FBS)
- スポーツスタジアム(TVQ)
- TVQスーパースタジアム(TVQ)
- MXスタジアム(TOKYO MX)
- プロ野球三都物語(RKBラジオ)
※プロ野球三都物語は開幕前に1年に1度放送。
[編集] 過去に放送されていた応援番組
- とことん!ホークス(MONDO21)
- That's Hawks(スポーツアイESPN)
- JUMP UP! ホークス(FBS)
- 熱血!!タカハチ組(TVQ)
- 月刊アビ鷹どんぶり(KBC)
[編集] 応援スタイル
[編集] メガホンダンス
福岡ソフトバンクホークスの応援は、前身のダイエー時代から続く『メガホンダンス』(以下、メガダン)というもので、他の球団では見られない独自の応援といえる。 主に外野スタンドのファンが、ホークス攻撃時にメガホンを持ち、選手によって異なるダンスを選手応援歌やヒッティングマーチに合わせて踊る。 1999年より、球団から『応援パフォーマンスビデオ・DVD』が販売されている(一昨年からDVD、今年からビデオ販売なし)。 主にヤフードームでは、メガダンに集中しすぎて、他球団のファンにみられる声を出しての応援をしない人、欠ける人が多々見受けられ、問題視する声も上がっている。
[編集] ジェット風船
7回のホークス攻撃前の「いざゆけ若鷹軍団」演奏後に黄色のジェット風船を飛ばす(企業とのタイアップイベントの関係で違う色の風船を飛ばす場合もある)。また、ホークスが勝利した場合は「白星」にかけて白いジェット風船を飛ばす。
[編集] 関連項目
- 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧
- あぶさん
- 景浦安武
- 南海土建野球部(1951年 南海2軍の選手が出向して参加し話題に)
[編集] 外部リンク
00 ブライアン・ブキャナン | 0 仲澤忠厚 | 1 柴原洋 | 3 松中信彦 | 4 アダム・ハイズデュ | 5 松田宣浩 | 6 多村仁 | 7 大村直之 | 8 江川智晃 | 9 小久保裕紀 | 10 本間満 | 11 小椋真介 | 12 高谷裕亮 | 13 高橋秀聡 | 14 馬原孝浩 | 16 篠原貴行 | 17 山田秋親 | 18 新垣渚 | 19 森福允彦 | 21 和田毅 | 22 荒川雄太 | 23 城所龍磨 | 24 高橋徹 | 25 大野隆治 | 26 的場直樹 | 27 中西健太 | 28 大隣憲司 | 29 領健 | 30 長谷川勇也 | 31 佐藤誠 | 32 森本学 | 33 星野順治 | 35 クリストファー・ニコースキー | 36 明石健志 | 37 福田秀平 | 38 神内靖 | 40 藤岡好明 | 41 倉野信次 | 43 リック・ガトームソン | 44 水田章雄 | 45 トゥーシェン | 46 本多雄一 | 47 杉内俊哉 | 48 甲藤啓介 | 50 吉本亮 | 51 荒金久雄 | 52 川崎宗則 | 53 金子圭輔 | 54 川頭秀人 | 55 伊奈龍哉 | 56 柳瀬明宏 | 57 三瀬幸司 | 58 辻武史 | 59 大西正樹 | 60 稲嶺誉 | 61 山村路直 | 62 山崎勝己 | 63 大田原隆太 | 64 田之上慶三郎 | 65 川口容資 | 66 斉藤和巳 | 67 斉藤秀光 | 68 竹岡和宏 | 69 井手正太郎 | 70 田上秀則 | 91 陽耀勲 | 93 小斉祐輔 | 94 西山道隆 | 121(育成選手) 山田大樹
89 監督 王貞治 | 80 秋山幸二 | 88 森脇浩司 | 81 新井宏昌 | 85 杉本正 | 82 高山郁夫 | 84 大石友好 | 87 井出竜也 | 92 山川周一 | 76 二軍監督 石渡茂 | 71 鳥越裕介 | 79 五十嵐章人 | 75 山村善則 | 77 藤田学 | 74 岩木哲 | 95 川村隆史 |
セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ |
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読売ジャイアンツ | 東京ヤクルトスワローズ | 横浜ベイスターズ | 中日ドラゴンズ | 阪神タイガース | 広島東洋カープ |
北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 西武ライオンズ | 千葉ロッテマリーンズ | オリックス・バファローズ | 福岡ソフトバンクホークス |
イースタン・リーグ | ウエスタン・リーグ |
北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | グッドウィル | 千葉ロッテマリーンズ | 読売ジャイアンツ | 東京ヤクルトスワローズ | 湘南シーレックス |
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日本シリーズ | オールスターゲーム | 日本野球機構・日本プロフェッショナル野球組織 | 日本プロ野球選手会 | 名球会 | 独立リーグ |