ヘンリー・A・ウォーレス
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アメリカ合衆国33代副大統領
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任期: | 1941年1月20日 – 1945年1月20日 |
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出生日: | 1888年10月7日 |
生地: | アイオワ州オリエント |
死亡日: | 1965年11月18日 |
没地: | コネチカット州ダンベリー |
政党: | 民主党 |
配偶: | アイロ・ウォーレス |
ヘンリー・アガード・ウォーレス(Henry Agard Wallace, 1888年10月7日 – 1965年11月18日)は、アメリカ合衆国第33代副大統領。
ウォーレスはアイオワ州アデール郡オリエントの近くの農場で生まれた。1910年にエームズのアイオワ州立大学を卒業し、1910年から1924年までデモインで『Wallace's Farmer』紙の編集部に勤務した。また1924年から1929年まで同紙の出版者であった。彼はトウモロコシの高収量品種の実験を行い、農業に関する著書を多数出版した。1915年には市場における第一の品種となるトウモロコシを考案し、彼が設立した会社は現在パイオニア・ハイブレッドとして知られ、アメリカに於いて最も高収益を誇る企業の一つである。
1933年にウォーレスはルーズベルト大統領によって農務長官に指名された。彼は共和党に所属していたが、ルーズベルトのニューディール政策を支持し民主党に入党した。ウォーレスは1940年9月まで農務長官を務め、副大統領の指名を受け農務長官を辞任した。彼は1940年11月にフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領の伴走候補者に選出され、1941年1月20日から1945年1月20日まで副大統領職を務めた。
ウォーレスは1944年の選挙では民主党の副大統領候補指名に落選した。党はルーズベルトの健康とウォーレスのリベラルな見解を問題とし、ミズーリの上院議員ハリー・S・トルーマンを副大統領候補に指名した。ルーズベルトはウォーレスを商務長官に任命することで彼を懐柔した。ウォーレスは同職を1945年3月から1946年9月まで務めた。
1944年6月20日に蒋介石との会談のために重慶を極秘訪問(この時期、国共合作が一時崩壊の危機に瀕し、その様子見のために送り込まれた)した際、第5航空軍司令官下山琢磨中将が山本五十六乗機撃墜の報復として、ウォーレスの乗機を撃墜することを画策した。支那派遣軍総司令部が極秘に入手したスケジュールに基づいて偵察機を飛ばしたが、乗機らしき航空機は姿を見せず、撃墜はかなわなかった。入手したスケジュールが実は偽物だったと言われている。
[編集] 外部リンク
- The Life of Henry A. Wallace: 1888-1965
- "The Century of the Common Man" - the text of Wallace's 1942 speech.
- Henry A. Wallace Center for Agricultural & Environmental Policy
- " An Argument for a New Liberalism by Peter Beinart, The New Republic, December 2 2004.
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カテゴリ: アメリカ合衆国の副大統領 | 1888年生 | 1965年没