リンドン・ジョンソン
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アメリカ合衆国36代大統領
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任期: | 1963年11月22日 – 1969年1月20日 |
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副大統領: | ヒューバート・H・ハンフリー |
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任期: | 1961年1月20日 – 1963年11月22日 |
元首: | ジョン・F・ケネディ |
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出生日: | 1908年8月27日 |
生地: | テキサス州ストーンウォール |
死亡日: | 1973年1月22日 |
没地: | テキサス州ジョンソンシティ |
政党: | 民主党 |
配偶: | レディ・バード・ジョンソン |
サイン: |
リンドン・ベインズ・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson, LBJ, 1908年8月27日 - 1973年1月22日)は、アメリカ合衆国の第37代副大統領および第36代大統領。ジョン・F・ケネディの暗殺の後に政権を継いだ大統領。
目次 |
[編集] 生い立ち
リンドン・ベインズ・ジョンソンは1908年8月27日にテキサス州ストーンウォールで生まれた。彼の両親サミュエル・ジョンソンとリベカ・ベインズは、貧しい地域で農場を所有しており、彼らにはもう4人の子供がいた。妹のリベカ、兄弟のジョセファ、サム・ヒューストン、ルシア。リンドン・ジョンソンは幼年期を通じて公立学校に通い、1924年にジョンソンシティー高校を卒業した。
1927年には、南西テキサス州教員養成大学(現:テキサス州立大学サンマルコス校)に入学した。校内活動や学校新聞の作成に参加し、苦労しながらも1931年に卒業した。なお在学中に1年休学し、テキサス州の貧しいメキシコ系移民の生徒が通う学校で教師(見習い)を務めている。
[編集] 政界へ
彼は大学を卒業した後、ヒューストン高校で演説および討論を教えた。しかしながらすぐ教職を辞め、父親の力を借りて政治の世界に入った。ジョンソンの父親は、テキサス州議会で5期勤めており、テキサス州選出連邦下院議員サム・レイバーン(後に下院議長)の親しい友人だった。1931年にジョンソンはウェリー・ホプキンス州議会議員の連邦下院議員選挙に協力し、ホプキンスはその労に報いてジョンソンをリチャード・M・ケルバーグに紹介、推薦した。これによりジョンソンはケルバーグの立法秘書官となり、ワシントン立法補佐グループの議長の座を与えられた。
秘書としてのジョンソンは数々の影響力を持つ人々と知り合い、彼らがどのようにその地位に達したか、いかにして尊敬を集めているかといったことを学んだ。またフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領のまわりで働いていた人達の何人か(例えば副大統領ジョン・ナンス・ガーナー)とは、同じテキサス仲間としてすぐに親しくなった。
秘書在任中、ジョンソンはテキサス出身のクローディア・アルタ・テーラー(レディ・バード・ジョンソンとして知られる)に出会い、数度のデートの後、1934年11月17日に結婚した。ジョンソン夫妻は、2人の娘、リンダ・バード(1944年生)およびルーシー・ベインズ(1947年生)をもうけた。
1935年には、テキサス州立青年局長に就任し、政府が若い人々のために、教育の充実と雇用の拡大をするよう尽力した。その活動によって政治的後援を構築することができた。ジョンソンはとてもタフな上司として部下の間では有名であった。彼は二年間長を務め、議会選挙へ出馬するために辞職した。
1937年にジョンソンはオースティン及び周辺町村を含むテキサス州の第10下院議員選挙区の特別選挙に出馬した。彼は妻の大きな支援を受けながら、ニューディール政策を政治要綱に掲げ、選挙活動を繰り広げた。
ジョンソンの当選後、フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領はこの若いテキサス人への関心を示した。ジョンソンは海軍事務委員会(これは新人議員にとって非常に重要な意味を持つ)に直ちに指定された。彼はまた、主に自分の選挙区において、田舎の電化をはじめとした様々な発展のため奔走した。1941年にジョンソンは上院の特別選挙に出馬し、現職のテキサス州知事であり、ラジオ・パーソナリティのW・リー「パピー」オダニエルと議席を争った。この有名な州知事を前にジョンソンは全く歯が立たないと予想されたが、力強い選挙活動を展開し、非公式の開票速報はジョンソンの勝利を報じた。しかし、最終的に両陣営から大規模な不正が発覚し、ジョンソンも落選した。なお選挙運動の終盤において、ジョンソンはもし戦争が始まったら軍隊に志願すると約束していた(程なく1941年12月にアメリカ合衆国は第二次世界大戦に参戦)。
[編集] 第二次世界大戦
第二次世界大戦中に彼は海軍少佐として従軍し、銀星章、アジア太平洋従軍記章および第二次世界大戦戦勝記念章を受章した。しかしながら、戦後彼の銀星章の受章は政治的な目的による物と推測されている。
1940年6月20日、初の平時の徴兵を定める法案が議会に提案された時、ジョンソン下院議員は自分を海軍予備役として徴兵を免除する約束を取り付けた上で、この法案に同意した。1941年、アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦すると、ジェームズ・フォレスタル海軍省次官に自分を非戦闘員として配置するよう求め、テキサスと西海岸の造船所設備の検査役となった。
しかし春ごろになると、テキサスの有権者たちはジョンソンが戦争で活躍することを望んでいたし、また1940年の選挙活動における「もしアメリカ合衆国が参戦したら、前線で戦う」との誓約を実行するよう求める声が高まってきたので、ジョンソンは政府に、より戦闘地帯に近い配置にするよう求めた。ルーズベルト大統領は、南西太平洋地域について、軍の指揮系統を経由することで歪曲される恐れのない、政治家による信頼できる情報を得たいと考えていた。フォレスタルの提案から、ルーズベルト大統領はジョンソンを南西太平洋の偵察チームに配置した。ジョンソンはメルボンでダグラス・マッカーサー大将と会合し、第22爆撃隊に所属され、偵察目標はニューギニア島にある大日本帝国海軍のラエ飛行場とされた。司令官は外部の偵察員は必要ないと感じていたが、ジョンソンは必要性を強く主張した。
偵察活動においてジョンソンの搭乗するB-26は日本軍機に攻撃を受ける。(このとき彼の乗機B-26を攻撃したのは大空のサムライこと坂井三郎らの所属する台南航空隊零戦隊だったという)。そしてメルボンに戻り、マッカーサーに報告するや否や、マッカーサーはジョンソンと生き残った偵察員に銀星章(最高位から3番目に位置する勲章)を授与した。
- 1942年6月9日に、ニューギニア付近のポートモレスビーおよびサラマヌアでの勇気ある行動に関して。南西太平洋地域の情報活動任務の間、ジョンソン少佐は戦闘条件の直接情報を得るために、ニューギニアの敵空域に関する危険な空中戦使命を帯びた観察者として志願した。我々の乗機が目標空域に近づくとともに、8機の敵機に遭遇した。この時に、ジョンソン少佐の乗機は機械的問題を生じ、単独での帰還を強いられた。敵機の格好の目標となったが、彼はその危険にもかかわらず冷静さを示した。彼は勇敢な行動により帰還し有益な情報を得ることが出来た。
帰還後、ジョンソンは「我々の軍用機は日本の戦闘機にはるかに劣っていた」「士気は高くなかった」などと喧伝し、海軍に大きな権力を持つ、ジョンソンを会長とした小委員会を議会に承認させた。しかし活動内容は非難を浴び、ルーズベルト大統領は、軍務に就く国会議員をオフィスに戻すことを命じた。また、ジョンソンは解任された。
[編集] 副大統領
1948年にジョンソンは再び上院選に出馬し当選した。さらにこの上院議員選挙も論争になっている。ジョンソンはその圧勝により「地滑りリンドン」と呼ばれた。上院では軍事委員会に指名され、1950年の後半には調査小委員会の結成に貢献した。ジョンソンは結局その議長となり、防衛費と予算効率の多くの調査を行った。これらの調査の結果により彼は他の議員の尊敬と共に全国的な注目を集めた。
上院議員として数年の活動後に、彼はリーダーシップを得、1953年には少数党院内総務に選出された。彼の最初の活動は委員会への選出から年功制を取り除くことであった。1954年にジョンソンは上院議員に再選され、民主党は上院で多数派となり彼は院内総務となった。彼の任務は立法の予定と民主党支持法案可決の支援であった。
ジョンソンの上院における成功は、民主党大統領候補指名へと結びついた。1956年のテキサス州での民主党全国大会で彼は「秘蔵」候補者であった。1960年に民主党大会で彼は409票を得たが、大統領候補の指名はマサチューセッツ州の上院議員、ジョン・F・ケネディに行われた。1960年の終わりにケネディは副大統領候補にジョンソンを指名した。1960年11月にケネディ=ジョンソンは小差でリチャード・M・ニクソンおよびヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアを打ち破った。
大統領就任宣誓の際ケネディは、大統領雇用機会均等委員会を率いるようジョンソンを任命した。同委員会で彼は黒人及び他の少数人種と共に働いた。副大統領として彼は更にいくつかの国際的な任務をこなし、それらは彼に国際問題への洞察力を与えた。
[編集] 大統領職
1963年11月22日のケネディ大統領暗殺事件後に、ダラス近郊のラブ・フィールド空港に駐機している大統領専用機・エアフォース・ワン機内で大統領として宣誓した。彼は一家の友人でもあった連邦判事サラ・T・ヒューズに対して宣誓したが、女性に宣誓した初の大統領であった。
ジョンソンの就任以来、多くがジョン・F・ケネディの暗殺をジョンソンが首謀していたと主張する。暗殺当時ケネディは個人秘書官イーヴリン・リンカーンを含む親友に、ジョンソンが少なくとも4件の犯罪捜査に関与していたことから1964年の大統領選でジョンソンと入れ替わって彼の副大統領候補になることを考えていたことを語っている。ジョンソンの大統領就任後、それら4件の犯罪捜査はすべて消えた。映画監督オリバー・ストーン は映画『JFK』でジョンソン大統領こそケネディ大統領を暗殺した真犯人であると描いた。また2005年11月、ジョンソン大統領の元顧問弁護士バー・マクレランが『ケネディを殺した副大統領 その血と金と権力』という本を書き、ジョンソン真犯人説を発表した。
ジョンソンの大統領職は就任直後障害に直面した。彼はケネディの任命者達が彼を尊敬せず忠実ではないと考え、彼らの早急な入れ替えを試みた。例外として、お互いに敵意を抱いていたもののケネディ大統領の実弟で司法長官のロバート・ケネディを必要とし留任させた。
[編集] 内閣
職名 | 氏名 | 任期 |
大統領 | リンドン・B・ジョンソン | 1963–1969 |
副大統領 | ヒューバート・H・ハンフリー | 1965–1969 |
国務長官 | ディーン・ラスク | 1961–1969 |
財務長官 | C・ダグラス・ディロン | 1961–1965 |
ヘンリー・H・ファウラー | 1965–1968 | |
ジョゼフ・W・バー | 1968–1969 | |
国防長官 | ロバート・マクナマラ | 1961–1968 |
クラーク・M・クリフォード | 1968–1969 | |
司法長官 | ロバート・ケネディ | 1961–1964 |
ニコラス・デブ・カッツェンバック | 1964–1966 | |
ラムゼイ・クラーク | 1966–1969 | |
郵政公社総裁 | ジョン・A・グロノウスキー | 1963–1965 |
ラリー・オブライエン | 1965–1968 | |
W・マーヴィン・ワトソン | 1968–1969 | |
内務長官 | スチュワート・リー・ユードル | 1961–1969 |
農務長官 | オービル・フリーマン | 1961–1969 |
商務長官 | ルーサー・ハートウェル・ホッジス | 1961–1965 |
ジョン・トーマス・コナー | 1965–1967 | |
アレクサンダー・ビュエル・トロウブリッジ | 1967–1968 | |
キュロス・ロウレット・スミス | 1968–1969 | |
労働長官 | W・ウィラード・ウィルツ | 1962–1967 |
保健社会福祉(厚生)長官 | アンソニー・セレブレズ | 1962–1965 |
ジョン・ウィリアム・ガードナー | 1965–1968 | |
ウィルバー・コーエン | 1968–1969 | |
都市住宅開発長官 | ロバート・クリフトン・ウィーバー | 1966–1968 |
ロバート・コールドウェル・ウッド | 1969–1969 | |
運輸長官 | アラン・スチーブンソン・ボイド | 1967–1969 |
[編集] 最高裁判所判事
- エイブ・フォルタ - 1965
- サーグッド・マーシャル - 1967
[編集] 公民権法
「自由で平等な国」を標榜して来たアメリカであったが、建国以来200年近くの長きに渡り、アフリカ系アメリカ人などの少数民族に対する法の上での人種差別が認められてきた。しかし、第二次世界大戦中におけるアフリカ系アメリカ人兵士の参戦や、戦後間もない1950年代に入って起きたモンゴメリー・バス・ボイコット事件事件などをきっかけに、この様な法の上での人種差別をなくそうとする公民権運動が全人種の間で盛り上がりを見せてきていた。
この様な動きに対して、人種差別に対して否定的であったジョンソンはマーティン・ルーサー・キング・ジュニアなどの公民権運動の指導者らと協議を重ね、1964年7月2日に公民権法の制定文書に署名し、ここに長年アメリカで続いてきた法の上での人種差別は終わりを告げることになった。
[編集] ベトナム戦争
ジョンソンは、ベトナム戦争を始めるきっかけを作ったものの、その拡大には難色を示したジョン・F・ケネディやロバート・マクナマラが画策していた正規軍の段階的な撤退政策を実施に移せず、1965年から1968年までの間、北爆やアメリカ軍兵士の増強などを行い戦争を連続的に拡大してしまった。それは何千ものアメリカ軍兵士の死と、およそその60倍のベトナム人の死に帰着した。
アメリカ兵の戦死者がベトナムで増え、テレビで戦場の模様が放映されるとともにジョンソンの人気は低下した。特に「おい、おい、LBJ、今日は何人の子供を殺した?」などと書いたプラカードを掲げる学生達の抗議に直面し、マスコミからは連日のようにベトナム戦争への対応のまずさを批判されるようになった。その後、CBSの人気キャスターであるウォルター・クロンカイトからも参戦への疑問を表明されるにいたり、1968年には北爆の中止を表明するとともに、次の大統領選挙への不出馬を表明することとなった。
[編集] 引退
ジョンソンはニューハンプシャー州の予備選でユージーン・マッカーシーに対して辛勝したが、ジョン・F・ケネディの弟のロバート・ケネディが大統領選への出馬を表明し、同時に世論調査では最低の支持率を記録した。テト攻勢の後の1968年3月31日、ジョンソンは夜のテレビ演説で大統領選で民主党大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。理由としてベトナム戦争に関する国内世論分裂の拡大を挙げた。
民主党は結局副大統領ヒューバート・ハンフリーを指名したが、1968年の大統領選では共和党候補のリチャード・M・ニクソンに敗北した。大統領職後の1969年に、ジョンソンはテキサス州ジョンソンシティーの農場へ帰宅した。その後ジョンソンは1973年1月22日に重い心臓発作を起こし死去した。
[編集] エピソード
ジョンソンの身長は6フィート3と1/2インチ(192cm)であった。これはエイブラハム・リンカーンの6フィート3と3/4インチに継ぐ高さであり、二番目に背の高い大統領であった。
ジョンソンは倹約家であると有名であった。大統領としてさえ、ホワイトハウスの録音テープには自らが貧しく巨額の負債があるため、カメラマンに無料で家族のポートレートを撮影してくれるよう頼んでいることが記録されていた。実際には彼は裕福であったが、結局無料で写真を受け取った。ホワイトハウスの記者団は、ホワイトハウスで使われていない部屋の明かりを全て消すという彼の習慣に関する冗談をよく話した。ジョンソンの秘書は、彼が発泡スチロールのコップを洗って再使用していたことを後に明らかにした。
ジョンソンは他人からの評価を非常に気にした。公民権に関する演説後に彼は32人の知人に電話を行い、演説への感想を尋ねた。ホワイトハウスのテープに記録されたこれらの人々の返答は、圧倒的にお世辞が多かった。
ジョンソン大統領図書館建設の際に、完成直前になって急遽彼が「執務室の複製が欲しい」と言い始めた為に、屋上に執務室のレプリカが作成されることになった。しかしながら、面積が足りず実物の10分の8以上の大きさが作成することが出来なかったために、彼の夫人が彼を説得し現在の形になったといわれている。
[編集] 関連項目
- 1960年アメリカ合衆国大統領選挙
- 1964年アメリカ合衆国大統領選挙
- 1968年アメリカ合衆国大統領選挙
- ボーイング707
- DC-6
- サインペン
[編集] 外部リンク
- 就任演説
- リンドン・ジョンソン伝記
- テキサス・エントリーのハンドブック
- リンドン・B・ジョンソン図書館
- ジョンソンの銀星章
- NPR:ホワイトハウス・テープ
- ジョンソン リンドン:作家別作品リスト(青空文庫)
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