ホショト族
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ホショト族はオイラト四部を構成する西モンゴル部族のひとつ。首長は、チンギス・ハーンの弟ジュチ・カサルの末裔を名乗り、1637年には、当時の首長トゥルバイフが、ダライ・ラマからの授与を受ける、という手続きを通して、オイラトの首長としては初めてハンの称号を使用するようになった。これがグシ・ハンである。
嫡系のオチルトが幼少の間、繋ぎで首長をつとめていたグシ・ハンは、自身の配下を率いてチベットに移住、1642年までに青海、カムを含むチベットを統一した。グシ・ハンとその直系のホシショト王たちは、中央チベットに本拠を置いて君臨したが、その他の傍系子孫たちはアムド(青海)地方に本拠を据えた。オイラト本国においてオチルトに属し続けた集団に対し、グシ・ハンのチベット征服に従事し、以後青海湖畔を中心とするチベット各地に居住した集団を青海ホショトと称する。
オチルトは成長にともない首長の地位を相続し、1666年にダライ・ラマよりハンの称号を受けたが、1678年、オイラト制覇を目指すジュンガル部のガルダンに敗れ、その支配下に入った。1755年、清朝は、ジュンガル部の相続争いからオイラトが内乱状態になったのに乗じてオイラト本国に出兵、オイラトに対する大虐殺が行われ、オイラト本国におけるホショト族はほぼ全滅した。
グシ・ハンの子孫たちは、十八世紀初頭、ダライ・ラマ六世の認定をめぐって分裂、ジュンガル、清朝の康熙帝ら外部勢力を導き入れる抗争を行って衰退、清朝の雍正帝はこれに乗じ、年羹堯を司令官とする軍勢を青海に派兵した。清朝軍は、1723年-1724年にグシ・ハンの子孫たちを制圧、彼らと麾下の青海ホショト族を旗制によって再編し、支配下に組み込んだ。