ユルゲン・シュトロープ
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ユルゲン・シュトロープ(Jürgen Stroop, 1895年9月26日 - 1952年3月6日ワルシャワにて処刑)は1943年4月19日~5月16日の悪名高いワルシャワ・ゲットー蜂起の鎮圧者で知られる。最終階級は親衛隊中将兼警察中将である。
[編集] 経歴
- 1895年9月26日:デトモルト(de)の警察官 (Polizeioberwachtmeister) の家庭に生れる。シュトロープは小学校卒業後、第一次世界大戦開始まで同地の土地登記所で見習いとして職業訓練を受ける。
- 第一次世界大戦勃発後の1914年8月にプロイセン第55歩兵連隊に志願し、1915年7月にプロイセンの鉄十字勲章を授与、第256歩兵連隊に所属しポーランドやリトアニア等の東部戦線へ送られ1918年の終戦までに下士官(de)に昇進した。
- 1932年7月:隊員証番号44611番として親衛隊に入隊し、9月に党員番号292297番としてナチスに入党した。
- 1932年11月:国会議員選挙でデトモルトでのナチスの勝利に貢献する。ハインリッヒ・ヒムラーに目をかけられる。
- 1933年3月:親衛隊曹長で故郷の補助警察の指揮官となる。
- 1934年3月:親衛隊大尉に昇進。ミュンスター地区親衛隊本部に配属。
- 1936年:親衛隊少佐でハンブルク親衛隊連隊の指揮官となる。
- 1938年秋:親衛隊大佐に昇進。
- ポーランド侵攻直後の1939年10月にポーランドのポズナンの警察部隊指揮官に任命、次いでグニェズノの親衛隊及び警察指揮官となる。
- 1940年:第32親衛隊管区の親衛隊及び警察指揮官に任命された
- 1941年5月9日:シュトロープは46歳のときにナチスの世界観と亡き息子の思い出から、ヨーゼフ(Joseph)からドイツ民族らしいユルゲン(Jürgen)と改名する。
- 1941年7月:武装親衛隊の髑髏師団 (de) の兵站部隊に配属。
- 1943年4月19日:ヒムラーよりワルシャワ・ゲットー蜂起を鎮圧する命令を受け、武装親衛隊、国防軍部隊の指揮を執る。
- 1943年5月16日:小火器と火炎瓶で武装する600名の蜂起軍を2000名の重装備部隊で平定する。しかし4週間かかった。
- 彼は、「もはやワルシャワにはユダヤ人ゲットーは存在せず」とヒムラーと直属の上官 フリートリッヒ=ヴィルヘルム・クリューガー (Friedrich-Wilhelm Krüger) 親衛隊大将に後に自身の命取りとなる報告書を提出する。17000名がゲットーで殺害され、7000名がトレブリンカ収容所でガス室で殺害され、42000名がマクダネク収容所に送られた。
- 戦後、米軍に報告書の写しを発見されて1947年3月21日にダッハウの軍事裁判で死刑を求刑されるが、ポーランドで再度裁判を受け、1952年3月6日にワルシャワにて絞首刑にされる。
[編集] 文献
- Kazimierz Moczarski:Gespräche mit dem Henker-Das Leben des SS-Gruppenführers und Generalleutnant der Polizei Jürgen Stroop, Fischer Taschenbuch Verlag, 1982, ISBN 3596234662