ロベルト・ライ
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ロベルト・ライ(Robert Ley, 1890年2月25日 - 1945年10月25日)は、ドイツの政治家。ナチ党指導者の一人。ドイツ労働戦線の指導者。
[編集] 生涯
ヴェストファーレンのニーダーブライデンバッハで、11人兄弟の7番目に生まれる。実家は貧しい農家だったが、ボンとイェーナの大学で自然科学を学ぶことが出来、食品化学等に興味も持ち始める。
第一次世界大戦が勃発すると、すぐさま志願兵として歩兵部隊に参加する。1917年飛行軍団へ移籍するが、銃撃で負傷し、その後どもりや発作などに悩まされることになる。
第一次世界大戦終結後、フランスに捕虜として捕らえられる。釈放後の1920年論文を発表して博士号を獲得した。大学の後にはイーゲー・ファルベン社で働くようになる。
1924年、ミュンヘン一揆失敗後、国家社会主義自由党と名を変えて水面下で活動していた国家社会主義ドイツ労働者党に入党、ラインラントの党大管区指導者(ガウライター)になる。後に党の組織局長にも任命される。
1933年年5月2日に当時ドイツにあった労働組合が全て解散させられると、その資産と組員を引き継ぐ形で5月10日にドイツ労働戦線(以下DAF)を発足させ、その指導者となった。 同組織は労働者だけでなく経営者や自由業者なども加入する組織だったため、ライも経済・労働政策の主導権を巡る党と国家の諸機関の対立に積極的に飛び込んでいく。 1934年10月には、同年1月の国民労働秩序法では殆ど無視されていたDAFの権限を大幅に拡大した「DAFの本質と目的についての総統命令」を直接ヒトラーから取り付け、労使関係の独占的調停者となることを狙った。これは前述の国民労働秩序法と矛盾するものであったために経済相ヒャルマー・シャハト、労働相ゼルテらの反発を招き、三者は1935年3月のライプツィヒ協定で一定の妥協を見るまで激しく対立した。
その後もライはDAFの権力拡大を目指し、1938年には、経済・労働関係でDAFと並行して存在する全組織の解散・国家官庁の監督権からの完全な独立・DAF指導者(つまりライ自身)の総統直属といった内容を含む四つの法案を四カ年計画全権ゲーリングに持ち込んだ。しかしこれはあまりに法外なものであったため、経済省・労働省・司法省といった政府機関からだけでなく、総統代理ヘスや親衛隊国家長官ヒムラー、国家食糧身分指導者で農業相でもあったヴァルター・ダレといった面々から総反対を受けて挫折した。
ただ、DAFによって労働者や自由業者を第三帝国へ惹きつけようとする試みは「喜びを通じての力」運動(略称KdF)によって一定の成功を見る。たとえば「ヴィルヘルム・グストロフ」といった大型客船によるクルーズ旅行など、それまで労働者には考えられもしなかった豪華な福利厚生活動がそれである。また、「カブト虫」の愛称で有名なフォルクスワーゲン・ビートルの旧型も元は「KdFワーゲン」の名前で開発された労働者用ファミリーカーであった。
終戦間近になると、アルベルト・シュペーアの後釜を狙っていた。
1945年に義勇軍『アドルフ・ヒトラー』の司令官に任命されるが、ソ連軍が目前まで迫ってくるとベルリンから脱出。しかしその後連合軍に捕らえられた。ニュルンベルク裁判の判決公判前に首吊り自殺した。