ヴァレリー・ニポムニシ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴァレリー・ニポムニシ( Валерий Непомнящий、Valeriy Nepomnyashiy、1943年8月7日 - )はロシア出身の元サッカー監督。
選手としては活躍できなかったが、早々に指導者への道を歩み、1968年から1988年までロシアのクラブチーム・コルホーズでコーチ・監督として指揮を執った後、1988年にカメルーン代表監督に就任。ロジェ・ミラの活躍もあり、1990年のワールドカップイタリア大会でベスト8進出に貢献した。
その後、トルコや韓国・中国のクラブチームの監督を歴任。富川SK時代には尹晶煥を中心に韓国では珍しい中盤でパスをつなく攻撃的なサッカーを展開した(今西和男総監督が彼を広島に呼んだのは、この時の富川SKのサッカーに感銘を受けたからだと語っている)。
2001年、Jリーグサンフレッチェ広島の監督に就任。Jリーグで初めて4-3-3を取り入れ、攻撃的なサッカースタイルをとったが、守備練習にほとんど時間を割かなかったため、第1ステージではほとんどの試合で4-3-3が機能せず低迷した。第2ステージではオレグ・パシニンの加入もあり、相手に合わせて柔軟にシステムを変化させることで攻撃陣が爆発、3位という成績をおさめた。
この年のサッカーを評論家からは「攻撃はモダン、守備はレトロ。」とまで言われた。しかし、個としての成長が目覚しく、特に両SBの服部公太・駒野友一の攻撃力が開花しJリーグ屈指の両サイドとなり、パスサッカーを貫いたことで久保竜彦・大木勉・森崎和幸らの大きな成長もみられた。また、トップでは機能しなかった4-3-3は、中村重和がユースで取り入れ構築・機能させ、後に森山佳郎によってユース2冠に輝く要因ともなった。
2002年、上海申花にヘッドハントされ1年限りで退任(公式発表では夫人の体調不良を理由に退任)。後にインタビューで「(広島の)フロントが本気で優勝を目指していないことに幻滅した」と語っており、チームの方針をめぐっての対立があったことを感じさせた。
その後、再び中国で指揮を執り2度のリーグ優勝を成し遂げた。 2006年1月にウズベキスタン代表及び同国の強豪であるパフタコールに監督として就任。しかし、ACLでの予選敗退により8月にパフタコール監督は解任。代表監督に専念するも、アジアカップの予選では格下である香港に2戦2分と苦戦するなど、最終節まで本選出場が確定できなかった責任を問われ、予選最終節となった11月15日のカタール戦後「健康不安のため」という理由により辞任した。
目次 |
[編集] 選手経歴
不明
[編集] 指導者経歴
- コルホーズ(ロシア): コーチ・監督 1968-1988
- カメルーン代表: 監督 1988-1990
- 中国サッカー協会テクニカルコンサルタント: 1991
- アンカラグクア(トルコ): 監督 1991-1993
- 富川SK(韓国): 監督 1994-1998
- 瀋陽海獅(中国): 監督 1999-2000
- サンフレッチェ広島: 監督 2001
- 上海申花(中国) : 監督 2002
- 山東魯能(中国) : 監督 2003
- 上海申花(中国) : 監督 2004-2005
- パフタコール (ウズベキスタン): 監督 2006
- ウズベキスタン代表: 監督 2006
[編集] 監督成績
年度 | 所属リーグ | 大会名 | 試合数 | 勝ち点 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 順位 | チーム |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2001年 | J1 | 1nd | 15 | 13 | 5 | 10 | 0 | 13位 | サンフレッチェ広島 |
2nd | 15 | 24 | 8 | 7 | 0 | 3位 |
[編集] 関連項目
|
|
|
|
カテゴリ: ロシアのサッカー指導者 | 1943年生 | サンフレッチェ広島