ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン (1709-1758)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン(Wilhelmine von Preußen, 1709年7月3日 - 1758年10月14日)は、プロイセン王国の王族。全名はフリーデリケ・ゾフィー・ヴィルヘルミーネ(Friederike Sophie Wilhelmine)。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の長女で、後にブランデンブルク=バイロイト辺境伯フリードリヒの妃となった。
ヴィルヘルミーネは1709年7月3日、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(当時王太子)とその妃であったイギリス王女ゾフィー・ドロテーアの間に第二子としてベルリンで生まれた。母のゾフィー・ドロテーアはヴィルヘルミーネを甥(従ってゾフィー・ドロテーアからみると従兄)のウェイルズ公フレデリックと結婚させることを計画した。しかしこれは成立せず、結局ヴィルヘルミーネは1731年11月20日にベルリンで同じホーエンツォレルン家のブランデンブルク=バイロイト辺境伯フリードリヒと結婚した。
1735年に夫がブランデンブルク=バイロイト辺境伯領を相続すると、二人は宮廷所在地であるバイロイトに、辺境伯歌劇場、新宮殿、エレミタージュなどを建設した。新宮殿やエレミタージュの内装は東洋趣味を取り入れた特異なロココ様式で、「バイロイト=ロココ」として知られている。またエアランゲン大学(現エアランゲン・ニュルンベルク大学)が設立されたのもフリードリヒ治世のバイロイトであった。このような多数の支出のため、財政が破綻の瀬戸際まで追い込まれることになった。
またヴィルヘルミーネは芸術家への援助にも熱心で、バイロイトは神聖ローマ帝国の文化の中心の一つとなった。さらにヴォルテールや弟のフリードリヒ2世が時々訪問してその評判を高めた。
1756年に七年戦争が勃発すると、ヴィルヘルミーネは南ドイツにおけるフリードリヒ2世の目と耳の役割を果たした。これは1758年10月14日――この日はホッホキルヒの戦いでフリードリヒ2世率いるプロイセン軍がオーストリアに敗れた日であった――に彼女が歿するまで続いた。

彼女の遺体はバイロイトの城付属教会(Schloßkirche)に葬られている。また十年後の忌日に、フリードリヒ2世によって彼女を記念してサンスーシ宮殿内に「友情の寺院」(Freundschaftstempel)が建てられた。
[編集] 子女
夫であるフリードリヒとの間には、以下の一女をもうけた。
- エリーザベト・フリーデリケ・ゾフィー (1732年 - 1780年、ヴュルテンベルク公カール・オイゲン妃)
カテゴリ: ホーエンツォレルン家 | 1709年生 | 1758年没