三好元長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三好 元長(みよし もとなが、1501年(文亀元年) - 1532年7月22日(天文元年6月20日))は、戦国時代の武将。三好長秀の子(三好之長の子とも言われる)(=三好之長末子にて長兄長秀の養子というが確証はない。)。号は海雲。
細川晴元の家臣として仕えた。智勇に優れた人物で、幼少の晴元を助けて各地を転戦して武功を挙げた。特に1526年10月には晴元を助けて細川高国と足利義晴の連合軍を破って細川氏の畿内支配に大きく貢献した。その功績により山城の守護代に任じられたが、一時期に同僚の柳本賢治らと争って阿波に逼塞した。
1531年、復帰して再び晴元を助け、遂に対立者であった細川高国を討ち取るという大功を挙げたが、これがかえって成長した晴元から脅威的な存在と見なされるようになり、次第にその存在を危険視されてゆく。
1532年6月、晴元は本願寺光教(証如)に働きかけて、堺にいる元長を一向一揆衆に攻めさせた。その結果、元長は敗走し顕本寺で自害した。享年32。
こうして無念の最期を遂げてしまった元長であるが、彼の子・三好長慶や三好義賢、十河一存、安宅冬康らはいずれも名将で、彼の息子たちによって三好氏は大きく飛躍することとなるのであった。