細川高国
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 文明16年(1484年) | |||
死没 | 享禄4年6月8日(1531年7月21日) | |||
別名 | 六郎(通称) | |||
諡号 | 道永、恒桓、松岳 | |||
官位 | 従四位下、武蔵守。民部少輔。右京大夫 | |||
幕府 | 室町幕府管領 | |||
氏族 | 細川氏 | |||
父母 | 父:細川政春、養父:細川政元 | |||
兄弟 | 細川高国、細川晴国 | |||
子 | 細川稙国、養子:細川氏綱 娘(北畠晴具室)、娘(山名豊定室)) |
目次 |
[編集] 略歴
室町幕府の管領で、細川氏の庶流である典厩家の一族。実父は備中守護の細川政春で、細川政元の養子として京兆家に入った。弟に細川晴国(ただし、晴国には実子説もある)。実子に細川稙国、養子に細川氏綱らがいる。
管領として政元の死後、幕政を牛耳ったが、細川澄元の嫡男・細川晴元に敗れて自害に追い込まれた人物である。
[編集] 生涯
[編集] 澄之・澄元との争い
文明16年(1484年)、細川政春の子として生まれる。高国が政元の養子となった明確な時期は不明であるが、澄元の後に養子になったようで、政元にとっては3番目の養子であった。
永正4年(1507年)6月、政元が細川澄之派の重臣・香西元長や薬師寺長忠らによって殺されると、8月に澄元は澄之討伐の兵を挙げたが、このときに高国も澄元を支持して澄之討伐に貢献し、澄元の家督相続を承認した(永正の政変)。
ところが、この一連の政変を好機と見た周防の大内義興は、流れ公方となっていた足利義稙を擁して上洛を開始する。高国は澄元の命令で義興との和睦交渉に当たったが、逆に高国は義興と通じて裏切り、伊勢に逃れた。永正5年(1508年)には仁木高長、伊丹元扶、内藤貞正らと呼応して京都に侵攻し、澄元や将軍・足利義澄を近江に追放した。そして、大内義興と共に足利義稙を擁立し、自らは7月18日に右京大夫・管領に任官された。
永正6年(1509年)、澄元の重臣・三好之長が京都に侵攻を企てるが、大内義興と協力して勝利した。そして逆に近江に侵攻して勝利している。しかし永正7年(1510年)に近江に侵攻したときには、澄元方を支持する国人の反抗もあって大敗を喫し、高国は一時、敗戦の責任をとって出家しようとしたほどであった。
永正8年(1511年)、澄元は細川政賢、赤松義村と連携して京都に侵攻してくる。一時は劣勢に追い込まれて丹波にまで撤退したが、足利義澄の病死などにも助けられて、8月24日の船岡山の戦いに勝利した。
永正15年(1518年)8月2日、大内義興が周防に帰国すると、高国は単独で政権を掌握するようになり、名実共に高国政権が誕生した。しかしそれを好機と見た細川澄元・三好之長らが永正16年(1519年)から摂津に侵攻し、永正17年(1520年)2月に敗れた高国は、近江坂本に逃走した。しかし5月、再挙兵して京都に侵攻し、三好之長を自害に追い込み、澄元を摂津に追放した。そして澄元も6月に阿波で病死したため、高国は再び政権を取り戻したのである。
[編集] 凋落
こうして敵対者もいなくなり、高国は天下人になった。ところが高国は味方として武功も多かった河原林政頼らに謀反の嫌疑をかけて殺害し、大永元年(1521年)3月には将軍・足利義稙と対立して義稙を追放し、新たに足利義晴を第12代将軍として擁立した。その後、義稙の侵攻を何度か受けるが、大永3年(1523年)4月に義稙も死去したため、高国の勝利に終わった。
足利義晴を擁立した高国は、管領・武蔵守に任官された。大永4年(1525年)4月21日、剃髪して道永と号し、家督と管領職を実子の細川稙国に譲って隠居した。ところが12月に稙国が早世したため、やむなく管領・細川家当主として復帰する。
大永6年(1526年)、細川尹賢の讒言を信じて重臣の香西元盛を謀殺してしまった。これを知った元盛の兄・波多野稙通と柳本賢治らは細川晴元(澄元の子)や三好元長(之長の嫡孫)と連携して丹波で挙兵する。高国は細川尹賢を丹波に侵攻させたが、逆に敗退した。大永7年(1527年)2月には逆に柳本賢治や三好元長らに京都に侵攻され、桂川で迎撃したが敗れ、足利義晴を擁して近江坂本に逃れた(桂川の戦い)。こうして高国政権は崩壊した。
[編集] 最期
高国はその後、伊賀の仁木義広や伊勢の北畠晴具、越前の朝倉孝景、出雲の尼子経久らを頼って落ち延びていた。享禄3年(1530年)に柳本賢治が播磨出陣中に暗殺されると、浦上村宗と連携して京都に侵攻した。
しかし、晴元の重臣・三好元長の反撃を受けて享禄4年(1531年)3月10日の摂津中島の戦いで大敗する。さらに、6月4日には天王寺の戦いで元長に敗れ、尼崎に逃走した。元長の追跡は厳しく、紺屋の甕の中に隠れるが、発見されて甕の中から引きずり出され、6月8日の寅刻(午前4時)頃に尼崎の広徳寺で自害に追い込まれた。享年48。
[編集] 辞世の句
「絵にうつし石をつくりし海山を 後の世までも目かれずや見む」と言う辞世の句を、北畠晴具に送っている。