三村包常
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三村 包常 (みむら かねつね、寛文7年(1666年) - 元禄15年2月4日(1703年3月20日))は赤穂浪士四十七士の一人。赤穂浅野家では台所役人(7石2人扶持)で、寺坂吉右衛門を除けば四十七士の中では最も身分が低い。三村 次郎左衛門(みむら じろうざえもん)と称した。
赤穂城が開城された後も赤穂にあったが、この間、三村は、浪人した赤穂藩士たちの薪炭などの世話をしたことが、元禄14年(1701年)5月20日の中村正辰の書簡にある。大石内蔵助からも感謝状を受けたという。元禄15年(1702年)1月に山科へ赴いて内蔵助に神文血判書を提出した。10月に内蔵助とともに江戸へ下向し、日本橋石町三丁目の小山屋弥兵衛方に大石らとともに同宿した。身分が低いこともあって基本的に同志たちの間の連絡役に使われていたようだ。吉良邸討ち入りの際には裏門隊に所属した。その後、三河国岡崎藩主水野忠之の中屋敷に預けられ、2月4日、水野家家臣田口安左衛門の介錯で切腹した。享年37。主君長矩と同じ泉岳寺に葬られた。法名は刃珊瑚劔信士。