中村正辰
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中村正辰(なかむら まさとき、万治2年(1659年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は赤穂浪士四十七士の一人。赤穂藩では祐筆兼馬廻役で100石取り。通称は勘助(かんすけ)。
越後国村上藩松平家家臣の三田村小大夫。母は同じく松平家家臣の井上源右衛門の娘。延宝4年(1676年)、18歳のときに赤穂藩浅野家家臣の中村庄助の娘婿となった。家督を継いだのは、天和2年(1682年)と伝わるが、正確には不明。元禄2年(1689年)には長男忠三郎を儲けた。元禄7年(1694年)の備中松山城受取の軍にも従軍し、そのまま一年半にわたり松山に在番している。元禄8年(1695年)には養父庄助が死去。元禄12年(1699年)には次男勘次が生まれた。
元禄14年(1701年)3月14日、主君浅野内匠頭が吉良上野介に殿中刃傷に及んだ際、勘助は赤穂にいた。4月19日の赤穂城開城後も藩政残務処理のため大石内蔵助のもとで働き、幕府からもこの間7人扶持を支給された。9月下旬には内蔵助から堀部安兵衛ら江戸急進派を鎮撫の特命を受けて原惣右衛門や潮田又之丞、大高源五らとともに江戸へ下向するが、逆に丸め込まれて急進派になってしまう。その後、業を煮やした内蔵助自身の江戸下向があり、11月23日に内蔵助が江戸を発つ際に中村もお供して、12月には京都へ帰っていった。12月9日に潮田又之丞とともに神文血判書を提出し、元禄15年(1702年)5月には家族を奥州白河藩の親戚に預けた。10月21日、江戸下向中の内蔵助と鎌倉で合流。
吉良邸討ち入りの際には裏門隊に所属。本懐後、伊予国松山藩主松平定直の屋敷に預けられ、2月4日に松平家家臣大島半平の介錯にて切腹した。享年45。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃露白剣信士。
なお長男中村忠三郎は一族連座して伊豆国大島へ流罪にされた。しかしその後、赤穂義士を絶賛する世論の後押しなどもあって、瑤泉院(浅野内匠頭の正室)の赤穂浪士遺児たちの赦免嘆願が認められ、宝永3年(1706年)8月に幕府は家綱の二十七回忌法事による特赦として忠三郎を赦免した。忠三郎は浅草曹源寺で出家して白河で僧となった。次男勘次も曹源寺で出家して僧になっている。