三浦安
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三浦安(みうら やすし、文政12年(1829年)8月-明治43年(1910年)12月11日)は、幕末の紀州藩士。明治時代の政治家。東京府知事。幼名は光太郎、五助。号は香瀾。変名、内田敬之助。明治維新前は休太郎(きゅうたろう)を名乗り、維新後は諱である安(やすし)を名乗った。
西条藩士・小川武貴の長男として生まれ、江戸の昌平坂学問所で学ぶ。一時、尊皇攘夷派志士として活動していたと言われる。後、三浦家の養子となり14代目将軍継承問題に関して徳川家茂を支持し能力を認められ、主家である紀州藩に取り立てられる。
慶応3年(1867年)4月、いろは丸事件が起こり紀州藩代表として海援隊代表・坂本龍馬と交渉したが、国際法を用いられて敗れ多額の賠償金(8万3000両)を支払う結果となってしまう。そんな折り、坂本が京都近江屋で暗殺され、賠償問題で恨みがあったとされる三浦が海援隊士に容疑者として狙われることとなった。三浦は新選組に身辺警護を依頼し、天満屋事件へと発展。顔面を負傷したものの命に別状は無かった。
戊辰戦争が勃発すると、一時捕縛されたが間もなく釈放されて明治政府に出仕。大蔵省官吏、元老院議員、貴族院議員、東京府知事、宮中顧問官などを歴任し、明治43年に死去。享年82。墓所は東京都豊島区妙行寺。