上杉持定
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上杉持定
[編集] 上杉持定 (扇谷上杉家)
上杉持定(うえすぎもちさだ、応永9年(1402年) - 応永26年(1419年))は、室町時代の人物。扇谷上杉家当主。上杉氏定の子。上杉持朝の兄。治部少輔。
応永23年(1416年)、父の氏定が上杉禅秀の乱の緒戦において持氏方として出陣した際、氏定の子が共に出陣したとあるが、それがこの持定と思われる。この戦いにおいて、氏定は敗北、負傷し、のち自害したため、後を継いだ。持定は鎌倉から一時撤退した鎌倉公方足利持氏とともに今川氏を頼ったと思われる(なお、当時、今川氏と扇谷上杉家は縁戚関係にあった)。禅秀の乱の終結の後、持定もわずか3年後に亡くなったため、扇谷上杉家の家督は弟の持朝が継承した。当時持朝は幼かったため、一族の上杉定頼(小山田上杉家)が陣代となり当主を代行した。
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[編集] 上杉持定 (八条上杉家)
上杉持定(うえすぎもちさだ)は、室町時代の人物。八条上杉家の当主。上杉満定の子。上杉成定の父。
八条上杉家は、扇谷上杉家と同系統で、上杉朝定の子の上杉朝顕を祖とする。朝顕以降、満朝、満定、持定と代々続き、京において幕府に仕えた。上杉氏の元々の嫡流は山内上杉家ではなくこの八条上杉家であるとする説もあるが、領国など強力な支配基盤がなかったため衰退していった[要出典]。
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