鎌倉
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鎌倉(かまくら)は、現在の鎌倉市の中心部に当たり、鎌倉幕府が置かれた都市である。三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。
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[編集] 概要
12世紀末から14世紀半ばの1333年まで幕府がおかれ、飛鳥、奈良、京都などに次ぎ、日本の政治・文化に重要な位置を占めてきた。現在の鎌倉は、古都保存法によって乱開発が規制され、歴史的風土を残し、多くの古社寺や史跡が残る(ただし、奈良や京都などに比較して圧倒的に文化財建造物は少なく、国宝建造物は円覚寺舎利殿1棟のみ)。東京に近く、市が観光振興に力を入れていることもあり、観光文化都市として繁栄している。また、近代に入ってからの鎌倉には鎌倉文士と呼ばれる作家、美術家などの文化人の一部が住んだり、ドラマや小説などの舞台となったことがあることも特筆される。
このページでは、「歴史都市」「観光文化都市」としての「鎌倉」について述べることとする。
[編集] 鎌倉の概要と歴史
[編集] 天然の要害
鎌倉の市街地は東・北・西の三方を山で囲まれ、南は相模湾に面した天然の要害である。東・北・西のいずれから鎌倉に入るとしても「鎌倉七口」と呼ばれる、山を切り開いた狭い通路(切通し)を通らねばならず、防御のしやすい土地柄であった。鎌倉幕府初代将軍の源頼朝がここを拠点としたのは、父祖ゆかりの土地であったこととともに、こうした地理的条件による部分が大きかったと思われる。市街地の北西には源氏山(92メートル)があり、山並みは鎌倉大仏の裏手を通って稲村ヶ崎まで伸びている。市街地の北から東にかけては六国見山(147メートル)、大平山(159メートル)、天台山(141メートル)、衣張山(120メートル)などの低い山が連なり、逗子市との境に当たる飯島ヶ崎、和賀江島(わかえじま)方面へ伸びている。市街地周辺の山はいずれも標高100~150メートル程度だが、標高の低い割には急坂やアップダウンの激しい山道が多いとされ、市街地北方の尾根道には「鎌倉アルプス」の別称がある。
現代の鎌倉市域は、南は相模湾に面し、北は横浜市、東は逗子市、西は藤沢市に隣接した区域で、面積は39.5平方キロメートルである。これは周辺の腰越町(1939年合併)、深沢村(1948年合併)、大船町(おおふなまち、1948年合併)が合併した後の市域である。中世の鎌倉はこれよりずっと狭い地域で、前述の東・北・西の三方を山で囲まれた地域に相当し、現在の「鎌倉地域」に当る。
なお、さらに広く現在の横浜市南西部や藤沢市の一部を含めた地域は鎌倉郡と呼ばれた(1948年消滅)。
[編集] 古代の鎌倉
鎌倉には縄文・弥生時代の遺跡もあり、杉本寺、長谷寺、甘縄神明社のように創建を奈良時代と伝える社寺も存在する。また万葉集にも登場し、三浦半島から房総半島へ抜ける古代の東海道が通っていたらしい。しかし、鎌倉が歴史の表舞台に登場するのは源頼朝の登場以降である。奈良時代から平安時代中期にかけての鎌倉の実情については、史料が乏しく、あまり明確ではない。
[編集] 源氏と鎌倉
康平6年(1063年)源頼義は由比郷鶴岡(鎌倉市材木座)に「鶴岡若宮」として、河内源氏の氏神である河内国石川郡壷井の壷井八幡宮を勧請した。この年は、源頼義が陸奥の安倍貞任を討ち、前九年の役が終結した翌年である。源頼義は、氏神として信仰する八幡神に戦勝を祈願していた。そして、戦いの後、京都郊外の石清水八幡宮に勝利を感謝し、本拠地の河内国壷井に壷井八幡宮を勧請し、河内源氏の東国進出の拠点である鎌倉に八幡神の分霊を祀った。これが今も鎌倉の中心である鶴岡八幡宮の起源である。
源頼朝が鎌倉入りしたのは、それから1世紀以上経た治承4年(1180年)のことである。頼朝の父・源義朝は、平治の乱(平治元年/1159年)で平清盛との戦いに敗れ、関東へ落ち延びる途中、尾張国で殺害された。これが初陣であった若き頼朝も殺されるはずであったが、清盛の継母にあたる池禅尼の助命嘆願で許され、摂津源氏の源頼政一族の知行国でもある伊豆の蛭ヶ小島へ流された。それから20年後の治承4年(1180年)、以仁王が頼政の嫡子の「前伊豆守」源仲綱を通じて全国の源氏に発した令旨を奉じた頼朝は、流刑先の伊豆で平氏打倒の兵を挙げる。頼朝の軍は石橋山の戦い(神奈川県小田原市)では敗北して、いったん安房(千葉県南部)へ引き下がるが、ここで軍勢を整え、続く富士川の戦いでは平維盛らの軍勢を圧倒する。関東を平定した頼朝は父祖ゆかりの地であり、天然の要害である鎌倉に入り、大倉(大蔵)という場所に館を設ける。現在の鶴岡八幡宮の東方、清泉女学院小学校のあたりがその館跡で、ここは後に「大蔵(倉)幕府」と呼ばれるようになる。
同じ治承4年(1180年)、頼朝は八幡宮(鶴岡若宮。由比若宮)を由比郷鶴岡から小林郷へ移す。小林郷は現在の鶴岡八幡宮の所在地であり、「鶴岡」は地名ごと移動してきたことになる(なお、由比若宮の旧地には、今も「元八幡」という小社が残る)。以後、鶴岡八幡宮は鎌倉の象徴となり、都市計画は八幡宮を中心に行われた。寿永元年(1182年)には八幡宮の表参道が整備された。現在も鎌倉のメインストリートである若宮大路がそれである。当時、水田の中の道だった若宮大路は、石を積んで周囲の地面よりかさ上げする工事が行われた。現在「段葛」(だんかずら)と呼ばれている、両脇の車道より一段高くなった歩道はその名残である。
[編集] 鎌倉時代の始まり
「鎌倉時代」あるいは「鎌倉幕府」の始まりをどこに置くかは、研究者によって見解が分かれている。
- (1)頼朝が鎌倉入りした治承4年(1180年)とする。
- (2)後白河法皇から守護地頭の設置を許可され、平家(平氏の中の伊勢平氏庶流の平清盛一族のこと)が壇ノ浦で滅亡した文治元年(1185年)とする。
- (3)頼朝が征夷大将軍に任じられた建久3年(1192年)とする。
どの年を「鎌倉時代」の最初の年とするかについては、上に挙げた以外にも二、三の説があるが、武士の街としての鎌倉の始まりは頼朝が鎌倉に館を構えた1180年とみて大過ないであろう。この時点から日本の政治体制は変化し、明治維新まで700年近く続く、武家社会、封建社会が始まったのである。
周知のように河内源氏の源頼朝の家の正系の将軍は3代で途絶え、3代将軍源実朝が甥(実朝の兄である2代将軍源頼家の子)の公暁に殺害されてからは、北条氏が実権を握ることになる。この当時(12世紀末~13世紀初頭)は、京都の中央政府(院政)の力も衰えておらず、中央(都、首都)と鎌倉の二元的支配体制であったが、承久3年(1221年)の承久の乱(後鳥羽上皇が倒幕を企て、北条義時の追討を命じるが、失敗して隠岐に配流される)以後、鎌倉側の政治的優位は決定的となり、鎌倉は名実共に、日本の行政府所在地となったといえる。
北条氏は比企氏、三浦氏、和田氏など、ライバルとなるおそれのある一族を次々と滅ぼし、13世紀中頃以降は元冦という大事件があったものの、政治体制は一応安定していた。13世紀後半には建長寺、円覚寺をはじめとする禅寺が建てられ、鎌倉大仏が造立され、鎌倉五山の成立や、日蓮が活躍するなど、仏教文化が大いに栄えた。
その後、元寇をきっかけに幕府財政は逼迫し、内管領の長崎氏の専横などで、地方では悪党が活動する。こうした中で後醍醐天皇は倒幕を企てる。元弘3年(1333年)、天皇の意を受けた新田義貞軍は鎌倉を陥落させ、北条高時ら一族家臣は菩提寺の東勝寺で自害し、鎌倉幕府は崩壊した。
[編集] 室町時代以降の鎌倉
建武の新政においては関東統治のため鎌倉将軍府が置かれ、足利尊氏の弟である足利直義が成良親王を奉じて派遣される。35年に北条氏の残党勢力による中先代の乱が起こり鎌倉が奪還されると、討伐のために赴いた尊氏が戦後に鎌倉を拠点に建武政権から離反する。足利軍は36年に京都を奪還し、京都に武家政権を成立させ、南北朝時代の貞和5年(正平4年、1349年)には、鎌倉へ尊氏の子の足利基氏が派遣され、東国支配のための出先機関として鎌倉府が設置される。(その長官が鎌倉公方)。
室町時代には鎌倉府は京都の幕府と対立し、永享の乱などが起こる。康正元年(1455年)、5代公方の足利成氏は室町幕府側と対立し、下総国古河(茨城県古河市)に逃れて、以後「古河公方」となる。永正9年(1512年)には北条早雲が現在の鎌倉市大船に小田原城の支城である玉縄城を築くが、ここはもはや中世の鎌倉の境域ではない。
近世には江戸に武家政権が成立し、鶴岡八幡宮は徳川家康・秀忠の保護を受け、社殿の修理が行われたが、もはや鎌倉が政治の表舞台になることはなかった。江戸時代中期からは、鎌倉は江戸近郊の遊楽地となった。「鎌倉十橋」「鎌倉十井(じっせい)」などのいわゆる「名数」は江戸時代の観光キャンペーンの一貫として名付けられたものという。
近代になると、鎌倉は東京近郊の高級住宅地および観光地、海水浴場として栄えるようになる。また、夏目漱石、芥川龍之介、国木田独歩、川端康成、大佛次郎をはじめ多くの文人が鎌倉に住み、あるいは鎌倉を舞台とした作品を残した。現代の鎌倉は、多くの史跡・文化財と良好な自然環境を残した国際観光都市として栄え、多くの観光客を惹き付けている。
[編集] 略年表
- 康平6年(1063年)河内源氏の源頼義は由比郷鶴岡に、河内国の壷井八幡宮を勧請。由比若宮(鶴岡若宮)と称す。
- 治承4年(1180年)源頼朝、伊豆で平氏打倒の挙兵。石橋山の戦い。由比若宮を由比郷鶴岡から小林郷へ移す。
- 文治元年(1185年)守護地頭の補任が後白河法皇から許可される。壇ノ浦で平家滅亡。頼朝、父義朝の菩提のため勝長寿院(廃絶)を建立。
- 文治5年(1189年)頼朝、永福寺(ようふくじ、廃絶)造営を始める(1191年とも)。
- 建久3年(1192年)頼朝、征夷大将軍となる。
- 正治元年(1199年)頼朝没。
- 正治2年(1200年)頼朝の妻北条政子、夫の菩提のため寿福寺を建てる。
- 建仁3年(1203年)2代将軍源頼家の外戚(妻の実家)比企氏が滅ぼされる。頼家は伊豆国修禅寺(伊豆市)に幽閉され、翌年殺害される。同年、頼家の弟・源実朝が3代将軍となり、北条時政が初代執権となる。
- 建保元年(1213年)北条時政の子・義時が侍所別当和田氏を滅ぼす。
- 承久元年(1219年)源実朝、甥の公暁に殺害される。以後、将軍は傀儡となり、北条政子(頼朝の妻)とその弟の北条義時が実権を握る。
- 承久3年(1221年)後鳥羽上皇が倒幕を企て、北条義時の追討を命じるが失敗し、上皇は隠岐に配流される(承久の乱)。
- 嘉禄元年(1225年)北条政子没。
- 貞永元年(1232年)北条泰時により御成敗式目が制定される。
- 建長4年(1252年)鎌倉大仏鋳造開始される。
- 建長5年(1253年)建長寺完成。日蓮、辻説法を始める。
- 弘安5年(1282年)円覚寺完成。日蓮没。
- 元弘元年(1331年)後醍醐天皇による倒幕計画が発覚。関係者が処分される(元弘の変)。
- 元弘3年(1333年)新田義貞、鎌倉を攻略。北条高時ら一族、東勝寺にて自害。鎌倉幕府崩壊。
- 貞和5年(正平4年、1349年)足利尊氏、次男基氏を鎌倉公方に任命。
- 永享10-11年(1438-1439年)鎌倉公方足利持氏、関東管領の上杉憲実と対立。6代将軍足利義教は持氏追討を命じ、持氏は自刃(永享の乱)。
- 康正元年(1455年)鎌倉公方足利成氏は将軍足利義政の命を受けた今川範忠に攻められ、下総古河へ逃れる。
- 永正9年(1512年)北条早雲、玉縄城を築く。
[編集] 鎌倉のおもな社寺
[編集] 山ノ内
- 円覚寺-鎌倉五山第2位。臨済宗円覚寺派大本山。山号は瑞鹿山、開基は北条時宗、開山は無学祖元。
- 東慶寺-臨済宗。山号は松岡山、開基は北条貞時、開山は覚山尼。「縁切寺」の別称あり。著名人の墓が多い。
- 浄智寺-鎌倉五山第4位。臨済宗。山号は金宝山、開基は北条宗政・師時、開山は兀庵普寧(ごったんふねい)、大休正念(請待開山)、南洲宏海(準開山)。
- 明月院-臨済宗。山号は福源山、開基は上杉憲方(寺伝では首藤経俊)、開山は密室守厳。「あじさい寺」として知られる。
- 長寿寺-臨済宗。山号は宝亀山、開基は足利基氏、開山は古先印元。寺内は非公開。
- 建長寺-鎌倉五山第1位。臨済宗建長寺派大本山。山号は巨福山(こふくさん)、開基は北条時頼、開山は蘭渓道隆。
- 円応寺-臨済宗。山号は新居山、開基は未詳、開山は智覚禅師(桑田道海)とも伝えるが未詳。閻魔王をはじめとする十王像を安置。
[編集] 扇ヶ谷(おうぎがやつ)、源氏山
- 寿福寺-鎌倉五山第3位。臨済宗。山号は亀谷山、開基は北条政子、開山は栄西。
- 英勝寺-浄土宗。開基は太田道灌の子孫で徳川家康の側室であった英勝尼。鎌倉に現存する唯一の尼寺。
- 浄光明寺-真言宗泉涌寺派準別格本山。山号は泉谷山、開基は北条長時、開山は真阿。重要文化財の阿弥陀三尊像、国史跡の冷泉為相墓がある。
- 薬王寺-日蓮宗。山号は大乗山、開山は日像。
- 海蔵寺-臨済宗。山号は扇谷山(せんこくざん)、開基は上杉氏定、開山は蘭渓道隆の法系の空外(くうげ)とも言い、寺伝では曹洞宗の僧・源翁禅師(心昭空外)とするが定かでない。「十六ノ井」という中世の岩窟(井戸とも墓所ともいう)がある。
- 葛原ヶ岡(くずはらがおか)神社-祭神は日野俊基。1887年(明治20年)頃の創建。
- 宇賀福神社(銭洗弁天)-祭神は宇賀神(弁才天と同一視される)。源頼朝の創建という。境内奥の洞窟の湧き水でお金を洗うと数倍になって戻ってくるという信仰がある。
- 佐助稲荷神社-鎌倉幕府開設以前からの古社。当社の神霊が頼朝の挙兵をうながしたとされ、佐殿(すけどの、頼朝の呼称)を助けたとの意で佐助稲荷と名付けられた。
[編集] 鶴岡八幡宮周辺
- 鶴岡八幡宮-源頼義が河内源氏本拠地の壺井水八幡宮を勧請したもので、もと由比郷(鎌倉市材木座)にあり、源頼朝が現在地に移す。河内源氏の守護神であり、鎌倉の象徴的存在である。
- 来迎寺(らいこうじ)-時宗。山号は満光山、開基は未詳、開山は一遍または一向とも伝えるが未詳。法華堂(頼朝の持仏堂)旧蔵の如意輪観音像を安置。
- 宝戒寺-天台宗。山号は金龍山、開山は円観(恵鎮)。本尊地蔵菩薩坐像は重要文化財。「萩の寺」として知られる。
- 妙隆寺-日蓮宗(日蓮)。山号は叡昌山、開基は千葉胤貞、開山は日英。「鍋かむり上人」として知られる2世住持・日親の石像がある。
[編集] 二階堂、金沢街道方面
- 荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)-祭神は菅原道真。長治元年(1104年)の建立と伝える。
- 鎌倉宮-祭神は護良親王。明治天皇の命で1869年(明治2年)創建。
- 覚園寺-真言宗。山号は鷲峰山、開基は北条義時、開山は智海心慧(ちかいしんえ)。古い鎌倉の面影をもっともよく残す寺といわれる。
- 瑞泉寺-臨済宗。山号は錦屏山、開基は二階堂道蘊(どううん)、開山は夢窓疎石。「花の寺」として知られ、夢窓疎石作の庭園がある。
- 杉本寺-天台宗。山号は大蔵山、開基は行基と伝える。鎌倉最古の寺と伝え、本尊は3体の十一面観音である。
- 報国寺-臨済宗。山号は功臣山、開基は寺伝では足利尊氏の祖父足利家時(上杉重兼ともいう)、開山は天岸慧広(てんがんえこう)。「竹の寺」として知られる。
- 浄妙寺-鎌倉五山の第5位。臨済宗。山号は稲荷山(とうかさん)、開基は足利義兼、開山は退耕行勇。
- 明王院-真言宗。山号は飯盛山、開基は鎌倉4代将軍藤原頼経、開山は定豪(じょうごう)。
- 光触寺(こうそくじ)-時宗。山号は岩蔵山、開基は一遍と伝えるが未詳、開山は作阿。本尊の阿弥陀如来(通称頬焼け阿弥陀)と境内の「塩嘗(しおなめ)地蔵」が知られる。
- 十二所神社(じゅうにそうじんじゃ)-祭神は天神(あまつかみ)7柱、地神(くにつかみ)5柱の12神(社名はこれに由来する)。弘安元年(1278年)の創建と伝える。
[編集] 小町、大町
- 大巧寺-単立(無宗派)の仏教寺院。山号は長慶山、本尊は安産の神・産女霊神で、「おんめさま」の通称で知られる。
- 本覚寺-日蓮宗。山号は妙厳山、開山は日出。2世住持の日朝が建立した日蓮聖人分骨堂がある。
- 妙本寺-日蓮宗。山号は長興山、開基は比企大学三郎能本(よしもと)、開山は日朗。境内に比企一族の墓所、一幡の墓、蛇苦止(じゃくし)明神がある。
- 常栄寺-日蓮宗。山号は恵雲山、開山は日詔。「ぼたもち寺」の通称で知られる。
- 別願寺-時宗。足利持氏供養塔と伝える石造宝塔(重文)がある。
- 安養院-浄土宗。山号は祇園山、開基は北条政子、開山は願行房憲静。
- 妙法寺-日蓮宗。山号は楞厳山(りょうごんさん)、開山は日蓮、中興開山は護良親王の子・日叡。「苔の石段」が著名で、「苔寺」の別称がある。
- 安国論寺-日蓮宗。山号は妙法華経山、開山は日蓮。境内の岩窟は日蓮が『立正安国論』を執筆したところという。
- 教恩寺-時宗。山号は中座山、開基は北条氏康、開山は知阿上人。元は材木座の光明寺の境内にあったとされ、この地にあった光明寺の末寺、善昌寺が廃寺になったことにより移建されたと伝えられている。
- 上行寺(じょうぎょうじ)-日蓮宗。山号は法久山、開山は日範上人。桜田門外の変で大老井伊直弼を暗殺した水戸藩士の一人、広木松之助の墓がある。
- 本興寺-日蓮宗。山号は法華山、開山は天目上人。日蓮上人が辻説法を行なった地域にあり、「辻の本興寺」と呼ばれている。
- 辻の薬師堂。元々、医王山長善寺という浄土宗の寺のお堂であったが、江戸末期の火災で寺が焼失し、お堂だけが残った。本興寺の正面に位置する。
- 大宝寺-日蓮宗。山号は多福山、開山は日出上人。境内には新羅三郎(源義光)ゆかりの多福神社がある。
[編集] 材木座
- 元八幡-鶴岡八幡宮の旧地。源頼義が石清水八幡宮を勧請して建立した。
- 長勝寺-日蓮宗。山号は石井山、開山は日蓮。高村光雲作の日蓮の銅像がある。
- 来迎寺(らいこうじ)-時宗。山号は随我山、開基は源頼朝。
- 補陀落寺(ふだらくじ)-真言宗。山号は南向山、開山は文覚。
- 九品寺(くほんじ)-浄土宗。山号は内裏山、開基は新田義貞、開山は風航順西。
- 光明寺-浄土宗関東総本山。山号は天照山、開基は北条経時、開山は然阿良忠(記主禅師)。
- 延命寺-浄土宗。山号は帰命山、開山は専蓮社誉能公上人。北条時頼の夫人が建立したといわれている。
- 五所神社-材木座の氏神。明治41年、乱橋村と材木座村が合併した際に、もともとこの地にあった三島神社に村内の八雲神社、諏訪神社、視女社、金毘羅宮を合祀し、五所神社と改称したもの。
- 向福寺-時宗。山号は円龍山、開山は一向上人。
- 妙長寺-日蓮宗。山号は海潮山、開山、開基は日実上人。日実上人は伊豆で日蓮を救った漁師、舟守弥三郎の子と言われる(弥三郎本人という説もあり)
- 実相寺-日蓮宗。山号は弘延山、開山、開基は日昭上人。曽我兄弟に仇討ちされた工藤左右衛門祐経の屋敷だったところに、祐経の孫にあたる日昭上人が法華寺として開山。
[編集] 長谷
- 長谷寺-単立(無宗派)の仏教寺院。山号は海光山、開山は徳道上人。高さ9メートルの十一面観音を本尊とし、「長谷観音」として知られる。
- 収玄寺-日蓮宗。開基、開山は未詳。寺地は日蓮に帰依した武士四条頼基の邸跡といい、寺は近代になって再興されたもの。
- 光則寺-日蓮宗。山号は行時山、開基は宿谷光則、開山は日朗。花の寺として知られる。
- 高徳院(鎌倉大仏)-浄土宗。開基、開山は未詳。鎌倉大仏を本尊とする。
- 甘縄神明社-奈良時代、行基の創建と伝える。
- 御霊神社-祭神は鎌倉権五郎景正(景政)。9月18日の例祭で行われる「面掛行列」が名高い。
- 極楽寺-真言律宗。山号は霊鷲山、開基は北条重時、開山は忍性。本尊釈迦如来立像をはじめ、鎌倉時代の仏像が多数ある。
- 成就院-真言宗大覚寺派。山号は普明山、開基は北条泰時。
[編集] 腰越、深沢
- 満福寺-真言宗。山号は龍護山、開基は奈良時代の僧行基と伝える。源義経が滞在し、「腰越状」を書いたところとして知られる。
- 龍口寺(りゅうこうじ)-日蓮宗。山号は寂光山。日蓮の「竜の口の法難」の地に建つ。行政区画的には藤沢市片瀬に位置する。
- 青蓮寺(しょうれんじ)-真言宗。山号は飯盛山、開山は空海と伝え、中興開山は善海。通称は鎖大師。重要文化財の弘法大師坐像(鎖大師)を安置する。所在地は鎌倉市手広。
- 円久寺-日蓮宗。山号は常葉山。開山、開基は日惺上人(日伊上人とも伝えられる)。もとは妙本寺の末寺。隣にある常盤の八雲神社はかつてこの円久寺に属し、天王社と呼ばれていた。
- 子守神社。祭神は子守大神(こもりのおおかみ)
- 佛行寺-日蓮宗。山号は笛田山。開山は仏性院日秀。裏山に梶原景時の長男、梶原源太景季の片腕が埋められていると伝えられる源太塚がある。
[編集] 大船(おおふな)
- 常楽寺-臨済宗。山号は粟船山、開基は北条泰時、開山は退耕行勇。建長寺創建以前に蘭渓道隆が住した。山号の粟船は大船の古名。
- 称名寺(今泉不動)-浄土宗。山号は今泉山。空海の創建と伝える。
- 竜宝寺-曹洞宗。山号は陽谷山、開基は玉縄城主の北条綱成、開山は泰絮宗栄(たいじょそうえい)。境内には重要文化財の旧石井家住宅が移築されている。
- 大船観音寺
[編集] 唱歌
1900年(明治33年)5月発表の『鉄道唱歌』第1集東海道編(大和田建樹作詞、全64番)では、東海道本線を外れてわざわざ横須賀線に入り、鎌倉に4番を割いている。作者が京都・近江八景・太宰府天満宮など歴史的な土地に相当な執着を持っていたからと言われ、鎌倉に関しては後には葉山に別荘を構えたりもした。
- 6.横須賀ゆきは乗替と 呼ばれておるる大船の つぎは鎌倉鶴が岡 源氏の古跡や訪ね見ん
- 7.八幡宮の石段に 立てる一木の大鴨脚樹(いちょう) 別当公暁のかくれしと 歴史にあるは此(この)蔭よ
- 8.ここに開きし頼朝が 幕府のあとは何(いず)かたぞ 松風さむく日は暮れて こたえぬ石碑は苔あおし
- 9.北は円覚建長寺 南は大仏星月夜 片瀬腰越江の島も ただ半日の道ぞかし