上杉朝定
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上杉 朝定(うえすぎ ともさだ)
- 南北朝時代の人物。二橋上杉家(八条上杉家、扇谷上杉家の前身)当主。
- 戦国時代の人物。扇谷上杉家当主。
[編集] 上杉朝定(南北朝時代)
上杉 朝定(うえすぎ ともさだ、元応3年又は元亨元年(1321年) - 正平7年/観応3年(1352年))は、南北朝時代の人物。上杉重顕の子。八条上杉家の上杉朝顕の父で、扇谷上杉家の上杉顕定の養父。左近将監。弾正正弼。従五位下 。
父の重顕から家督を継いだ。足利尊氏・足利直義兄弟に仕え、京において室町幕府の要職(丹後守護、引付頭人等)にあり活動した。高師直とともに尊氏の執事を務めていたこともあるが、観応の擾乱が勃発すると直義方につき尊氏・師直と戦った。1352年、信濃において没したが、死因は病没とも戦死ともいわれはっきりしない。
[編集] 上杉朝定(戦国時代)
上杉 朝定(うえすぎ ともさだ、大永5年(1525年) - 天文15年4月20日(1546年5月19日))は戦国時代の武将。扇谷上杉家の事実上最後の当主。五郎。仏心院。
上杉朝興の嫡男。父が1537年に没したとき、まだ幼少であったが、後北条氏を攻めようと、武蔵国橘樹郡片倉・神大寺に城(神大寺城)を築き城主となった。しかし、後北条氏の当主北条氏綱に隙を突かれて河越城を奪われてしまい、以後は松山城を本拠とした。なお、この敗北の際に北条方に捕らえられた上杉朝成は彼の叔父である。
松山城において、難波田憲重らの補佐を受けるとともに、敵対していた山内上杉家の上杉憲政や古河公方の足利晴氏と同盟を結んで北条氏綱・氏康に対抗したが、1546年、河越の戦い(いわゆる河越夜戦)で戦死してしまった。
上杉朝定の死により、扇谷上杉家は断絶した。一時、扇谷家庶流筋の上杉憲勝が上杉謙信の後援により再興をはかったが、まもなく後北条氏に屈服している。
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