上杉顕孝
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上杉 顕孝(うえすぎ あきたか、明和6年(1769年)~寛政6年(1794年))は、出羽国米沢藩第9代藩主・上杉治憲(鷹山)の長男。父の養子となった10代米沢藩主・上杉治広(8代藩主・上杉重定の次男)の養子となったが、家督相続前に死去した。代わって、上杉斉定(重定の嫡孫)が嫡子となり、のち藩主に就任した。
本来であれば上杉鷹山の長男として、鷹山の次々代の米沢藩を担うはずの人でした。 上杉鷹山には側室「お豊の方」との間に二人の男子があったのですが、次男の寛之助が早世したために長男の顕孝には大きな期待がかかり、本人も期待に応えるべく世子(藩主を約された子。将来の藩主)としての成長を遂げていきました。 鷹山が世子顕孝に藩主としての心構えを示した「(な)せば成る。為(な)さねば成らぬ何事も、成らぬは、人の為(な)さぬなりけり」は有名な一言です。 ただ、顕孝は世子として江戸に留学中の寛政6年(1794年)に疱瘡にかかってわずか19才で生涯を閉じることとなります。 実子二人を失った鷹山は悲しむことはかりしれず、顕孝の遺骸が米沢城に着いたとき、「十年余り見しその夢はさめにけり軒端に伝う松風の声」と一首の悲しみの歌を捧げています。 また、それまでの歴代藩主の遺骸は火葬にして納骨するのが慣例になっていたのですが、最愛の息子を焼くにしのびず土葬にします。この一点をみても、子を失った親の心がいかに悲しいかというものががうかがえるものです。 世子顕孝の遺骸は上杉御廟所の西、鷹山の脇、一段後部に小さな御堂があり、その中に埋葬されています。 歴代藩主しか眠ることが許されない御廟所に世子である顕孝を埋葬させることは偉大な政治家、上杉鷹山が願い出た数少ない我がままだったかも知れませんが、当時の誰一人として反対するものはいなかったと言われています。