中御門経継
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中御門 経継(なかみかど つねつぐ、正嘉2年(1258年)- ?)は、鎌倉時代後期の公家。父は中納言吉田経俊、母は宮内卿平兼光の娘。勧修寺流中御門家の祖。子に中御門経宣がいる。
後宇多天皇側近であり、乾元元年(1302年)院政を行っていた後宇多上皇の推薦で当時の要件とされていた蔵人・弁官を経ずに参議に昇進する。嘉元3年(1305年)には権中納言となり、評定衆として活動する。持明院統の伏見上皇の院政中は逼塞していたが、後宇多上皇が後醍醐天皇のもとで再度院政を始めると、元応元年(1319年)には権大納言・院伝奏となった。だが、後醍醐天皇が大覚寺統嫡流である邦良親王を廃して自分の子に皇位を継承させようとすると、後宇多上皇の意を受けて邦良親王擁護の為に奔走する。だが、後宇多法皇次いで邦良親王が没すると、後醍醐天皇から疎まれていた経継は宮廷から追われて嘉暦元年(1326年)に出家した。その後の動向は不明。