中西啓介
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中西 啓介(なかにし けいすけ、1941年(昭和16年)2月6日 - 2002年(平成14年)1月27日)は、日本の政治家。
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[編集] 概要
和歌山県和歌山市出身。衆院議員山口喜久一郎秘書、和歌山県肢障者連顧問を経て、1976年(昭和51年)、第34回衆議院議員総選挙に旧和歌山1区から自由民主党公認で立候補し初当選。中曽根派から田中派へと移り、田中派分裂後は竹下派に所属。小沢一郎の側近として台頭し、自民党副幹事長、大蔵政務次官を歴任した。
[編集] 小沢一郎の側近
1992年(平成4年)の竹下派分裂では、小沢と行動を共にし羽田・小沢派に参加。1993年(平成5年)の自民党分裂でも羽田、小沢と行動を共にして自民党を離党し、新生党を結成。第40回衆議院議員総選挙で自民党が過半数を割り、日本新党の細川護熙を首相とする細川内閣が成立すると、中西は防衛庁長官として入閣した。しかし同年12月に憲法についての発言が問題となり防衛庁長官を辞任。このころから紀陽銀行に関する不正融資への関与や関西空港建設に関連し業者から献金を受けたなどという噂が取りざたされる。中西は小沢の側近と言うこともあり、政敵の標的となった嫌いも無いわけではない。
1994年(平成6年)12月、新進党結成に参加。しかし、1995年(平成7年)、息子が大麻使用で逮捕されたことを理由に衆議院議員を辞職し、同年6月には東京共和信用組合、安全信用組合の乱脈融資・経営問題に関与し、衆議院予算委員会に証人として喚問された。1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙では、新進党公認で小選挙区和歌山1区から当選。政界に復帰するが、和歌山市長であった旅田卓宗や、元職の東力も出馬したため、地盤が弱体化した。
[編集] 小沢との決別
1998年(平成10年)、小沢一郎を党首とする自由党の結成にに参加するが、2000年(平成12年)の自由党の連立離脱問題では連立維持を主張。永年付き添った小沢と袂を分かち、保守党に参加する。しかし、与党側に残留したものの、地元の自民党和歌山県連が中西への選挙協力を拒否し、谷本龍哉を擁立。同年の第42回衆議院議員総選挙では谷本に敗れ落選し、政界を引退した。
2002年(平成14年)心不全で1月27日死去。糖尿病が悪化していたとも伝えられた。享年60。
[編集] 略歴
[編集] 経歴
[編集] 政歴
- 1976年(昭和51年)
- 12月5日 第34回衆議院議員総選挙(旧和歌山1区・自由民主党公認)当選。
- 1980年(昭和55年)
- 6月22日 第36回衆議院議員総選挙(旧和歌山1区・自民党公認)2期目当選。
- 1983年(昭和58年)
- 12月18日 第37回衆議院議員総選挙(旧和歌山1区・自民党公認)3期目当選。
- 1986年(昭和61年)
- 7月6日 第38回衆議院議員総選挙(旧和歌山1区・自民党公認)4期目当選。
- 1990年(平成2年)
- 2月18日 第39回衆議院議員総選挙(旧和歌山1区・自民党公認)5期目当選。
- 1993年(平成5年)
- 1994年(平成6年)
- 1995年(平成7年)
- 5月 衆議院議員辞職。
- 1996年(平成8年)
- 10月20日 第41回衆議院議員総選挙(和歌山1区・新進党公認)7期目当選。66,428票。
- 1997年(平成9年)
- 12月27日 新進党解散。
- 1998年(平成10年)
- 2000年(平成12年)
- 4月1日 自由党離党、保守党結成。
- 6月25日 第42回衆議院議員総選挙(和歌山1区・保守党公認)落選。65,468票。
[編集] 関連項目
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