乃美織江
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乃美 織江(のみ おりえ、文政5年1月28日(1822年2月19日) - 明治39年(1906年))は長州藩志士。諱は宣忠、宣良。通称は宣(のぼる)、幸之進、半兵衛とも。父は乃美八郎右衛門、母は井上六兵衛の長女。
1842年、記録所出頭役見習として江戸に赴く。1854年、相州備場警備を担当。1857年、家督を継ぐ。1862年に上京して目付役、京都留守居助役となり、翌1863年に帰国するが、8月18日の政変の後、留守居役となり再び上京。1864年6月5日の池田屋事件の際に死亡した吉田稔麿の死を嘆いた。翌7月、出兵を目論む福原越後らと交渉するものの決裂し、藩邸にて大酒を飲み、火を放って西本願寺に逃走。会津藩兵士に取り囲まれて自害しようとしたが、僧侶に止められてその場を逃れ、帰国。
維新後は山口藩大属・萩部支庁・兵庫伊弉諾神社宮司などを務めた。
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