九六式十五糎榴弾砲
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制式名 | 九六式十五糎榴弾砲 |
砲身長 | 3.53m |
重量 | 4,140㎏ |
口径 | 149.1㎜ |
初速 | 540m/秒 |
最大射程距離 | 11,900m |
製造国 | 日本 |
製造 | 不明 |
九六式十五糎榴弾砲(96しき15せんちりゅうだんほう)は、第二次世界大戦に日本軍が開発、大戦全般にわたって使用された榴弾砲である。
目次 |
[編集] 開発経緯
当時日本陸軍が使用する四年式十五糎榴弾砲は自体を分解し、馬などに載せて運ばなければならず、とても面倒であった。また砲も日露戦争当時の物をそのまま使用していた。軍部は1925年、威力増大を含めた四年式十五糎榴弾砲の改造要求を出した。要求に対し造兵廠では薬室を延長した超1号装薬を新設、さらに駐退複座機を取り付けた改造四年式十五糎榴弾砲を昭和6年(1931年)の3月に正式採用した。しかし威力が増大した分、砲自身の耐久力に疑問の声が上がりその後も数回に及ぶ改修を行うこととなった。
[編集] 登場
改造四年式十五糎榴弾砲の改良に失敗後、軍部はまた新たに新型の榴弾砲の開発を求めた。折りしもこの頃、同盟国であったドイツではアドルフ・ヒトラーが政権を握り、ドイツ軍全体で大幅な機械化が進められていた。その影響を受け、旧日本軍も急速に軍自体の機械化を進める事となったのである。開発要求としては、
- 野戦重砲の移動の際、分解せずに移動できること
- 移動手段を馬から牽引車に切り替える
- 九二式十糎加農砲の弾薬をそのまま使用できること
などで設計を命じた。昭和9年(1934年)に設計開始し、翌年に試製砲を完成、性能試験を繰り返し行った。そして3年目の昭和12年(1937年)に九六式十五糎榴弾砲として仮正式採用された。(制式採用が上申される直前に日中戦争が勃発したため仮となった) まもなく北支にて日中戦争が勃発。完成していた九六式十五糎榴弾砲8門すべてを実戦試験を兼ねて実戦に投入した。期待通りの成績を上げた当砲は各部隊で絶大な評判を受け、昭和13年(1938年)5月に正式採用、量産体制に入ったのである。
[編集] その後
日中戦争以降、九六式十五糎榴弾砲はノモンハン事件(陸軍初の1万メートル超の砲撃戦)、太平洋戦争ではバターン、コレヒドール攻略戦、ガダルカナル島の戦いなど各戦線で使用され多大な戦果をあげている。最後に九六式十五糎榴弾砲が活躍したのは昭和20年(1945年)に起こった沖縄戦で、全ての弾薬を撃ちつくし、すべて破壊されるまで奮戦している。(このときの本部隊第2大隊の砲撃で、米軍の司令官バックナー中将が戦死している)
終戦までの製造総数は440門。終戦後、九六式十五糎榴弾砲の一部は靖国神社内の遊就館に展示され、現在でも見ることが出来る。
[編集] 登場するメディア作品
- メダル・オブ・オナー ライジングサン(PS2用ゲーム)
- メダル・オブ・オナー パシフィックアサルト(wimdows用ゲーム)
- シン・レッド・ライン(映画)
- ウインドトーカーズ(映画)