今城塚古墳
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今城塚古墳(いましろづかこふん)は大阪府高槻市郡家新町(ぐんげしんまち)に存在する6世紀前半では最大級の前方後円墳。
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[編集] 概要
墳丘の長さ190メートル、内濠、外濠を含めた兆域(ちょういき)は一辺約350メートルの方形である。 墳丘の荒廃が著しく,一時は織田信長が三好家を攻めた1568年(永禄11年)の摂津侵攻に際し築いた城砦として使われたためと理解されていたが、発掘調査の結果,大地震によって墳丘が崩壊したものとの見方が強まっている。
宮内庁から陵墓及び参考地に指定されていないため、一般人が見学可能であり、最近までは墳丘は近隣住人の散歩道になっており、環濠は魚釣り場であった。 高槻市では史跡公園としての整備を目指しており,ここ数年は,そのための情報を得るための発掘調査が継続的に行われている。
この今城塚古墳が、6世紀のヤマト政権の大王墓と想定され、6世紀前半に死亡した継体天皇陵というのが学界の定説になっている。しかし、宮内庁は今城塚古墳から西へ1.3kmにある大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を継体天皇陵に指定している。
この大王墓が、畿内北部、淀川水系の摂津の三島野(みしまの)古墳群にはじめて出現することは、それまではずっと南部の大和川水系の大和・河内にあった勢力の主導権が移ったことを意味する、と考えられている。
[編集] 発掘調査
発掘は、1997年から毎年、高槻市埋蔵文化財調査センターが行っている。二重の濠を区分する内堤から形象埴輪や埴輪祭祀(はにわさいし)区が出土し、出土点数や埴輪祭祀区の規模が日本最大のものである。埴輪祭祀区は、東西62-65m、南北約6mの広さで、家形15、柵形25、蓋形4、大刀形14、楯形1、靱(ゆき)形1、武人形2、鷹匠(たかしょう)形2、力士形2、冠帽男子1、座像男子4、巫女(みこ)形7、四足動物(馬形など)18、鶏形4、水鳥形13の合わせて113点以上が出土した。なかでも家形埴輪は、高さが170cmもあり人の身長並みで、入母屋(いりもや)造りで、神社建築の屋根を飾る鰹木(かつおぎ)、千木(ちぎ)があり、高床の柱を円柱で表現している。吹き抜けの構造で神社とも考えられる。
[編集] 関連項目
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