前方後円墳
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前方後円墳 (ぜんぽうこうえんふん)は、日本における古墳の一形式で、円形と台形を組み合わせたような形をしている。その形は、円形墳丘墓の通路部分が発達し墳丘と一体化したもの、と考えられている。 その分布は、北は岩手県から南は鹿児島県まで及んでいる。 前方後円墳は朝鮮半島西南部にも存在することが確認されている。
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[編集] 概要
前方後円墳の存在が明確でないのは、北から北海道、青森県、秋田県の3県と沖縄県にすぎない。時期や数が異なるが、他の43の都府県には、数百基から一~二基の存在が知られている。なお、離島の対馬、壱岐、隠岐などでは存在するが、淡路では知られていない。 各地域の最後の前方後円墳には、ほとんど時期差がないことが分かっている。しかし、徳島県のように5世紀代で終わっているところも稀にある。
最近では、韓国の学者らの研究で、朝鮮半島南部から南西部にかけて5~6世紀の「前方後円」墳の存在が明らかになってきた。
[編集] 出現期・発生期古墳の分布
西日本の出現期・発生期古墳の分布状況は、西は北部九州の玄界灘沿岸から瀬戸内海沿岸(山陽地方沿岸と四国の北部沿岸)を経て、近畿地方中央部(淀川沿岸や奈良盆地)地方へ拡がっている。
- 久里双水古墳、御道具山古墳、那珂八幡古墳、石塚山古墳、赤塚古墳
- 竹島古墳、妙見山古墳、石清尾山猫塚古墳、鶴尾神社4号墳、備前車塚古墳、浦間茶臼山古墳、吉島古墳、丁瓢塚
[編集] 畿内を中心に分布
近畿地方を中心として日本全国に広く分布し、大型の前方後円墳の周りには小型の前方後円墳、あるいは円墳・方墳がよりそうように存在し古墳群を成している箇所も多い。航空写真で見るとその様子は非常に目を引く。古墳時代に築かれた巨大な墳墓は、その多くがこの前方後円墳であり、大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)はその最大のものであるが、同時に世界最大の墳墓とする意見もある。墳丘の全長が486メートル、高さが36メートル、周りには、三重の周濠を巡らす。
古墳の大きさは、石室に葬られている人の力の強さを表わし、大きければ大きいほど力が強いとされる。
[編集] 前方後円墳の形状
前方後円墳とは、前が四角形(方形)、後ろが円形という表現である。この特異な形状は基本的に日本国内にしか見られないことから、大陸の影響を受けながらも国内で独自に発展してきたものと考えられている。古墳時代の初めから前方後円墳とともに、前方後方墳・円墳・方墳の四つの形の古墳が併存していた。 円墳と方墳はさらにその前の弥生時代から作られていたと思われていることから、前方後円墳はこれらが発達したものという考えもあるが、最近では、前方後円墳は円形の墳丘墓に通路状の突出部が付いたものから成立したと考えられている。
前方後円墳の形状は、古くはヒョウタン形などとも形容された。てるてる坊主や鍵穴(英語では、keyhole-shaped tomb 鍵穴形の墓)を想像すると、方部が「前」で円部が「後」というのは納得できないものがあるが、これは江戸時代の国学者 で寛政の三奇人とも言われた蒲生君平(がもうくんぺい)が定義したことに由来し、以降便宜的に使用されている。
この蒲生の説は、前方後円墳が宮車を模倣したものだという考えに基づく。しかし、古墳時代の初期には、車はなかったであろう。蒲生君平は、江戸時代に荒れ放題になっていた歴代の天皇陵を克明に調査して『山陵志(さんりょうし)』を書いた。どちらが前かという議論は長く行われているが、中には横から見た姿が正しいとする説を唱える学者もいる。これは平民の視点から、最大のサイズで見える方向ということである。
現在の研究では、円部が埋葬のための丘陵であり、前方部はもともと死者を祀る祭壇として発生・発達、次第に独特の形態を成したと考えられる。ただし時代が下ると前方部にも埋葬がなされるようになった。
[編集] 朝鮮半島南部の前方後円墳
1983年に韓国慶尚南道の松鶴洞一号墳が前方後円墳であるとして紹介されて以来、朝鮮半島南西部で前方後円墳の発見が相次いだ。その後の調査により、松鶴洞一号墳は築成時期の異なる3基の円墳が重なり合ったものであり、前方後円墳ではないことが明らかになったものの、現在までに全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている。朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したものであり、百済の国境沿いに近い伽耶の地のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている。そのことから、これらの前方後円墳は、当時南下せんとして盛んにこの地域に圧力をかけていた百済に対抗すべく、倭人の勢力と結託してその文化・風習を積極的に取り入れた伽耶の在地領主の墳墓ではないかという説が出されている。また、この地方の国守として倭より派遣されていたとされる穂積臣押山(ほづみのおみおしやま。『日本書紀』継体六(512)年条に記述がある)のような倭人領主の墳墓と見る説もあり、墳墓に眠る人物の身元はいまだに確定していない。
[編集] 時代による形状の変遷
前方後円墳はその築造された時期によって形状が異なることが知られている。最古の前方後円墳は箸墓古墳のように前方部が撥形になっており、前方部の幅より後円部の直径の方が大きく、高さも後円部の方が高くなっている。その後、時代が下るにつれて後円部の直径と前方部の幅がほぼ同じとなり(古墳時代中期)、更に時代が下ると前方部は巨大化の一途をたどり、前方部の幅が後円部の直径の1.5倍、中には2倍に達するものもあり、高さも前方部のほうが高いものが多い(古墳時代後期)。また、古墳時代後期の一部の前方後円墳には、「剣菱形」と呼ばれる、前方部の中央がへの字のようにやや角ばって外側に突き出すような形状をしているものがある。(なお剣菱形が確認されているのは今城塚古墳、河内大塚山古墳、見瀬丸山古墳、鳥屋ミサンザイ古墳、瓦塚古墳と極めて数が少ない)
[編集] ゴーランドの研究
古墳研究において業績を残した外国人に、イギリス人ウィリアム・ゴーランド(William Gowland)がいる。彼は、造幣局の鎔銅担当技師として招聘され、後に局長顧問を兼ねた。彼は、1872(明治5)年から1888(明治21)年の16年間の滞日中に、本務の余暇をみてはこつこつと古墳研究を進めていた。彼の古墳研究のことは当時、日本人の間ではほとんど知られていなかった。
彼が帰国してから『日本のドルメンと古墳』(The Dolmens and Burial Mounds in Japan,1897)と『日本のドルメンとその築造者』(The Dolmens of Japan and their Builders,1889)とを発表した。日本の古墳の中でも特に彼を引きつけたのは、巨石を使って構築された横穴式石室であった。彼が調査した横穴式石室は460で、そのうち実測図を作成してデータを計測したのは130である。調査地域は九州から関東の15府県に渡っている。
[編集] 大化の薄葬令
『日本書紀』孝徳天皇の大化二年(646)三月甲申(こうしん)の条に長文の詔がある。造墓の制限や禁止に関するもので、一般に「大化薄葬令」と呼ばれているものである。文献上の信憑性については、研究者の間で論議のあるところである。「大化薄葬令」が引用している『魏使』の武帝紀や文帝紀の薄葬主義は、墳丘の造営を一切否定するものである。「大化薄葬令」は、王以上、上臣、下臣だけが墳丘の造営が認められ、大仁(だいにん)、小仁(しょうにん)、大礼(だいらい)以下小智(しょうち)の墓は、小石室つくることは認められるものの、墳丘の造営は認められなかった。このことから徹底した薄葬ではなく、不完全な薄葬であった事が分かる。 前方後円墳がそうであったように、身分を現すものとしての考えが残っている。「大化薄葬令」には、庶民は「地に収め埋めよ」とある。木棺に遺骸を入れるか、直接土に埋めるかのどちらかで、土壙墓(どこうぼ)を指しているのであろう。