伊予鉄道城北線
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伊予鉄道城北線(いよてつどうじょうほくせん)は、愛媛県松山市の古町駅から平和通一丁目駅までを結ぶ伊予鉄道の鉄道路線。
前身は道後鉄道の路線で、松山市内線のほかの路線が軌道法による軌道となっている中で、唯一の鉄道事業法による鉄道となっている。
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[編集] 路線データ
[編集] 運行形態
- 1 環状線下り(松山市駅前→松山駅前→古町→木屋町→鉄砲町→上一万→大街道→松山市駅前)
- 2 環状線上り(松山市駅前→大街道→上一万→鉄砲町→木屋町→古町→松山駅前→松山市駅前)
- 上記の系統が城北線全区間を通る。昼間時間帯10分間隔で運転。
- 伊予鉄道では、環状線でも上り・下りで区別を行っている。
- 平日の朝に、古町8:01発(まれに7:51発の場合あり)のJR松山駅前行き臨時電車が運行される(古町→木屋町→鉄砲町→上一万→大街道→JR松山駅前)。全線5系統表示で運行。毎日運転の環状線下り車両は続行運転となる。
- 単線のため増発が難しく、大学入試センター試験などの時には2両続行(連結ではない)で運転されることがある。
平日、休日を問わず遅延が恒常化している。遅延時は古町のCTCセンターから無線で現在位置の問い合わせを行い、必要に応じて行き違い変更を行っているものの酷い遅延には効果がないのが現状である。
10分以上の遅延になると運行整理という作業が行われる。これは古町発車時刻を10分遅らせて遅延を解消しようというもの。しかし先行電車と最高で20分以上の間ができてしまうために苦情を言う乗客も多い。
さらに遅延回復のための回復運転が恒常化しており、2100形では最高60km/h運転を行う。踏切制御子配置が回復運転を想定したものではないため、遮断棒が降りるとすぐに車両が通過するという危険な状態の踏切が存在する。そのため運転士に注意を促すため「減速」と書かれた看板が設置された箇所がある。さらにATSなどの安全装置もないため、カーブ進入であきらかに速度超過している例も見られる(清水町駅~高砂町駅間など)。
[編集] 歴史
道後鉄道により1895年に開業した。軌間762mmの軽便鉄道で、当初は木屋町~道後間は現在の城北線とは異なり、現在の樋又通りを東進し、現在の愛媛大学(当時は城北練兵場があった)の北側を通るルートだった。伊予鉄道に合併後、電化・1067mm軌間への改軌が行われ、1927年に市街地に近い現在のルートに切り替えられた。木屋町~道後間の廃線跡は樋又通りとなっている。
なお、以前は木屋町方面から道後温泉方面へ直通する形になっていたが、1969年に城北線・城南線の環状運転を開始する際に新設の平和通一丁目駅から勝山町方面に向かう形に変更された。このとき、平和通一丁目~上一万間は新たに城南線として線路を敷設し、城北線の平和通一丁目~上一万間は廃止という手続きが取られた。
- 1895年8月22日 道後鉄道により古町~道後~松山(その後「一番町」と改称、現在の大街道)間が開業。※
- 1900年5月1日 道後鉄道が伊予鉄道に合併。道後線となる。
- 1911年8月8日 道後線全線の軌間を762mmから1067mmに改軌、電化。
- 1926年5月2日 道後線 道後~一番町間廃止。
- 1927年4月3日 城北線 木屋町~一万(現在の上一万)間が開業。道後線の古町~木屋町間を城北線に編入、木屋町~道後間は廃止。
- 1969年12月1日 上一万での城南線への合流を道後方面への合流から、警察署方面への合流に変更。これに伴い、城北線の平和通一丁目~上一万間は廃止され、城南線として新たに敷設される。
※開業区間を三津口~道後~松山間とする説がある。なお、高浜線の古町駅は道後鉄道開業前の1889年7月20日に三津口から古町に改称している。また、萱町六丁目駅は1911年に開業した当初、三津口を名乗っていた(1967年改称)。
[編集] 駅一覧
駅名 | 営業キロ | 接続路線 |
---|---|---|
古町駅 | 0.0 | 伊予鉄道:高浜線・大手町線 |
萱町六丁目駅 | 0.5 | |
本町六丁目駅 | 0.9 | 伊予鉄道:本町線 |
木屋町駅 | 1.1 | |
高砂町駅 | 1.4 | |
清水町駅 | 1.8 | |
鉄砲町駅 | 2.2 | |
赤十字病院前駅 | 2.5 | |
平和通一丁目駅 | 2.7 | 伊予鉄道:城南線 |