伏竜
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伏龍(ふくりゅう)
- 中国の『三国志演義』において、蜀漢の丞相諸葛亮(孔明)が青年時代に称されたとされる通称(ただし、正史である三国志の註にも同様の記事があるので『演義』の創作ではない)。
- 第二次世界大戦末期の日本軍による特攻兵器のひとつ。本項にて解説。
伏龍(ふくりゅう)は、第二次世界大戦末期の日本軍による特攻兵器のひとつ。
本土決戦の水際作戦における海軍の「切り札」とされた。 海中に潜水した兵士が米軍の上陸用舟艇に接近し、機雷を付けた竹棒を船底に突き上げて撃沈するものである。なお、機雷の爆撃波から兵士を避難させるコンクリート製防御坑の計画はあったものの、終戦までに防御坑が構築されることはなかった。
[編集] 兵器概要
伏龍は、本土決戦において徹底抗戦を遂行するため、上陸用舟艇や揚陸艇の撃沈を目的として、1944年に開発された特攻兵器である。 しかし、簡易硬式潜水具に五式撃雷(機雷缶に5mの竹竿を付けた物)を持った人間機雷という、簡素な作りが多い特攻兵器の中でもとりわけ安易なもので、「特攻隊」と称するにはあまりにも惨めなものであった。 (敗戦後、占領軍に伏龍に関しての尋問を受けた旧軍関係者は、「原爆まで持っているのに何故こんな兵器に関心を持つのか」と首を傾げたという)
利用された潜水具は、本土決戦に備え海軍工作学校で試作された物で、逼迫する資材と戦況に対応するため、出来うる限り既製の軍需品を用いて製作された。
人の排気から二酸化炭素を除去するための吸収缶には、潜水艦用の吸収缶がそのまま使用された。そのため、訓練中には死亡事故が絶えず発生していたという。 (吸収剤には苛性ソーダが用いられていたため、潜水時の圧力や外傷等によって缶が圧壊すると、苛性ソーダが海水との水和熱で沸騰して潜水兜内に噴出し、訓練生を死に至らしめる)
多くが十代後半の予科練出身者、神奈川県横須賀鎮守府の野比海岸、広島県呉鎮守府の情島、長崎県佐世保鎮守府の川棚で計3000人近い若者が潜水訓練を受けていた。米軍の本土上陸は9-10月との憶測で、本格的な訓練が始まったのは終戦間際。このため一度も実戦投入されることもなく終戦を迎え、廃棄された。
元俳優の安藤昇は、かつて伏龍訓練部隊の一員であった。
[編集] その後の伏龍
東京九段下の靖国神社に特別攻撃隊の顕彰碑があるほか、併設の歴史博物館「遊就館」には、伏竜に使われていた潜水具と機雷のモデルが展示されている。