儒礼尼師今
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儒礼尼師今 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 유례 이사금 |
漢字: | 儒禮尼師今 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
じゅれい・にしきん |
片仮名: (現地語読み仮名): |
ユリェ・イサグム |
ラテン文字転写: | Yurye Isageum |
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儒礼尼師今(じゅれい にしきん、生年不詳 - 298年)は、新羅の第14代の王(在位:284年 - 298年)であり、姓は昔氏。第11代の助賁尼師今の長男で、母は葛文王(朴)奈音[1]の娘であり、ある夜に星の光が口の中に入り身ごもったといい、誕生した日の夕方に芳香が立ち込めたという。『三国遺事』王暦では世理智王とも記される。
『三国史記』新羅本紀・儒礼尼師今紀では分注において、「古記によれば第3代の儒理尼師今と第14代の儒礼尼師今とが同じ諱であり、いずれが正しいのか判らない」としている。
[編集] 治世
286年1月に百済が講和を求めて使者を送ってきた。この後、295年春に倭への対抗の必要から百済と和することを群臣に諮ったが、舒弗邯(1等官の伊伐飡の別名)の弘権の反対を受けて、百済との和親を見送った。倭との交戦については、
- 287年4月、倭人が一礼部[2]に来たり、集落に放火して周り、1千人を捕虜にして立ち去った。
- 292年、倭兵が沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させた。
- 294年、倭兵が長峯城を攻めたが、勝てなかった。
などとあり、また、沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、倭に備えたという。
297年、伊西国(伊西古国とも。慶尚北道清道郡)に攻められ首都金城(慶州市)を包囲されるが、竹葉軍の助力を得てこれを退却させることに成功したという。
在位15年にして298年12月に死去した。埋葬地は伝わらない。
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980 ISBN 4-582-80372-5
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