元帝 (漢)
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元帝(げんてい 紀元前75年 - 紀元前33年 、在位紀元前49年 - 紀元前33年)は、前漢の第10代皇帝。諱は奭(せき)、字は不詳。廟号は高宗。正式な諡号は孝元皇帝。
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[編集] 略要・人物
[編集] 概要
武帝の玄孫に当たり、父は9代皇帝宣帝。生母は許皇后(平恩侯・許広漢の娘)。
[編集] 生涯
現実主義者だった父とは違い、儒教を重視した統治を行なった。父帝は、皇太子があまりにも亡き愛妾の司馬良娣を偲び、儒教に傾倒するのを見て「将来、太子は漢を乱すだろう」と心配し、真剣に廃嫡も考えていたという。しかし、生母の従弟である中常侍(当時は宦官の地位とは異なる)・許嘉(許延寿の子)と継母の王皇后の奔走によって、王皇后との間に儲けた子(後の成帝、宣帝の孫)の誕生のために思いとどまったと言われている。
紀元前49年即位した。元帝は、従曾祖父・昭帝と亡父・宣帝の政策に倣って、外征を控え、税を軽減し、厳しい刑法を改正するなどの施策を採った、また、人民の苦しみを和らげようとした。その他に、元帝は宴会を禁止し、狩猟用の別荘や御料地の経費を抑え、祖廟にかかる費用を大幅に切り詰めた。
しかし、こうした切り詰め策も焼け石に水でしかなかった。武帝の時代に肥大化した行政機構は、帝国に支えきれない重荷となってのしかかっていた。
また、儒教に傾倒するあまりに現実離れした理想論を繰り広げ、専売制を廃止して財政を悪化させるなど国政を混乱させた。こうして宣帝によって立て直された漢は再び衰え、元帝の皇后王氏一族から出た王莽に国を奪われる結果に繋がった。
果して、亡父・宣帝の懸念は、現実のものとなってしまったのである。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
[編集] 子女
- 成帝・劉驁
- 定陶恭王・劉康
- 信都悼王・劉輿
- 中山孝王・劉興
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- 陽阿長公主
- 平都公主
- 平陽公主
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