成帝 (漢)
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成帝(せいてい、紀元前52年 - 紀元前7年、在位紀元前33年 - 紀元前7年)は、前漢の第11代皇帝。姓は劉。諱は驁(ごう)。字は太孫。正式な諡号は孝成皇帝。
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[編集] 略要・人物
[編集] 概要
[編集] 生涯
元帝の死後即位し、祖父・宣帝以来中書を担当して、政治に多大な影響を及ぼしてきた宦官勢力の弱体化に成功するも、却って外戚勢力の政治への介入を招いた。殊に生母・孝元皇太后(王政君)の実家・王氏一族の政治関与は凄まじく、後の王莽の簒奪を招く一因となった。
成帝は、歴代の皇帝と違い、酒色を好む性格であり、お忍びで町を出歩くこともしばしばで、心ある人士の顰蹙を買っていたが、民衆からはそのことが歓迎されていたという。そのような行動の中で後宮に入内させたのが、趙飛燕、趙合徳姉妹で、後に姉は皇后に妹は昭儀(しょうぎ・後宮の女官の位)となり、成帝の寵愛を独占。寵愛が他に移らぬように、成帝が他の女性に産ませた皇子を殺害したという。しばらくして、超飛燕への成帝の寵愛は薄れたが、その分の寵愛は趙合徳へと向けられる。趙合徳は寵愛を失わぬよう夜な夜な過激な房中術を持って成帝に応え、そうこうしている内に紀元前7年成帝は急死する。
息子の急死に不審を抱いた孝元皇太后の詔によって調査が行われた結果、趙合徳が成帝に精力剤を飲ませ過ぎたことにより、成帝が急死したとされ、趙合徳は自殺に追い込まれた。自殺するに及んで趙合徳は、
- 「私の身体で天子を喜ばせ、身に余る寵愛を受けたのだから、思い残すことはないわ。」
と、言って毒を仰いだという。
なお、一部の研究者によれば、成帝の死は房事過多による、心筋梗塞か脳内出血、いわゆる腹上死であろうという。
[編集] 成帝落胤騒動事変
始建国(10年)に、新の立国将軍の孫建の馬車の前に当然姿を現した武仲という男が「俺は前漢の成帝の落胤の“劉子興”だ!」と法螺を吹いた。そのために武仲は、激怒した孫建に逮捕投獄されて、処刑されたという。
また、新末期頃に邯鄲で挙兵した易者の王朗も、成帝の落胤の劉子興と偽称したようである。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 許廃后(中常侍・許嘉の娘、姉に許謁・許媺がいる)
- 孝成皇后・趙飛燕(成陽侯・趙臨の娘)
- 昭儀・趙合徳(飛燕の妹)
[編集] 子
不詳
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