六氏先生
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六氏先生(ろくしせんせい)または六士先生は、日本統治時代の台湾に設立された学校「芝山巌学堂」で教師をしていた日本人6人のことである。
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[編集] 襲撃事件
1895年、台湾が日本の統治下にあった時、文部省の学務部長心得だった伊沢修二は、当時台湾総督であった樺山資紀に「教育を最優先すべき」と具申し、日本全国から集めた7人の優秀な人材を連れ台湾へ渡り台北北部の「芝山巌恵済宮」というお宮を借りて1895年7月12日に「芝山巌学堂」という学校を設立した。
最初は金を出して6人の生徒を集め、伊沢と7人の先生計8人で日本語を教えていた。
次第に周辺住人に受け入れられ、同年9月20日には生徒数が21人になった。
その頃、能久親王が出征中の台南で薨去され、それに伴い伊沢と1人の教師は親王の棺とともに日本本土に一時帰国した。
その伊沢の帰国中に事件は起きた。
1895年の暮れになるとふたたび台北の治安が悪化し、周辺住人は教師たちに避難を勧めたが彼らは「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を懸けていることを示して芝山巌を去ろうとはしなかった。
そして1896年1月1日、6人の教師と用務員1人が元旦の拝賀式へ出席するため芝山巌を下山しようとしたとき約100人の抗日ゲリラに遭遇した。
教師たちはゲリラたちに説諭したが聞き入れてもらえず6人の教師と用務員1人は惨殺されてしまった。
[編集] 六人の教師の名前
「六氏先生」と呼ばれる6人の教師を以下に記す。
- 山口県、楫取道明 (当時38歳)
- 愛知県、関口長太郎 (当時37歳)
- 群馬県、中島長吉 (当時25歳)
- 東京都、桂金太郎 (当時27歳)
- 山口県、井原順之助 (当時23歳)
- 熊本県、平井数馬 (当時17歳)
[編集] 事件のその後
彼らの台湾の教育に賭ける犠牲精神は多くの人々に感銘を与え、その精神は「芝山巌精神」と言われ人々の間で語り継がれるようになった。
この「芝山巌精神」 を教訓に政府は教育により一層力を入れ、統治直後、総人口の0.5~0.6%だった台湾の学齢児童の就学率は1943年頃には70%にもなった。また終戦時には識字率が92.5%に登った。
1930年には「芝山巌神社」が創建され六氏先生をはじめ、台湾教育に殉じた人々が、1933年までに330人祀られた。(そのうち台湾人教育者は24人)
境内には六氏先生を合葬する墓があり、また社殿の前には六氏先生を追悼して、伊藤博文揮毫による「学務官僚遭難之碑」が建っていた。
[編集] 戦後
終戦後、日本色を一掃する中国国民党により芝山巌神社は破壊され、本殿跡には国民党秘密テロ組織「藍衣社」のトップだった戴笠(たいりゅう)の顕彰碑が建てられた。
この時、神社の隣にあった恵済宮の住職は、六氏先生の墓跡から遺骨を密かに移し、小さな石塔を建てて守った。
台湾民主化の動きが進み芝山巌学堂が開かれて100年経った1995年に芝山巌学堂の後身である台北市立士林国民小学校の卒業生により「六氏先生の墓」が再建された。
さらに2000年には「学務官僚遭難之碑」も復元された。
しかし台北市の政権がふたたび国民党に移った今日、これらの建築物の撤去の動きもある。
[編集] 六氏先生の歌
- 六氏先生の精神に感銘受け作られた歌である。(作者不明)
- やよや子等 はげめよや
- 学べ子等 子供たちよ
- 慕へ慕へ 倒れてやみし先生を
- 歌へ子等 思へよや
- すすめ子等 国のため
- 思へ思へ 遭難六氏先生を