内藤信貞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
||||
時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 万治3年(1660年) | |||
死没 | 寛文13年3月4日(1673年4月20日) | |||
改名 | 藤太郎(幼名) | |||
氏族 | 内藤氏 | |||
父母 | 父:内藤信良 母:越前松平直基の養女 |
|||
兄弟 | 内藤信貞、内藤信輝 |
内藤 信貞(ないとう のぶさだ)は、陸奥棚倉藩の第2代藩主・内藤信良の長男。寛文6年(1666年)徳川家綱に披露されるが、同13年に早世した。享年14。当時信良には男児が無かったため、同年(延宝1年)10月、養子として内藤弌信が迎えられ、翌2年にその家督が継承された。
法名:法雲院恵林。葬地は小石川無量院(廃寺)と伝えられている。
[編集] 出典
- 『新訂寛政重修諸家譜』13巻 続群書類従完成会、1984年 同書201項