内藤信輝
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内藤 信輝(ないとう のぶてる)は、越後国村上藩の第2代藩主。初代藩主・内藤弌信の養子。
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 天和元年(1681年) | |||
死没 | 享保10年10月25日(1725年11月29日) | |||
別名 | 弥十郎、信季 | |||
戒名 | 威徳院心誉玉峰浄眼 | |||
官位 | 従五位下豊前守→伊予守→紀伊守 | |||
藩 | 越後村上藩 | |||
氏族 | 内藤氏 | |||
父母 | 父:内藤信良、母:不明 養父:内藤弌信 |
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妻 | 蜂須賀隆重の娘 | |||
子 | 信積、信興、 娘(加藤明経室→水野勝前室)ほか |
目次 |
[編集] 経歴
天和元年(1681年)内藤信良の三男として棚倉に生まれる。元禄7年(1694年)閏5月21日内藤弌信の養子となり、同28日、14才で徳川綱吉に披露される。翌8年12月18日に従五位下豊前守となり、宝永6年(1709年)9月7日、伊予守に改めた。
享保10年(1725年)2月18日襲封し、19日紀伊守となる。3月12日村上に入部したが、同年10月にこの地で卒去した。享年45。
葬地は新潟県村上市の光徳寺であったと伝えられる(以上「寛政譜」新訂13巻202)。現在の墓所も同じ。
[編集] 子女
「寛政譜」は次の二男五女を記す。「越後村上 内藤家譜」からの記述を付加し、また早世した男子2人を記す『村上郷土史』所載系図の記述をカッコ書きにした(79および80頁)。
- (男子:早世)
- 女子:早世。母は蜂須賀氏(ヒサ。元禄12年9月生まれ。同13年7月卒)
- 女子:早世。母は上に同じ(トミ。元禄14年11月生まれ。宝永6年1月卒)
- 弥十郎「信積」:母は上に同じ。
- 女子:早世。母は上に同じ(モト。正徳1年11月生まれ。同3年卒)
- (男子:正徳4年8月生まれ。同月早世。円覚院。母は蜂須賀氏)
- 養女:弌信の娘。のち相馬徳胤の室となる。母は某氏(ソヨ。寛永5年12月田中に生まれる。母は側室)
- 内藤信興:母は某氏(母は側室、武笠氏)
- 加藤伊勢守明経の室。離別し水野勝前に再嫁。母は某氏(母は側室)
[編集] 特記事項
- 生没年および享年は「寛政譜」および「藩翰譜続編」(『新編 藩翰譜』2巻104頁および128頁の系図が続編部分である)の記述に拠った。「藩翰譜続編」は享保10年の冬(また系図部分に忌日10月25日と記す)に45才で卒と記す。従って天和1年生まれとなる。「寛政譜」は生年、没年月日を明記している。
- 国立公文書館蔵「内藤家譜」は出生日を天和2壬戌年10月27日と記している。しかし同文書中には天和2年(1682年)を「辛酉年」とする記述もあり(「信良譜」)暦に関する混乱がみられる(辛酉は天和1・1681年)。『村上郷土史』102頁の記述もこれに同じ。
- 生母に関して『村上郷土史』79頁は「側室カツ、小早川氏」と記す。「寛政譜」は「某氏」、「内藤家譜」は「家女 号 栄寿院」としてその出自を明らかにしていない。
[編集] 出典
- 『新訂寛政重修諸家譜』13巻 続群書類従完成会、1984年
- 『新編 藩翰譜』2巻 新人物往来社、1977年
- 国立公文書館所蔵「内藤家譜」(請求番号:157-0205)
- 東京大学史料編纂所所蔵「越後村上 内藤家譜」(請求番号:4175-665)※東京大学史料編纂所データベースから検索・閲覧可能。
- 『村上郷土史』村上本町教育会、1931年
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