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ノート:冊封

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

過去ログ 2006年7月26日 (火) 20:45まで 『清史稿』「属国伝」に付いて・冊封は朝貢・正朔を義務化したか他

目次

[編集] 改稿実行

とりあえず改稿いたしました。推敲がかなり甘いと思いますので、何度か書き直しをすると思いますが。批判をどう書くかをこれからの話し合いの中で決めていきたいと思います。らりた 2006年7月22日 (土) 15:49 (UTC)

ご多忙の中、短期間にまとめられたこと、まずお礼申し上げます。あすプリントアウトしたものを読ませていただき、その夜か翌日に拙考を述べさせていただきます。西嶋説への批判については、単純に堀説、濱下説と並べて書く方がシンプルだと思います。堀氏と濱下氏の説の間にそう深い因縁があるわけではないことも理由の一つです。--獨頭 2006年7月22日 (土) 16:10 (UTC)
えーと、二つほど提案を。
まずこの「改稿実行」の節より前のものを全て過去ログ化しても良いでしょうか?かなり膨大な量となっていますので。
そしてもう一つ、この記事に載せる西嶋説に対する批判として、堀氏・旗田氏・藤間氏・濱下氏の四者で宜しいでしょうか。Lulusukeさんには悪いのですが、平勢氏の言説は既に除いています。現時点では西嶋説に対する主要な批判とは言いがたいと思います。また私としては前四者に加えて杉山氏のものも加えるべきという気がしますが、いかがでしょうか。らりた 2006年7月23日 (日) 11:38 (UTC)
おつかれさまです。西嶋説の説明としては要を押さえていて、なかなかいいと思います。江戸時代については「冊封体制」から離脱しているのかどうか、西嶋自身が「政治体制としては東アジアから離脱していた」と述べていますが、しかし文化的には価値体系としての「冊封体制の論理」の中にいたと述べています。私が政治構造としての「冊封体制」より文化構造としての「冊封体制」のほうがおそらく息が長いと見ているのはこのためです。なおヴェトナムが「帝」を称していたとしても、冊封体制から離脱していないと西嶋が見ていることも、この価値体系としての「冊封体制の論理」が「帝」という称号自体に現れていると見ているからでしょう。つまり西嶋の「冊封体制」は一面で中華帝国を中心とした画一的な政治構造であるのはもちろんですが、それ以外に周辺国家の「小中華主義」をも、それが「冊封体制の論理」を価値体系としている限り中国に求心的に作用していたと見ているようです。つまり東アジア世界はまず政治的に形成され、じょじょに文化的なそれになっていったと見ているようです。このことはなぜ宋元時代だけ冊封体制(すなわち東アジア世界)が崩壊していると西嶋が見ているかを理解するのに役立つでしょう。西嶋説に対して政治構造の変化のみや文化構造のあり方のみを問題にした反論が有効打にならずにきたというのはそのせいであると思われます。
さて、しかしここまで整えられてしまうと、やはり「冊封」の記事名のままであるのが問題に思われます。「冊封体制」に記事名を改めるか、新たに冊封体制論に的を絞った記事を作るべきではないでしょうか。なんだか旅行していた間に保護されてしまったようですが。--Kanbun 2006年7月25日 (火) 04:16 (UTC)

インデント戻します。以下私見を述べます。

  1. 全体の構成に関しては特に意見はなく、このままで良いかと思います。「批判」のところは、そのまま異説を並べていけばよいでしょう。異説の種類についてわたしは、日本人では堀氏と濱下氏のみを扱えばそれで十分かなと思っていますが、(旗田氏の説はそんなに今勢いがあるように思えないので、一文ほどふれるだけでいいかなと思っていました)、とはいえ触れること自体に反対ではありません。むしろわたしが希望したいのは、フェアバンクについて一文程度挿入していただきたいということです。(一節を割けるべきというわけではありません)、たとえば「アメリカのフェアバンクは、西嶋と同様栗原朋信の秦漢璽印研究を利用しながら、漢民族と内陸諸民族との関係を重視した中国的国際秩序を構想した」という感じです。
  2. 以下個別に触れます。「概要」冒頭の冊封の説明部分ですが、王朝内の冊封のあり方について触れていただければと思います。冊封とは本来王朝内の王族や諸侯を叙任する制度であったが、それを対外的に拡大したものである、とかです。漢のところ皇族を国に叙任することをすでに述べておられますが、清代では国に封ずるわけでは無くとも冊封というので、一般的なものとして追加していただければと思います。
  3. 「概要」部分の「蕃客」に加えて、「互市国」も加えていただければ。(濱下氏は通常こちらを使うので)
  4. 「冊封体制の全盛」部分の遣隋使あたりで(ここにこだわるわけではないのですが)、冊封国は皇帝を名乗れなかった点を挿入していただけないでしょうか。Kanbun氏が以前ベトナムが云々と言ってましたが、すでにわたしが述べた正朔についてと同様、少なくとも中国側に知られるかたちで名乗ることは無かったと思います。名乗ったとしたらそれは冊封体制を離脱したといっても良いのではないかと。これに触れていないと理念的に中国皇帝が同心円の頂点にたつ唯一的存在であることや、小野妹子の肝っ玉の太さが伝わらないような気がします。(無論天子や皇帝以外の呼称、たとえば可汗とかは認めていたことは知った上で述べています)
  5. 過去ログ化の件ですが、わたしもスクロールを面倒くさく感じていましたので賛成します。

以上、保護されてしまい、わたしに言われるまでもなくお気づきの点があっても修正できなかった部分もあるかと思いますが、ご検討していただければ幸いです。--獨頭 2006年7月23日 (日) 14:45 (UTC)

ヴェトナムについて。「少なくとも中国側に知られるかたちで名乗ることは無かったと思います。名乗ったとしたらそれは冊封体制を離脱したといっても良いのではないかと。」とありますが、「ヴェトナムと朝鮮とは、いずれも清王朝の冊封国であった。それゆえフランスの勢力がヴェトナムに入ると、清仏戦争がおこり、日本の勢力が朝鮮に入ると日清戦争がおこった。清仏戦争の結果、…(中略)…ヴェトナムに対する清王朝の冊封関係はなくなったのである」と述べていることからヴェトナムを朝鮮と同じく典型的な冊封国と見ており、その離脱はおそらく李朝後期、陳朝から(あるいはチュノムの成立を14世紀などと述べているから、かなり一時的に見ている可能性もあります)明に征服されるまでに限定していると思われます。国内的に帝と称していることは黎朝からの事実なので、明清時代に朝鮮とともに典型的な冊封関係にあったとすれば、「名乗ったとしたらそれは冊封体制を離脱したといっても良いのではないかと。」という表現は当たりません。また「少なくとも中国側に知られるかたちで名乗ることは無かったと思います」については検証されているのか疑問です。「アメリカのフェアバンクは、西嶋と同様栗原朋信の秦漢璽印研究を利用しながら、漢民族と内陸諸民族との関係を重視した中国的国際秩序を構想した」という部分はかなりまた逸脱するかと思われます。なぜならこれを入れてしまうと今まで冊封、朝貢だけの問題であったのが、広く周辺諸民族との関係性に無制限に広げることにもつながりかねず、本来的な冊封体制論があくまで隋唐世界帝国における東アジア世界形成に焦点を絞っているのに対して、別種の北アジア世界論などに対象を広げてしまい、混乱を助長するだけです。それこそ中国王朝を中心とした文化圏論としてどこかの記事で述べるべきで、ここで述べるのは適切ではないでしょう。少なくとも最低限東アジア世界の論に限定しないと、「冊封」からますます離れます。Dokutouさんも気づかれたようですが、冊封とは本来的には中国的な封建関係を形成することで、国家間の関係ではありません。よって正朔・朝貢が問題となるのはあくまで国家の君主同士で冊封関係が形成された場合(国内諸侯は当然正朔を奉じています)で、また朝貢自体は冊封関係を前提としていません(むしろ朝貢することが冊封される条件と見るべき。したがって本来的に義務化されていたと見るのは難しい、まただからこそ冊封という政治目的が果たされた後に高句麗などの朝貢関係が弛緩したのだと思われる、また果たしてそれが一般的な藩属国に対する認識なのか、冊封国にとくに認識されていることなのか不明である。隋唐は「冊封国」となったからには「藩属国」であると認識しているようである。つまり朝貢→冊封であって、冊封→朝貢ではないため、冊封関係が朝貢を義務としてしていたとなると、誤解を生みやすい。一方正朔については藩属国の礼節としては高次の冊封国のみに期待されていたと見ることも不可能ではない。ただし以上の意味で両者を並列的に義務化していたとするのは不適切)。よって「冊封」の中でとくに国家間の関係に限定的な意味にしぼって解説した上で、さらに東アジア世界論に拡大された「冊封体制論」を述べ、そのうえ朝貢や北アジア世界にまで拡大された「世界論」の記述をしてしまうことは、なんだか大きな誤解を生むような気がします。あくまでここは「冊封」が「封建関係」であることにまず焦点を絞った上で、西嶋説に補足的にふれるか、あるいは「冊封体制」なりの記事を新たに作って「世界論」に触れるようにするとか工夫が必要だと思われます。--Kanbun 2006年7月25日 (火) 04:16 (UTC)
また冊封関係が本来的に持っている「地政学的意味」があまり述べられていないのが気になります。冊封が封建関係であることから、それは一定の土地と結びついた支配概念を導出します。これはたとえば戦国期の大内義隆が太宰大弐の官職を求めた例と同様で、このことはとくに中国の南北朝時代における朝鮮三国と日本の冊封合戦では露骨に認められます。日本の知行とも西欧のレーエンとも同様のこのような封建概念一般が持っている支配概念にも具体的に触れるべきと思われます。「中国の権威を背景として周辺に対して有利な地位を築けること」ということにこれが含まれているとらりたさんは考えているのかもしれませんが、冊封が封建関係であるということはこのような明示的な内容を示さなければいけないと思われます。また「当時朝貢しない外国との貿易は原則認めなかった中国との貿易で莫大な利益を生むことが出来ること」についてはやはり朝貢と冊封を同一視することからあまり適切でないと思われます。あくまで冊封と朝貢はどちらが前提となっているかは朝貢が前提で冊封されるのであり、冊封国が朝貢するのは義務づけられているという見方は適切でない気がします。私自身もここは判断が難しいのですが、冊封されなければ朝貢できないというのではない(ただし明の場合は例外であるように思われる)以上、冊封の経済的事由として朝貢をあげるのは適切でなく、また冊封国が朝貢を行ったのはそもそも朝貢→冊封と段階を踏んでいることを考慮すべきでしょう。しかし中国の王朝が実質的影響力があった場合(つまり冊封体制が典型的に完成されていたとき、具体的には隋唐)、朝貢の違約によって礼節の不備を指摘することができ、結果征伐におよんだと見るべきでしょう。また朝貢と正朔では明らかに徹底の度合いも異なり、また外交儀礼として義務づけられていたのか、国内体制に影響を与えていたのかについて「正朔に関しては中国向けには遵守し、国内向けには独自の暦を使うと言った例も見られる。」とありますが、外交の場では正朔を遵守するのが一般的ですが、国内では独自の元号を制定しているのが一般的でありますし、むしろ元号・暦法まで厳密に国内体制に施行していたのは新羅以来の朝鮮に固有の関係であるように思われます。よって正朔・朝貢を義務化していたと記述するにしても、かなり限定的にすべきであり、さらにそれが本来的な冊封関係に含まれているものかどうかもはなはだ疑問です。--Kanbun 2006年7月25日 (火) 06:04 (UTC)
Kanbunさん、過去ログ化に付いてはご了承いただけるでしょうか?
朝貢・正朔の義務化に付いてですが、「義務」という言葉に語弊があるかもしれません。
私見では、当時の中国王朝からすれば義務といっても「名目さえ保たれていれば良い」、仮に冊封国が陰で逸脱していることを知っていても「そのようなことを自ら一々指摘することは大国の礼に合わない」と考えていたと思います。
帝号に関してもそうだったのではないでしょうか。しかしそれらの説明を「義務」の一言で済ませては確かに誤解を招くと思いますので、もう少し言い回しを工夫したい所です。
Dokutouさん、帝号については保留として、他の事は大体了解です。
ただ、「互市国」についてですが。互市と朝貢とは別物のはずですが、そういう用法があるのでしょうか?少々、疑問なのですが。
あと、もう一点。下でしつこい方がおられるので「冊封国≠属国」をこのノートでの合意事項としても構いませんでしょうか?らりた 2006年7月25日 (火) 12:35 (UTC)
私的に不満な所は、いきなり『「天下全てを領有する」と言う思想』と出てくるところです。どこかで天下思想の説明を挟めればいいのですが、どこに挟むかで迷っています。らりた 2006年7月25日 (火) 12:46 (UTC)
さて久しぶりにKanbunさんにコメントするのですが、残念ながら苦言からさきに申し上げねばなりません。以前他の方にも発言順を守るよう注意されていますが、何故ルールを守らず発言を割り込ませるのでしょうか。前回も言われたことに謝罪も並べ直しもされず無視しておられますが、今回のことと合わせて、自らに非がないとお考えなのでしょうか。こう何度もされると言外に非はないとお考えのように見受けます。また『清史稿』「属国伝」の箇所については段落ごとにそちらのコメントを挟むことを認めましたが、以前同様のことをされた箇所については、全く署名をコピーするといった修正がされていません。これは段落ごとに私に署名しろと言うことでしょうか。スルーせず、どういう意図で発言順を狂わせるのか回答願います。
ヴェトナムについて。どうも私のコメントをよく理解してないようですが、私はもしヴェトナムが皇帝たることを中国王朝に明言した上で冊封体制に留まっている例はないでしょう、と述べているのです。皇帝を名乗れないとはそういうことです。誰もヴェトナムが冊封体制からはずれているなどと言っているのではありません。むしろこのノートでらりたさんに訂正されているように、はじめヴェトナムが西嶋説からはずされているといっていたのはKanbunさんです。「少なくとも中国側に知られるかたちで名乗ることは無かった」という私の発言に対する「国内的に帝と称していることは黎朝からの事実」というKanbunさんのご意見は反論にすらなっていません。もう一度言いますが正朔や元号の使用、皇帝と名乗らないことは冊封国・朝貢国に課せられた義務です。しかし実際に確実に守られていたわけではない。確実に守ろうとしたのは朝鮮や琉球ぐらいでしょう。他の諸国は本国では守らず、使節及び彼らがもつ国書(表)の中でのみ厳守していたのです。ヴェトナムが国内向けに、あるいはカンボジアに対して皇帝を名乗ったことぐらいは、誰もが知っています。それを承知の上で言っているのです。だいたい中国皇帝が官爵をあたえることを「冊封」というのに、原理的に皇帝という呼び名を与えるわけないでしょう。「検証されているのか疑問です」というお言葉も勉強不足を露呈しています。Kanbunさんも読んだはずの原田環論文にも「越南の君主は、現実の冊封体制下の清の皇帝の前では「越南国王」であったが、越南国内では清の君主と同様の「皇帝」「天子」を称し、前述したように元号を用いた」と述べています。敵対関係にある時以外、ベトナムが皇帝たることを中国王朝に公然と名乗ることはありません。何故なら皇帝は理念的に世界に一人しか有ってはならないからです。冊封や元号の時もそうでしたが、もう少し冊封体制について再読されることを勧めます。でないと話題がループして進みません。
フェアバンクについて。フェアバンクの構想は、基本的に堀氏の論に内陸諸民族との関係を重視している点で類似しています。その意味で決して離れません。むしろ日本以外ではどうこの時期の国際秩序が理解されているのかを示す点で有益です。しかも一文入れる程度で、そんなに論が拡散するわけでもないでしょう。そもそもフェアバンクについて読まれたのですか。どう理解しているか説明お願いします。西嶋冊封体制説について解説している李成市氏もこのフェアバンクには触れています。
冊封関係について。「Dokutouさんも気づかれたようですが」と書かれていますが、これまで私が冊封関係についてどう誤解していたのか、該当部分を提示してください。ある人に百回読めといった手前、読み直しましたが冊封関係の理解についてわたしがおかしなことを言っている箇所は見あたりませんでした。なお以前の版が浜下説に基づき書いているといった箇所もありません。具体的に提示願います。
「つまり朝貢→冊封であって、冊封→朝貢ではないため、冊封関係が朝貢を義務としてしていたとなると、誤解を生みやすい」という文も事実誤認しています。冊封関係を結ばず、交易を行う例はいくつもありますが、冊封関係を結んでおきながら、中国側が朝貢を免除すると明言した例があるのですか。正朔にしても朝貢にしても、Kanbunさんの私見ではなく具体的な例を挙げてください。あるいは「必ずしも義務を課すものではなかった」とか書いている研究を挙げてください。らりたさんはしっかり西嶋論文に基づいています。また明清の会典を繙けば、「何年一貢」と国ごとに書いてあります。とにかくわれわれはここに研究者としているわけではないので、既存の研究に拠る必要があります。編集案はそれに基づく必要があります。どの研究のどの箇所によっているか、具体的な提示願います。--獨頭 2006年7月25日 (火) 12:40 (UTC)
らりたさん、「互市国」についての部分ですが、ことば足りませんでした。明清になると冊封とか朝貢とか関係なしに貿易だけやってしまう国を「互市国」というのですが、挙げている例が「蕃客」だけだと、冊封・朝貢のどちらもしないと国際関係ないのかなと読者に思われるかもしれないと思って、「蕃客」の後に追記していただけたらというつもりでした。誤解を招きすみません。それと「冊封国≠属国」をこのノートでの合意事項とする件もわたしは完全全く同意します。正直下の方のコメントも過去ログ化して欲しいです。無理かも知れないけれど。--獨頭 2006年7月25日 (火) 12:54 (UTC)

インデント戻します。

  1. 「さて久しぶりにKanbunさんにコメントするのですが、残念ながら苦言からさきに申し上げねばなりません。以前他の方にも発言順を守るよう注意されていますが、何故ルールを守らず発言を割り込ませるのでしょうか。前回も言われたことに謝罪も並べ直しもされず無視しておられますが、今回のことと合わせて、自らに非がないとお考えなのでしょうか。こう何度もされると言外に非はないとお考えのように見受けます。また『清史稿』「属国伝」の箇所については段落ごとにそちらのコメントを挟むことを認めましたが、以前同様のことをされた箇所については、全く署名をコピーするといった修正がされていません。これは段落ごとに私に署名しろと言うことでしょうか。スルーせず、どういう意図で発言順を狂わせるのか回答願います。」とありますが、私はらりたさんとDokutouさんに返事を出したので、それぞれの箇所につけたまでで、Dokutouさん自身の発言を分割したつもりはなかったのですが(いまもどこでDokutouさんの発言を分割してしまっていたか探している次第です)。誤解などあれば教えていただきたく思っています。7月11日のDokutouさんの発言以降守っていたつもりだったのですが。
  2. 「「つまり朝貢→冊封であって、冊封→朝貢ではないため、冊封関係が朝貢を義務としてしていたとなると、誤解を生みやすい」という文も事実誤認しています。冊封関係を結ばず、交易を行う例はいくつもありますが、冊封関係を結んでおきながら、中国側が朝貢を免除すると明言した例があるのですか。」という部分ですが、何が事実誤認なのか理解に苦しみます。一般に朝貢をしていた国が冊封されるのであって、冊封されてから朝貢する形にはなっていないことご了承されているはずです。冊封関係を結んでおきながら、朝貢を免除する例が義務化を否定するのに必要とされるのは、あくまで「冊封→朝貢」である場合であって、「朝貢→冊封」であるならば、朝貢していたから冊封されるのだからこれは逆です。また義務化されていなかったという研究をあげろと言いますが、私自身はむしろ冊封関係によって正朔・朝貢が義務化されていたという研究を見いだせなくて困っている次第です。朝鮮の場合には複雑な冊封儀礼を遵守している例があるのですが、ほかの国については義務化され守っていたとするような研究が見いだせません(もちろん時代を隋唐に限ったり、相手国を朝鮮に絞ったりすれば国内体制についても可能です)。外交儀礼としてならいくらでも例がありますが。また冊封国と朝貢国が異なる段階にあることもご了承していただけているものと考えていますが、違ったのでしょうか?
  3. 冊封関係について。「「Dokutouさんも気づかれたようですが」と書かれていますが、これまで私が冊封関係についてどう誤解していたのか、該当部分を提示してください。」とのことですが、私はDokutouさんが「冊封関係」と「冊封体制」を同一に見ていると考えていたので、そうでないのならかまいません。また私自身は冊封関係が本来的には個人間の封建関係であるということは繰り返し述べてきたつもりですし、冊封自体が国家間の宗属関係を直接導くのではないということを述べてきました。Dokutouさんはそう見てないように思われたので、改めて気づかれたのかと思った次第です。しかしそうすると「「冊封関係」と「冊封体制」が異なることについて。どうもお一人でヒートアップして過敏に反応しているのではありませんか。その点心配しています。わたしはKanbunさんは西嶋氏の名前を連呼する割に、他の説も併せて言われるのかなと思い、その書名や論文名を訊いているだけですがね。「西嶋の視点である旨述べています」といわれても、下にあるように正朔や朝貢に関しての意見を聞くかぎりどうも西嶋説だけに拠っているだけとも思えない。それで一度きっちり伺おうと思うのはそんなに変ですか。また他の説もあわせて言われているのならそのブレンド具合を知りたいだけですよ。西嶋氏の著作は『古代東アジア世界と日本』だけなのですか。西嶋氏の著作も批判を吸収して時期によって異なるでしょうから、他に有れば教えて欲しいですね。」というのが「冊封体制」と「冊封関係」が異なることについて私が述べている箇所への反論だとすれば、なんとなく意味がつかめません。また西嶋説を中心に記述して良いとDokutouさんが考えているのかどうかもいまだに判然としません。このころのDokutouさんは西嶋説が冊封体制論ではすでに古いものであるというような認識を持っていたように思われます。なおヴェトナムが西嶋説の冊封体制から外れていると考えた誤りについては丁寧に謝したつもりですが、確認してもらえなかったようです。改めてここで誤解を招いたことを陳謝する次第です。
  4. フェアバンクについて。フェアバンクの説は「東アジア世界論」ではありません。堀の説も浜下の説も旗田の説も東アジア世界を見ている点では西嶋と同様です。内陸諸民族との関係は「羈縻政策」を中心に論じられる向きがあることはご存じのはずです。「国際秩序論」として言及したいのなら「冊封」はあくまで東アジア世界論としての冊封体制論に直結しているため、北アジアなどを含めた視点を組み入れるとさまざまな諸学説に触れることになり面倒になる上に焦点が合わなくなるでしょう。せめて東アジア論に限定すべきです。もしフェアバンクの説が東アジア世界論であるというのなら、そのむね指摘してくださればこちらはとくに異存はありません。Dokutouさんが現状述べている限りであれば、フェアバンクの説は北アジア世界論であるように思われます。
  5. 「ヴェトナムについて。どうも私のコメントをよく理解してないようですが、私はもしヴェトナムが皇帝たることを中国王朝に明言した上で冊封体制に留まっている例はないでしょう、と述べているのです。」とありますが、外交儀礼として帝を称さなかったというならよろしいですが、Dokutouさん自身は国内体制も規制したと見ていたように思われたのですが、違ったのですか?違ったのなら別にかまいませんが、冊封された国の国内でも原則守られたと言っているならば、そのような研究はないように思われますが、あるのでしょうか?明示してくだされば特に問題としません。外交儀礼として義務化されていたと言うだけなら、私の従来の言い分と全くかわらないので問題ありません。私はあくまで国内体制にまで規制されている例(朝鮮)があるため、それらを区別する必要があると述べているまでです。外交の次元で義務化されていたのか国内でも義務化されていたのかは明確にすべきです。Dokutouさんの見解はこの点どちらに足をおいているのか判然としがたいので、どうかそこのところを明示していただけると幸いです。また「名乗ったとしたらそれは冊封体制を離脱したといっても良いのではないかと。」とあるのが、Dokutouさん自身がヴェトナムが帝号を称した時期が冊封体制を離脱していたと見ているように捉えられたのですが、そう思っているとすれば、具体的にいつですか?Dokutouさんの主張が「冊封国は皇帝を名乗れなかった」ことを記述するということであれば、国内的に名乗っている例があるのですから適切ではありません。対中国外交の場に限ってというなら別だというのは何度も述べています。また「可汗」号に触れておられますが、これは一般に冊封体制外の事例として語られるのが常ですから、全く問題ないように思われます。西嶋自身も冊封関係とは異なる関係であると述べているのは周知のことだと思っていたのですが。

以上。--Kanbun 2006年7月25日 (火) 14:21 (UTC)

  1. きちんとらりたさんや私のコメント読まれていますか。まずらりたさんは2006年7月12日 (水) 13:30 (UTC)の時に「見を付け加える場合はその節の最後に付け加えるようにお願いします。そうでないと発言のどちらが先でどちらが後かが解りにくくなります」と述べておられますよね。なのに前回わたしの2006年7月23日 (日) 14:45 (UTC)の投稿の前にご自身のコメントを挟んでいます。この真意を伺っているのです。
  2. 「冊封関係によって正朔・朝貢が義務化されていたという研究」についても、以前らりたさんが明確に西嶋氏が書いていると言っていますよね。西嶋氏の「東アジア世界の形成と展開」に次のような一節があります。「冊封された君長の中国王朝の皇帝に対する義務は何かということである。これは一般的にいえば、前項の君臣関係に包摂されているものともいえるが、外藩国の君長として負担すべき特別なものがある。その一は歳貢の義務で、原則として毎年中国皇帝に遣使奉献すること」と述べています。また坂野正高氏は「次のような共通の要素を抽出することができる。・・・第二に朝貢国に中国の暦を使わせる。すなわち朝貢国をしていわゆる「正朔を奉ぜしめる」のである。第三に朝貢国に定期的に中国へ朝貢させる」(『近代中国政治外交史』)と述べています。こちらは根拠を挙げましたので「義務化されていなかったという研究」の提示お願いします。
  3. 冊封関係について。引用された箇所についてですが、わたしがKanbunさんの「冊封関係」と「冊封体制」について具体的にここが違うとか指摘したわけではなく、どのレヴェルでいっているか確認しようとしている段階であることはうかがえませんか。「書名や論文名を訊いているだけ」と明言しているのですが。わたしが慎重にきいたのは、繰り返しますが正朔や朝貢の理解についてどうもKanbunさんのご意見は西嶋説と全く異なることに気付いたからです。そうでしょう、上に引用したように西嶋氏は明確に義務と言うことばを使っているのだから。らりたさんもわたしも始めから正朔とかの扱いについて理念と実態が違うことを踏まえて発言しているのです。それをどうも双方を混同して無かったといわれるから、希少な意見と述べたのです。それと現在の学説の主流は何かということと、ここでの説明編集方針についてもごっちゃにしてはいけません。西嶋説が明清以降を十分説明できないことはすでに学会で常識化しています。だからといってここで西嶋説に触れないで説明しろとかそんな無理無体なことを言っているのではありません。どういうところが不備で、それを後発の研究がどう乗り越えてきたかについて触れるべきだと言っているのです。堀説や浜下説をあげたのもそういう意図からです。
  4. フェアバンクについて。「フェアバンクの説は「東アジア世界論」ではありません」、仰るとおりです。しかし堀説や浜下説は単純な「東アジア世界論」なのですか。誰が言っているのか具体的な提示願います。たとえば『中国歴史研究入門』107頁には「(西嶋説は)主として唐・朝鮮半島・勃海・日本によって形成される「東アジア世界」を想定して立てられた理論であり、日本史側からの研究ではこの枠組みを想定することが多いが、中国から見れば国際関係は当方に限定されるわけではない。むしろ北方や西方がより重要である。・・・中略・・・その代表的な一人である堀敏一は・・・」と述べているように北アジアや西アジアとの関係をも考慮に入れていると見られていますし、浜下説とて単に東アジアだけを対象にしているわけではありません。浜下氏はそれまでの冊封体制説を批判的に継承する一方で、「世界システム論」からも示唆を受け、世界システム論の中の東アジアを論じています。たとえば以前紹介した川勝氏の著書では「浜下氏は宗主権・主権・非組織ネットワークという三つの統治モデルが東アジアから東南アジアにかけて作用し、それが北のアジアと南のアジアを区別させ、また相互につなぎ合い、西アジアからヨーロッパへと結ぶ19世紀近代の世界システム論を提示した」と述べています。ですので元々西嶋説への批判は地理的に拡大して論じられているのです。つまり東アジアだけの閉じた空間だけで論じていても駄目ですよ、と後続の研究者達は述べているのです。ところで浜下説についてはどの本を読まれた上でコメントしているのですか。どうもどの程度理解されているのか不安です。依拠する書名挙げてください。
  5. ヴェトナムについて。何度言ってもご理解願えないようですが、「外交の次元で義務化されていたのか国内でも義務化されていたのかは明確にすべきです」といわれていますが、中国側の意識としては冊封国の国内も守らせるべきと考えているのです。当然。だけど実際に本国で守っているかどうかは別なのです。繰り返しますが理念と実際は異なっているのです。朝鮮や琉球のように中国側の使節がよく訪れる箇所は、中国側も守らせようとしたのです。それと「Dokutouさん自身がヴェトナムが帝号を称した時期が冊封体制を離脱していたと見ているように捉えられた」についても何度も言いますが、皇帝と中国に対し名乗ったらという条件節の後に、冊封体制を離脱していたと見るべきと述べているのです。実際に離脱していたとか、そんなことは一言も述べていないでしょう。しっかり当方のコメントを読んでください。もともとはわたしが「そもそも国家間の不平等性は、細かな性格はともかく大まかな点では、冊封体制の特徴でもあるのではないのですか。それ故に冊封された国は皇帝を名乗れないのでしょう」と述べたことへのKanbunさんのご反論でしたよね。つまり私は中国と他国との不平等性についての一例として出しています。当然皇帝と名乗るのは中国に向けてであることが前提です。こんなことはすぐ読みとれますよね。なのにどうして「国内的に名乗っている例があるのですから適切ではありません」というコメントがでるのでしょう。私の例は国内向けに皇帝と名乗ることを指していないことは明確です。ここでもそうですが、Kanbunさんは理念と実際を一緒にしています。理念と実際が相違するとあらかじめ述べているにもかかわらず、理念のはなしをしているのに、実際には違うから理念も違うというのは論理として矛盾この上ないでしょう。発言訂正求めます。ちなみにKanbunさんが良く引く糟屋氏は李氏朝鮮が下関条約後皇帝号を名乗るときのことについて「君主の地位を清の皇帝と同格にすると言う形式によって実施されたのである。この延長上に、高宗の君主権強化政策と結びついて行われたのが、高宗の皇帝への即位であった」(『朝鮮の近代』)と述べています。つまり皇帝であることを冊封体制下で公式に名乗ることははばかられる状態だったのです。ベトナムとてそうです。--獨頭 2006年7月25日 (火) 16:16 (UTC)
らりたさん、追加で質問なのですが、終焉のところで「それまで対等の外交と言うものを認めなかった清朝廷がアヘン戦争の敗北により、これを認めざるを得なくなり」と述べられていますが、西嶋氏が明確にアヘン戦争以降、対等外交になったと書いてありましたでしょうか。もし『西嶋定生東アジア史論集』第三巻、94頁に基づいておられるのでした、少しぼかして書いたほうがよいかもしれません。別箇所で書いてあれば異議ありません。念のため私の認識を示すと「ただ清は中華思想的観点から不平等条約を西欧諸国に与える恩恵的特権と認識する姿勢をなかなか改めなかった。この点ではオスマントルコのカピチュレーションと考え方は類似している。つまり西欧側の砲艦外交によって、清朝の姿勢がすぐさま条約締結を基礎とする国際秩序にスイッチしたのではない。清末の国際関係は、中国伝統の朝貢-冊封体制と西欧起源の条約体制とが併存し、相互が駆け引きを演じながら展開していった」というものです。この「」内は8月にわたしが投稿する予定の新記事のもの(ここに載せる予定の浜下説ではないので恐縮です)です。至らない点があればご指摘ください。また上のコメントで何度もお名前出してすみません。--獨頭 2006年7月25日 (火) 17:53 (UTC)

インデント戻します。

  1. フェアバンクについて。東アジア世界論でないならば、触れる必要を感じません。浜下の説も堀の説も東アジア世界論でありますし、冊封体制論も東アジア世界論です。閉じているか閉じていないか、また東アジアとはどこかは関係ありません。フェアバンクの説が西嶋を批判した東アジア世界論である、あるいは冊封体制論である、あるいは東アジア世界そのものを否定するものである、のいずれかであれば記載してもかまわないのでしょうが、Dokutouさんのおっしゃる内容からはそのいずれも見いだせません。「しかし堀説や浜下説は単純な「東アジア世界論」なのですか。誰が言っているのか具体的な提示願います。」とあり、私には単純な東アジア世界論あるいは閉じた東アジア世界論なるものがどのようなものか判然としがたいのですが、ともかく堀の著作が『中国と古代東アジア世界』で、浜下の著作も、「東アジアのなかの日清戦争」であったり、題名になくとも東アジアを射程に捉えて論じられていると思われるのに、それが「東アジア世界論ではない」などと論じている方がいらっしゃるのか疑問です。あるいは西嶋の説を誰かが「単純な」あるいは「閉じた」東アジア世界論であると論じているというのですか。あくまで中国の側から見た国際関係としては北アジア・内陸アジア・東南アジアが射程にはいると言っているまでのように思われるのですが。別に最近の研究でもはや東アジアという地理歴史概念が古くなったなどと論じられているわけではないので、冊封体制論が東アジア世界論であるということを忘却してはいけないでしょう。
  2. 「ここでもそうですが、Kanbunさんは理念と実際を一緒にしています。」について。Dokutouさん自身のことを言ってるようにしか思えません。肝腎の冊封についてですが、理念と実際とおっしゃるDokutouさんには以下の言葉を聞けばなんとなく思うところが出てくるでしょう。「その後あらためて調べ直してみると、「冊封」という言葉は唐代までの正史では『新唐書』外国伝に二例あるのみで、それも「冊して……に封ずる」という読み方の可能な、確定した熟語とは言い難いものであった。そこで吉開将人氏にお願いして唐以後の正史について検索してもらったところ、五代に数例見られ、中には明瞭に熟語と認められるものもあるが、宋代には無に等しく、遼金にもほとんど見られないことが判った。元代にも冊封の用例は僅少で、明代になると劇的に増加する。…(中略)…冊封や冊封体制が史料から用法を帰納することのできない用語であることは、充分に注意されなければならない。」(金子修一『隋唐の国際秩序と東アジア』)さて、朝貢と冊封の概念が異なる上、明確な史料上の線引きもできないのに、冊封の理念なるものを論じていらっしゃるようですが、では実際面から考察する以外にどうして冊封体制の実態が明らかにできるのか。全く私には疑問です。また朝貢国と冊封国を混同しておられるようです(両者は明代にはほぼ同義のようですから、無理もないと思いますが、西嶋自身は朝貢関係と冊封関係を明確に区別しています、金子、堀らも同様のようです、ただしその差異の認識には差があるようです。明代でなぜ両者が同義になるかについては海禁政策に関連していると見られていることはすでに述べました)。
  3. 浜下説について。私の今までに参照した著作を列挙します。「地政論-統治史からみた地域と海域」『支配の地域史』山川、「東アジアのなかの日清戦争」『日清戦争と東アジア世界の変容』ゆまに書房、「銀の流通から見た世界経済のネットワーク-16-19世紀-」『世界の構造化』岩波、『朝貢システムと近代アジア』岩波。以上の著作ではあくまで浜下の視点は東アジアにあります(もちろん東アジアだけにあるというのではありません)。また条約体制前後の朝鮮について「これらの論点は、同時代人の評価によれば、朝鮮は中国の属国であると認定していたようである」と論じています。条約体制においてまず朝鮮が清の属国として認識されたという私の視点は浜下と変わるものではないと認識しています。
  4. 皇帝理念と冊封体制をごっちゃにされていることについて。皇帝理念と冊封体制は密接な関係にあるのはもちろんですが、皇帝理念の性格に引っ張られて、実際の冊封体制下の諸国家の動態を見失ってはいけません。個々の事例についてはあくまで冊封体制自体の在り方から検証されるべきで、皇帝理念との整合性が問われるのはやはり二次的な問題となるでしょう。思想的背景と実際の有り様は概して異なるものです。またフェアバンクに触れられておられることからご存じでしょうが、冊封体制において正朔の義務づけについて論じる余地があるとすれば、栗原朋信の外臣論に関連していると思われますが、どうやら金子によると、外臣論は見直しが必要なようです。西嶋自身の著作で直接的に正朔が国内的に義務づけられていたという記述はないように思われるんですが、どうですかね?朝貢については朝貢国より冊封国が上位であるということが記述されれば、義務化していたと記述して良いと思われます。西嶋自身の裏付けも取れたことですし、実際高句麗はこの違約を咎められて征伐されているわけですから。

以上。--Kanbun 2006年7月26日 (水) 09:59 (UTC)

過去ログ化を行いました。らりた 2006年7月26日 (水) 12:10 (UTC)

しかし過去ログ化してもまだページサイズ警告が出るようでして(苦笑)
Dokutouさん、互市国については了解いたしました。それと「冊封体制の終焉」についてですが、その辺の事情は一応知識として持っていたのですが、その部分を書いていたときはかなり眠くて自分で言うのもなんですがやっつけ仕事になっていました。後で修正します。らりた 2006年7月26日 (水) 12:19 (UTC)

らりたさんへ。過去ログかご苦労様でした。どうやるのか調べていてまごまごしてしまい、作業を押しつけるようなかたちになり済みません。ページサイズ警告の件も恐縮です。論点自体は中国学の常識的な事柄ばかりですので、一項目ずつ多数決取った方が早いかも知れません。保護解除も視野に入れないといけませんしね。--獨頭 2006年7月26日 (水) 17:07 (UTC)
  1. 以下Kanbunさんへ。発言順を無視した投稿について。なんらコメントもなく、修正もされないのはどういうわけなのでしょう。正直申し上げて、はじめらりたさんがご指摘した段階では、別に黙って直してくれればそれでよいというスタンスだったのですが、何度指摘しても修正しない、正面からのコメントもないでは、厳しく言わざるを得ません。明確に発言順への修正求めます。
  2. フェアバンクについて。フェアバンクの‘chinese world order’は無論、朝鮮や日本についても触れてます。東アジアを射程に捉えてないはずないでしょう。その上で内陸諸民族との関係を重視した論を述べているのです。わたしが東アジア論ではない、と述べたのは西嶋的な冊封という政治構造を媒介に成立したとする東アジア論ではない、という意味で述べているのです。ご存じないようですが、この学説はその後マーク・マンコールに受け継がれてアジア国際秩序を理解する重要な(アメリカにおける)学説となっていきます。よく論文にも引用されます。冊封体制論と対峙する異説として十分資格があるといえるでしょう。また堀説や浜下説について「「東アジア世界論ではない」などと論じている方がいらっしゃる」などと、どういう風に読めば理解できるか非常に苦しみます。ご自分でもわたしのコメント「単純な「東アジア世界論」なのですか」と引いているではありませんか。「単純な」と付けている以上「東アジア世界論ではない」という理解は到底不可能です。また堀説や浜下説と比べて西嶋説を単純とのべているのであって、これは相対的なものです。敢えて曲解した批判はご遠慮願います。フェアバンクの‘chinese world order’と堀説が内陸諸民族を重視する点で同様の傾向がある、という非常に大まかな意見にさえ、批判があるのでしたら、具体的にどう違うのか比較を示した上で意見を述べてください。なお冊封体制など中国を中心とした国際秩序についての研究(以前挙げた李成市、坂野正高、浜下武志、佐々木揚など)いくつも触れています。それに関連し再度もうしますが、フェアバンクの説を引用してはいけないなどと述べている研究を挙げてください。
  3. 理念と実際について。金子氏のこの批判は有名で無論知っています。それを踏まえてこれまでコメントしています。朝貢と冊封の概念が異なることも承知しています。正直申し上げて何ら反論となっていません。よく読み直されることをお勧めします。冊封国に対し課された正朔を奉ずることや朝貢、皇帝号の禁止の話に対し述べているのに、論点がずれています。中国側の意識と冊封国の意識・本国での実際が違うと述べているのに、どうして「実際面から考察する以外にどうして冊封体制の実態が明らかにできるのか」という風に解するのですか。ちなみに伺いますが、どう「考察」するのですか。具体的に願います。またどういう解答を期待されているのですか。正朔を奉ずることや皇帝号の禁止は無かったという解答を期待されているのなら、そう述べている研究を挙げれば良いだけですよ。やる気が有るのでしたら会典をはじめとする関連全史料を精査してここで提示するという方法も、独自の研究にあたりますが、今回に限りその苦労を考慮し目をつむっても良いです。またわたしのコメントのどこで「朝貢国と冊封国を混同して」いるのか、明示してください。わたしとらりたさんとの会話で「蕃客」と「互市国」についてのものがあり、このことから国際秩序に様々なランクがあることを承知していることが判るでしょうし、またKanbunさんとのものでも「冊封関係を結ばず、交易を行う例はいくつもありますが」と述べていますので、その点から考えても混同しているようには見えないと思いますが。そして仮に私が「朝貢国と冊封国を混同して」いるとして、それが私の主張にどのように影響するのですか。具体的に願います。後、「朝貢と冊封の概念が異なる上、明確な史料上の線引きもできない」について、誰がどこで言っているのか具体的に提示願います。
  4. 浜下説について。「以上の著作ではあくまで浜下の視点は東アジアにあります(もちろん東アジアだけにあるというのではありません)」と述べていますが、これもフェアバンク説を載せない理由にはならないことは上で述べました。しかしはじめはこの記事に浜下説を載せることに反対しておられたのをようやく認められてきたようですが、下の朝貢の義務と併せて、正直言わせていただくとすんなりはじめからOKして欲しかったですね。
  5. 皇帝理念と冊封体制について。この点はわたしの皇帝号の呼称についてでしょうが、わたしがどういう風に「皇帝理念の性格に引っ張られて、実際の冊封体制下の諸国家の動態を見失って」いるのか、解説お願いします。また「個々の事例についてはあくまで冊封体制自体の在り方から検証されるべき」と言われますが、そもそもはKanbunさんがベトナムの例を出したのですよ。お忘れですか。それに私がベトナムの事例について反論したのです。少なくともベトナムに関しては明確に反証を提出しました。今更個別の事例云々と言われも、皇帝号禁止について反論をなんらしていることにはなりません。基づく研究の具体的な記述を引用してください。もしくはご意見を撤回して下さい。ちなみに西嶋は卑弥呼に触れたくだりで「倭王とは独立国である倭の君主という意味ではなくて、魏の皇帝に臣属する倭王という意味である。紀元二二一年に天下を統一した秦が、はじめて皇帝という称号を採用してからのちは、王と言えばかならず皇帝に臣属する最高の爵位であり、皇帝と対等な王という君主称号は存在しない」(『東アジア史と日本史』)と述べています。追加して言えば西嶋氏は「たとえ中国が分裂していた時代でさえも、それぞれの王朝の「皇帝」は、対立する王朝の「皇帝」を否定することによって、中国における唯一無二の君主としての性格を保持したのであった」(「皇帝支配の成立」)と述べ、皇帝の唯一性を強調しています。中国が冊封国に与える印璽に「皇帝」などという文字が入っているものなど無い以上、冊封国が明示的に皇帝を名乗ることなどあり得ません。仮に名乗ったとすれば、それは中国の下につかないという意思表示に他ならず、それは冊封体制からの離脱を意味するからです。どう「実際面から考察する」のか、皆目見当つかないので、史料名を挙げながら具体的にご教授ください。
  6. 正朔について。これも冊封体制における朝貢や皇帝号禁止と同様、中国学の基本事項ですが、中国皇帝は理念的に単に空間を支配するだけではなく、暦を通じて時間をも支配するものとされます。ですので反乱の際には、現王朝への叛意を明確にするために元号を独自に定めたりします。以前わたしの書いた孔子紀年にも若干その点に触れているので参考にしてください。つまり冊封体制に入り、中国皇帝から官爵をもらい臣従することになったら、いくら交易のための便宜上の措置であろうと、皇帝に提出する国書には中国の正朔を奉じます。でなければ異志ありと見なされるからです。こんなことはごく当たり前の事柄で、義務云々以前ですから、冊封国が国書提出にあたって中国元号を使用しないでよかったなどという見解は皆無でしょう。栗原朋信氏の外臣論にいくら変更が加えられようが、この点について変更されるはずがありません。あるのでしたら具体的な研究、記述を教えてください。先日坂野正高氏の意見を引きましたが、その他にも原田氏は「冊封体制(朝貢関係)の骨格をなすものは、a)冊封b)頒暦c)朝貢d)華夷思想」と述べ、「頒暦とは宗主国が朝貢国に暦を与え使用させることで、いわゆる朝貢国に「正朔を奉ぜしめる」ことであった」と明言しています。また茂木氏は「朝貢-冊封の関係を構築した場合、皇帝から与えられた暦(正朔)を用いるなど、両者の関係を律する煩瑣な儀礼を履行しさえすれば、周辺の側では自主が保障され、内政・外交への干渉は行われないのが原則だった」(「中華帝国の解体と近代的再編成への道」)と述べています。これ以上、正朔が義務でなかったと言われるので有れば、明確な根拠を提示してください。「外臣論は見直しが必要」だからといった、具体的でないものは根拠として認められません。--獨頭 2006年7月26日 (水) 17:07 (UTC)

インデント戻します。

  1. 「少なくともベトナムに関しては明確に反証を提出しました。」について。なるほど、それは気づきませんでした。それでどこにベトナムが国内的に帝を称していない証明がされたのですか。外交上のことを反証だと言ってるのでしたら、それは反証にはなっていません。明が安南を征伐したときに「帝を称したこと」を非難する事例は確認できましたが、一般的な事例とは言い難いです(永楽帝の積極策に根拠を求めるものが多い。明が安南にたいして違約と掲げるもののほとんどは、同時期の朝鮮にも共通して指摘できるという。あくまで一般的に義務として守らせていたと言うよりは、攻める口実に使ったと見るべき。これは隋の高句麗討伐も同様に見ることが可能なことは後を参照)。『岩波講座東南アジア』などによると、一般にヴェトナムは「大越=安南」国家として把握され、うちには明確な帝国意識を持っていたとみるのが一般的なようです。小野妹子の肝っ玉についてはなんともいえませんが(日本史家の所論も参照していますが、あまり小野妹子の肝っ玉を強調したり賛美したりするものはないようです。無礼な国書というわりに隋は鄭重に日本に接していますが、これは対高句麗戦略が関係しているようです)。
  2. 朝貢と冊封を混同していることについて。「このように栗原氏は、内外臣の中間的な存在や不臣の朝貢国など、一般外臣以外の存在に対して蛇紐印が賜与された、と解釈したのである。」(金子修一『隋唐の国際秩序と東アジア』名著刊行会、p.71)、「堀氏によれば、秦・漢時代以来、中国皇帝の支配は郡県制による支配と、異民族の主張にたいする支配とに二分されるが、中国皇帝と異民族の首長との関係は、広く羈縻と呼ぶべきことを指摘する。もともと、羈縻とは多様な形態があり、冊封・羈縻州・和蕃公主・朝貢関係などさまざまなレベルがあって、これらはいずれも羈縻の一形態であった。官爵授与による冊封関係は、その一部にすぎないというのである。しかも、冊封体制が広汎に通用した主要な時期は、魏晋南北朝であったという。」(李成市『東アジア文化圏の形成』p.46)、「諸侯や周辺諸民族の首長あるいはその使者が貢物をもって中国の皇帝に拝謁すること。中国側はこうした来朝を、その地域に皇帝の徳がおよんでいるものとみなした。そこで官爵が賜与されれば両者のあいだに政治的関係が成立することになるが、朝貢それ自体に、臣属、服属の意味があるわけではない。」(李成市『東アジア文化圏の形成』p.29注)、「「朝貢」と「冊封」は本質的に異なるにもかかわらず、」(李成市『東アジア文化圏の形成』p.30)、「中世東アジアの対外関係を論ずるとき、その前提として、明を中心とした東アジアの華夷秩序とか冊封関係ということがいわれる。ところが、東アジアの華夷秩序、あるいは冊封関係といっても、明にとっての四夷の国々や地域は被冊封国、朝貢国、化外などさまざまである。また、被冊封国も朝鮮・琉球・日本・安南などなど、明との関係は一様ではない。したがって、明との冊封関係も被冊封国それぞれの具体例にそくして、実態を究明する必要があろう。」(北島万次「永楽帝期における朝鮮国王の冊封と交易」『前近代の日本と東アジア』p.196)、「これらの外側には君臣関係、したがって冊封関係を結ばないただの朝貢国が存在した。外臣・客臣には中国の法が及ばないものの、礼と徳が及ぶのにたいし、ただの朝貢国には徳のみが及ぶものと観念されたという。」(堀敏一『律令制と東アジア世界』p.140)。以上のように朝貢と冊封が異なる概念であることは、ほぼ全時代的です。また冊封と朝貢の内実も変容しているようです。ただし浜下は冊封をも朝貢体制の一種として捉えているようです。
  3. 浜下説について。基本的に経済中心の論であることや、政治構造としては十分検証されていない、朝貢と冊封を安易に同一視していることには疑問(ただし経済構造としては冊封体制の経済論理も朝貢貿易であったのであるから当然の見方でもあるといえるが、それだけに東アジア世界論としては未だ不完全で、東アジア交易システム論にとどまっている)、漢以来の朝貢体制と述べながら具体的にどのような歴史的構造を持っていたものであるかは結論が出されていないことから、「冊封」記事に含めるのは積極的に賛成しているわけではありません。Dokutouさんは李の著書をあげておられますが、その箇所での李は冊封体制を朝貢体制にまで拡大解釈してしまうことには批判的なようにも受け取れます(真意は測りかねます)。
  4. フェアバンクについて。「つまり、フェアバンク氏と西嶋氏はともに栗原氏が明らかにした中国固有の秩序構造に冠する理論を共有しながらも、内陸アジアがしめる比重にかなりの差異がある。」(李成市『東アジア文化圏の形成』p.30)と述べていることはこの論でDokutouさんがいうほど東アジアの視点がそれほど重視されているのか疑問です。フェアバンク自身も「したがって我々は、中国の歴史は漢人と繰り返し中国の国家と社会に侵入してそれらの必須の構成要素となってきた内陸アジアの非漢人の双方を包含してきたということを悟らねばならない。要するに、我々は我々の視野を広げなければならないのである。つまり、内陸アジアの人々は、中国人の歴史に重大な役割を果たしてきたのである。今日でさえ中国国家は、多数民族である漢民族に対するよりも広い面積の土地を、少数民族の「自治区」として割り当てているのである。」(J・K・フェアバンク『中国の歴史』p.30)と述べており、同著では東アジアのほかの諸国との関連性にはあまり触れられず、内陸民族の動向を中国史に連動させて述べているものです。たしかにフェアバンクにも中心と周辺というような秩序形式において捉える視点が存在していることを伺わせる二次的な記述は多く見いだせましたが、彼が東アジアをどの程度射程圏内に含めているかと言えば、李が「東アジア世界は自明でない」というような事例で彼の著作をあげているならば、それは直接的にはあまり関連性がないといえるでしょう。東アジア世界などの記事があれば、そちらに記載するとよいでしょう。ここで記載すべき必要性を感じません。
  5. 理念と実態について。浜下は「朝貢体制は、理念的にも中国を中心とした一元的国際秩序であると位置づける捉え方が一方にあり、他方には、朝貢関係の存在にもかかわらず、現実には、中国とその相手国との関係は相互依存関係であるとする考え方がある。また両者の間にいくつかの中間的関係が指摘される。ここから、(ア)朝貢関係を理念的にどの程度東アジア国際秩序の原理として捉えうるのかという問題が出されると同時に、(イ)中国から見た朝貢関係が宗主-藩属関係であったことに鑑みるならば、字義どおりの国家間関係としての国際関係が、東アジアにおいて機能していたかという問題も導き出される。」(浜下武志『朝貢システムと近代アジア』p.4-5)と述べています。また「唐が百済・高句麗を滅ぼして朝鮮半島に施こうとしたのは、冊封よりも進んだ強力な州県制的な支配であり、…(中略)…中国王朝が政治的支配下においた外民族にたいして、冊封関係をむすぶか羈縻州を設置するか、あるいは例が少ないけれども王朝の直接支配下にくみいれるかということは、中国王朝と外民族との力関係に依存することが多い。」(堀敏一『律令制と東アジア世界』p.151)、「冊封とは、字義どおりには冊書という文書をもちいて中国の皇帝が臣下を封建することであり、それが中国王朝と外国のあいだにまで拡大されたのが冊封関係である。たとえば、高句麗王が隋帝から遼東郡王や高句麗王を授与されたのは冊封であり、それによって隋と高句麗とのあいだには君臣関係がむすばれたことになるのである。冊封関係をむすんだ国に対して中国は臣下としての職約を求めることがあり、そこから周辺諸民族の国際的な活動に一定の枠なり形式なりが生ずる。このようにして、非冊封国もふくめて前近代東アジアに独特の国際関係が生ずるのであり、それを冊封体制と称する。この冊封体制を念頭におくと、隋の高句麗遠征に際して、高句麗の地は周・漢以来中国の領域であった、という議論の存すること(『隋書』巻六七、裴矩伝)が注目される。つまり、伝統的な領域が中国王朝の秩序から脱落するのを防止し、当時の国際関係のよって立つ秩序をただす、ということが高句麗遠征の最大の理由となりうるのである。このように考えれば、高句麗遠征は一人の専制君主の征服欲にもとづくものではなく、当時の中国の国家体制が必然的に突入せざるを得なかった自己運動と理解される。西嶋氏はこのように述べて、当時の冊封体制に政治的規範としての特質を認めたのである(「東アジア世界と冊封体制」『中国古代国家と東アジア世界』東京大学出版会、一九八三年、初出は一九六二年)。これに対して鬼頭清明氏は、古代東アジア世界の国際関係の特質を中国王朝と周辺諸民族との君臣関係に求める冊封体制論は、周辺諸民族の主体的役割を過小評価することになる、と批判する。そして隋の平陳の前には、陳を中心に吐谷渾・高句麗・突厥をふくむ「封鎖連環」の同盟が存在したか、同盟が存在したに等しい共通の政治的利害関係が客観的に存在していた、と推測する。そして隋の高句麗遠征については、ふたたび高句麗と突厥とのあいだに連盟が形成されることが危惧されたのである、と論じた。(『日本古代国家の形成と東アジア』校倉書房、一九七六年)。…(中略)…煬帝の高句麗遠征は、当時の東アジア世界や冊封関係の本質理解にかかわる重要な論点をふくむ問題なのである。」(金子修一『隋唐の国際秩序と東アジア』名著刊行会、p.109-110)、すくなくとも正朔・朝貢が冊封関係にとって義務であったかどうかなどということは皇帝理念がどうあるにせよ、一概に断じることはできないでしょう。また一方で冊封体制を領域支配の承認と見る考え方に立てば、外交儀礼だけ守れば国内体制については(力関係にもよりますが)かなり中華帝国の影響を排除することも可能であったと見る論もあります。しばしばこのような議論では、朝鮮が正朔を遵守したのは地理的関係性によると述べられています。果たしてDokutouさんがいうような国内体制においても正朔が「義務化」されていたのでしょうか。冊封国がもし礼の及ぶ範囲であったとすれば、暦法など中国の礼儀が及ぶことは期待されたでしょうが、外交儀礼以上に「義務化」すべきなどという認識が果たしてあったかどうか。一般的に述べることは、明の安南征伐の事例、朝鮮王朝の例などこれらの「義務」が問題になる局面が限定的であることから、限定的であると見るのが普通でしょう。私が参照したかぎり、多くの方々は現実の力関係によって中国王朝の側の要求が変化している様子をとらえています。Dokutouさんのあげた論拠はあくまで外交上のことのようなので、私の主張の反論になるものとは思っていません。外交上は遵守されるべきこととなってたのは承知のことですから。こちらでも一応見てみましたが、上の坂野、原田の論はあくまで外交上のことを述べていると認識しております。
  6. 訂正箇所について。具体的に7月12日以降のどの箇所にDokutouさんの署名を追加すればいいのですか。順番についてはどこを変えるべきだと思っているのですか。もし7月25日の返答の位置を変えるべきだとおっしゃっているのなら、私自身はこう答えるのが自然なことだと思っているので、この部分は変更する必要を感じません。ほかに思い当たる部分はこちら側としては特にないので、もしなにかあればご指摘ください。私にはどの箇所のことについてDokutouさんがおっしゃっているのか具体的な指摘がないのでわかりません。ので、何度おっしゃられても訂正のしようがありません。

以上。--Kanbun 2006年7月27日 (木) 09:31 (UTC)

保護解除依頼に出しました。事後報告になってしまったことをお詫び申し上げます。
Kanbunさん、前にも言いましたが、意見を付け加える場合にはその節の最後に加えるようにお願いいたします。そうでないと書き込みの時間的前後が解りにくくなり、議論の流れが寸断される恐れがあります。
個々の方々に返事を出したい場合には「○○さん、・・・・。△△さん、・・・・。」という形式が一般的ではないかと思われます。強制することは出来ませんが、他者の可読性に関わってきますので出来ますればお願いいたします。らりた 2006年7月27日 (水) 12:38 (UTC)

保護依頼お疲れさまです。さて、らりたさんがこうおっしゃっているということは、Dokutouさんはやはり7月25日のコメントを問題にしているのでしょうか?しかしあれのどこにDokutouさんの署名を追加する必要があるのかがわかりません。Dokutouさんが早くしろと憤激しておられるようなので、どこかに署名を入れるべきとおっしゃっているようなのですが。以前Dokutouさんは自分の発言を分割するときのみ署名を入れてくれとおっしゃっていたようですし、7月25日の書き込みは混乱するほどではないように思われますし、以前から私はあのように返答するのを常としていました。しかしあれがわかりづらいというのであれば、別段こだわることでもないので、最後にコメントを加えることを心がけたいと思います。できればDokutouさんが7月11日以降でご自身の署名を入れてほしい箇所を指定くださると助かります(なんだか個人的にはDokutouさん自身がやっていただいたほうが早い気もするのですが。自分の署名をいれることだけなら、発言順の操作もないでしょうし、問題ないように思われます)。--Kanbun 2006年7月27日 (木) 14:10 (UTC)
以下Kanbunさんへのコメント。
  1. ベトナムの件、普通これでわかりそうなものですが、再掲するとたとえば原田氏は「越南の君主は、現実の冊封体制下の清の皇帝の前では「越南国王」であったが、越南国内では清の君主と同様の「皇帝」「天子」を称し、前述したように元号を用いた」と述べています。この文章からベトナムが国内と中国向けは分けて自称していたことは明白だと思うんですがね。それにまた誤読していますが、何度も言うように冊封されたなら中国に対し明示的に皇帝と名のるはずがないといっているんですよ。「ベトナムが国内的に帝を称していない証明がされたのですか」とどうして問題をすり替えるのですか。また「帝を称したこと」がわざわざ挙げられているので有れば、そういうことが問題になりうるという意識・文脈が中国側にあったと言うことでしょう。「攻める口実に使ったと見るべき」というのはKanbunさんの私見に止まるもので、研究者の言ではないのですよね。少なくともこちらはベトナムが国内外で皇帝号を名のるかどうか選別していたという研究を挙げています。反論する際、それに即した反論を具体的に願います。
  2. 朝貢と冊封を混同していることについて。いろいろ読まれて、良く系統立てておられないようですが、わたしの論のどこが混同しているのですか。何に対し研究書を引用しているのか判りません。これも具体的に願います。何度でも言いますが、冊封と朝貢が概念的に別であることは承知している旨述べています。
  3. 浜下説について。どうも誤解されているようですが、Kanbunさんがいくら「朝貢と冊封を安易に同一視していることには疑問」と思われていようが、浜下説を取り上げるかどうかには一切関係有りません。研究者が冊封体制がらみで取り上げているかどうか、が判断の基準となります。疑問があるので有れば、論文に書いて反論すればよろしい。また仮に李成市氏が浜下説に批判的であったとして、それでもなお取り上げたので有れば、それは学会において無視できない学説だと一層言えるということになります。或る学説に批判的なだからといって、学会で盛行しているのに取り上げないのは研究者の姿勢ではありませんし、Wikipediaでも認められるものではないでしょう。これはフェアバンクについても当てはまります。前回挙げたように、この方の学説を引く人は多い。批判的に取り上げる人もいれば、賛成する人もいる。しかし重要なのは取り上げているという事実です。それはこうした世界論を論じる際、触れる必要があると研究者が認識しているからです。学説に納得しているかどうかで論ずるべきでは断じてない。何度でも言いますが、わたしは取り上げている研究者を複数挙げているのだから、取り上げるべきではない、あるいは論じるに値しないという意見の研究者名を挙げてもらわないと、同じ土俵に立って議論していることにはなりません。Kanbunさんがどう感じたかは、載せる載せないの判断基準とはなり得ません。ご自分のご意見を連ねられても、名前を挙げられないのかなとしか感じません。
  4. 理念と実態について。ここもいろいろ引用していますが、一つも正朔・朝貢に具体的に言及したものを挙げておられませんね。冊封や朝貢の認識にぶれがあることからすすんで、だから正朔・朝貢は義務ではないんだという論理は飛躍以外何者でもありません。こんな論理で査読誌に提出したら、一発で刎ねられるでしょう。こちらは西嶋氏(古代史)や坂野氏(近代史)、原田氏(朝鮮史)と具体的に述べてきました。つまりそれなりに受け入れられた意見と言うことです。であるならば、もしそうした理解に疑義があるのでしたら、「こうした理解は誤っている」とか反論が有るはずです。そういう具体的な研究名を挙げないと反論になりません。明の安南征伐の事例が限定的というのもKanbunさんの私見に過ぎません。そういう私見を求めているのではありません。匿名でない研究者の意見の提示を求めます。だいたいそういう私見に私見で反論したら、水掛け論になり話が進みません。ましてや根拠となる史料も挙げずに。そういう私見は論文に史料を添えて書いて発表願います。現実ではもしかしたらどこかの名誉教授で有るのかも知れませんが、ここでは西嶋氏や坂野氏、原田氏といった有名な方々にネームバリューで対抗することはできないでしょう。さらに「Dokutouさんのあげた論拠はあくまで外交上のことのようなので、私の主張の反論になるものとは思っていません」と述べておられますが、冊封体制は国際秩序ですから外交的な側面から論じられることが多いと思いますがね。
  5. とにかく全体的に言えるのですが、反論は具体的に私見を交えず、研究者の研究を以て願います。
  6. 訂正箇所について。わたしの2006年7月23日 (日) 14:45 (UTC)の発言は、らりたさんの2006年7月23日 (日) 11:38 (UTC) へのものです。どうして後から割り込むのですかね。またどうしてそれを正当化できるのでしょうか。「7月25日の書き込みは混乱するほどではないように思われますし」と言われますが、それに対し他人がマナー違反だと言っているのです。自分ルールを何で簡単に人に押しつけられるのか、そちらの方が不可解です。それと署名ですが、なんで7月11日以降に限定するんですか。わたしは7月11日以降のものを直してくださいとは一言も言ってませんよ。過去ログとて、読む人は読むでしょう。その時署名がないと変に思われるのは私なのですよ。これまで勝手に段落間にKanbunさんがコメントしたもの全部にわたしの署名をコピーしてくださいと述べているのです。段落間にコメントすることを私が願ったわけではありませんし、わたしは発言順を狂わせてもいない、瑕疵はないはずです。それにしても「憤激」とは。さっさと修正すれば、こんなことにならなかったんですがね。どうでしょう。発言順の問題について、マナー違反かどうか広く意見を募っては。--獨頭 2006年7月27日 (木) 15:47 (UTC)

インデント戻します。

  1. ベトナムについて。「「越南の君主は、現実の冊封体制下の清の皇帝の前では「越南国王」であったが、越南国内では清の君主と同様の「皇帝」「天子」を称し、前述したように元号を用いた」と述べています。この文章からベトナムが国内と中国向けは分けて自称していたことは明白だと思うんですがね。それにまた誤読していますが、何度も言うように冊封されたなら中国に対し明示的に皇帝と名のるはずがないといっているんですよ。」とおっしゃってますが、「国内でも中国皇帝の正朔が義務づけられていたこと」の証明にはなっていません。また朝鮮の崇禎暦問題などは朝鮮側がむしろ政治的意図を持っておこなっている例ともいえるので、義務感から行っていたとは思えません。「「ベトナムが国内的に帝を称していない証明がされたのですか」とどうして問題をすり替えるのですか。」とありますが、私は当初からその問題を話しているつもりなので、すりかえたつもりはありません。外交の規定を国内的な規定であるように論じるDokutouさんのほうが論旨をすり替えていらっしゃるように思われます。また「そういうことが問題になりうるという意識・文脈が中国側にあったと言うことでしょう。」とおっしゃいますが、周辺諸国は意識・文脈において異なるものを持っていたのですから、その両方を組み入れて義務なり様式なりの実態をとらえるべきでしょう。原則を安易に絶対化して、必ず一種の「論理」が関係性に伴ったというようなことは言えません。またどのようなことが冊封の原則かなどということは共通見解がありません。むろん一時期の中国の外交から、一定の時期の冊封関係を明らかにすることはできますが、漢から清まで一般化された冊封国モデルのないことは私が当たった著作がほぼ共通して述べているところです。このことを堀・浜下らが繰り返し述べているところとしてあげたつもりですが、くみ取っていただけなかったようです。「少なくともこちらはベトナムが国内外で皇帝号を名のるかどうか選別していたという研究を挙げています。」ということは、私が国内では正朔が義務化されていなかったという見方をしていることと矛盾しませんし、むしろ国内的に「義務」づけていたというような認識がなかった証左のように思われます。
  2. 「明の安南征伐の事例が限定的というのもKanbunさんの私見に過ぎません。」について。私見ではありません。汲古書院の青山学院大学の東アジア論文集に安南と朝鮮についての比較論文がありますし、冊封関係が実際の力関係によって職約が加えられるもので、冊封関係に入ったら一律に何らかの職約を押しつけられるものでないことは、堀らも共通しています。一般に東南アジア史の論文には冊封体制という観点がないので、いまだ判然としませんが(読み進めていけばもっと見つかるかもしれませんが)、彼らが国内体制で中華帝国の圧迫を受けていたという記述は限られますし、正朔うんぬんには触れられていません。違約を責めて攻撃する事例(主に隋の高句麗・百済、明の安南)については、それぞれ冊封関係以外の要因もあるので、冊封関係において正朔・朝貢などが義務づけられていて、それを守らなければ即攻撃というわけでもありませんし(鬼頭などはこのことから既存の冊封体制が中国中心であると述べています、つまり中国側の論理ばかりを冊封関係に見てはいけないということです、正朔については実際に国内まで合わせている例が限られるのですから、中国側の論理だけで論じられない事例と見るべきでしょう。かなり著作を参照しましたが、正朔について冊封と一般的に関連づけて論じられている著作がないことも、国内体制における正朔の「義務」という言葉に妥当性を失わせます。正朔を奉ずるというのは、おそらく国内的なことではないのでしょう)、中国側が外交儀礼以上に正朔を義務づけていたと思える事例は朝鮮の場合しか発見できません(ただし朝鮮の場合も冊封の「義務」として認識していたかどうかは一概に論じられません、小中華主義からくる礼儀論もかなり一般的に散見されます。もし堀や栗原が論じるように、冊封国が礼儀の及ぶ範囲という観念ならば、「義務」という強制的な認識が存在するものかどうか。むしろより直接的な宗属関係を導く両者の力関係・地理的位置からこれを強制された国とされていない国の区別があるという視点に立つべきと思われます。そうすると冊封関係にこのような国内体制に対する規律が一般的に含まれていたという視点は成り立ちませんし、冊封と国内的な元号・称号を「義務」として結びつけて論じる研究は私自身は発見できていません。これはまえにあげた堀らの論点と同じものであると私は認識していますし、Dokutouさん自身もこのような事実を認めつつ、なぜか外交上のものと思われる規定が国内体制も支配すると考えているように思われます。もちろん中華帝国の理念として、基本的に外交なるものが存在しないなどという論も思想背景として語られることはありますが、事実としての国際関係は中華側の論理がどうあれ、外交関係として捉えるのが一般的です。Dokutouさんがどうしても理念を語りたいのであれば、やはり理念は理念として記し、実際はこうであるという部分を記載すべきです。私自身は最初からそれだけを述べています。つまり今の記事の記述では実態においても中国側の論理が貫徹されているかのような認識がありますが、実情は外交上で自己の論理を形成するにとどまり、基本的には被冊封国の国内体制に干渉している例は僅少と見るべきでしょう。またもしそのような理念上のことであるならば、国内的なことについては、法拘束力などの実体的影響を伴う「義務」というよりは観念的に期待された「儀礼」と見るべきです)。ベトナム側は清の冊封体制下にはいるまえもあとも称号や正朔について国内的に配慮したという事例はないように思われます。
  3. フェアバンクについて。「しかし重要なのは取り上げているという事実です。」とありますが、東アジア世界論として取り上げている人は発見できません。何度ももうしているように、中華帝国の外交秩序一般を含んだ記事などに載せるなら適当でしょうが、ここはあくまで「冊封」の記事ですので、そこまで含めると杉山の論や田村実造の北アジア文化圏論などに必然的に触れることになると思いますが、これらを述べるならば、「冊封」よりは「羈縻」にしたほうがよいでしょう。人気のある学説だからあれこれ書くということではなく、あくまで「冊封」の観点から関連性を絞って記述すべきです。よって浜下はともかく、フェアバンクは全く記載の必要性を感じません。どこかに記載したいのなら、私自身羈縻政策のほうを修正すべきことに思い当たりましたので、そちらに私が記載してもかまいません。またどうでもよいことでもありますが、「取り上げるべきではない、あるいは論じるに値しないという意見の研究者名を挙げてもらわないと」とおっしゃっていますが、一般に取り上げるべきでない、論じるに値しないと思っている研究を自分の研究でわざわざ「取り上げるべきではない」「論じるに値しない」などと取り上げたり論じたりする人がいるのでしょうか、疑問です。私はあくまでフェアバンクの説の取り上げ方が「冊封」記事とは直接関連するようではないので、よりふさわしい箇所に記載すべきと申しているまでです。浜下についても同様です。
  4. 浜下説について。何度も申し上げているように、私が憂慮しているのは冊封と朝貢を浜下が同一に見ている・浜下と西嶋の視点の地平が異なること(これについては李も述べていることはご存じのはずです)から、冊封体制論の変異体という見方で浜下説を取り上げるのは適切ではないと述べています。朝貢と冊封が異なるものという認識がDokutouさんにあるのでしたら、朝貢のほうにこの朝貢システム論を記載したほうが適当であるという私の意見も了解されると思ったのですが。現時点で朝貢のほうに朝貢システム論への言及がなく、なんで冊封のほうに記載される必要があるのか、私には疑問です。
  5. 「冊封体制は国際秩序ですから外交的な側面から論じられることが多いと思いますがね。」について。おっしゃっている意味がわかりません。私はあくまで外交上のことに正朔・朝貢をしぼり、国内体制を規制するものであったかどうかは事例によって限定的に記載するのが適当と述べているまでです。外交的な側面を被冊封国の内政的な側面にまで安易に広げようとしているのは、Dokutouさんのように思われるのですが。
  6. 訂正箇所について。「それにしても「憤激」とは。さっさと修正すれば、こんなことにならなかったんですがね。」とありますが、別に憤激していらっしゃらないなら結構です。私自身は悪意を持ってやったことでもないですし、それほどDokutouさんがこだわっている理由がわかりません(こんなこととはどのようなことを指しているのかも捉えがたいです)。ともかくこの件については過ぎたことは過ぎたことし、以後気をつけるということにしたいと思います。7月11日以前の記事については特定版リンクの過去ログになっていますので、そのままでよいと思っています。Dokutouさんが必要と思うのであれば、ご自身の発言部分ですし署名を追加するのは許されると思います。

以上--Kanbun 2006年7月28日 (金) 02:41 (UTC)

ここ数日の議論の流れを眺めていてようやく解ったような気がします。事実認定の段階ではお二方それぞれ(私も含めて)ほぼ一致しているようです。ただ、それを言葉にする段階ですれ違いが生じたように思います。以下は私のお二方の発言に対する理解ですので誤解しているところがあるかもしれませんが、ご容赦ください。
正朔と帝号に付いて。

  1. 外交儀礼の上では「正朔」と「帝号を名乗らないこと」が遵守されていた。
  2. しかし国内のことでは朝鮮などを除いてこれを守らないことが多かった。中国王朝側でも他に理由が無い限り、それに対してわざわざ懲罰することはまず無かった。

という二点でおそらく一致していると思います。
そして私とDokutouさんが言う所の「義務」とは1の段階のことで、「理念の義務」と言っておきます。一方、Kanbunさんの言う所の「義務」とは2の段階、国内向けにも遵守させる義務のことで、「実際の義務」と言っておきます。お二方も私も「理念の義務」が存在し、「実際の義務」は存在しなかったということはおそらく一致していると思います。
例えば、ベトナムの帝号に付いては、ベトナムが王号と帝号を使い分けていたことから「理念の義務」が存在していた証拠になりますし、国内向けには帝号を名乗っていたことは「実際の義務」が存在しなかった証拠になります。
そして私やDokutouさんは「理念の義務」が存在したという意味で「義務化」の表現を使っていたのですが、Kanbunさんは「実際の義務」が存在しないにも関わらず、「義務化」という表現を使うことはあたかも冊封が国内体制すら規制していたかのように読み取れてしまい、誤解を招くとおっしゃっていると理解しました。
朝貢に付いて。
朝貢に付いてですが、Kanbunさんのご意見は「冊封国に必ずしも朝貢の義務が無い」ではなく、「朝貢が先であり、冊封が後。であるのに『冊封が朝貢を義務化した』という記述では冊封が先で朝貢が後と取れるので誤解を招く」ということかと思います。
これに関しては前にも言ったかと思いますが、言い回しの工夫で解決できるように思います。Kanbunさんの「朝貢国より冊封国が上位であるということが記述されれば」という言葉はおそらくその意味でおっしゃっていたと思われますが、いかがでしょうか。正朔・帝号に付いても理念と実際との違いを明記した上で書けば誤解を招かないで済むかと思われます。らりた 2006年7月28日 (金) 13:18 (UTC)

私の考え方については、らりたさんの言われるとおりで正鵠を得ていますし、「理念と実際との違いを明記」するというのも、わたしの当初からの意見でもあります。それと正朔も義務だったと明記している研究を見つけました。ひとつは「藩属国は、中国の元号(年号)を用い、朝貢などの義務をおっていた。元号を用いるのは、その王朝の定める正朔を奉ずることを意味し、毎年頒暦を受けて、これを遵用する例にもなっていた。朝貢は、天子に朝見して方物を貢献し、君臣の礼をつくすことをいう」(中村栄孝『日鮮関係史の研究』)です。ちなみに該当箇所は朝鮮のみに限定している箇所ではないので誤解無きよう。もうひとつはまさに暦の専門家のもので「(中国伝統学術としての)天文学の持つ公的性格は、「奉朔」すなわち正朔(暦)を奉じることが直接には政治的従属を意味したところに端的にみることができる。封建諸侯国においては、官暦を施行しないことは、ただちに天と天子にたいする公然たる反乱・謀反を意味した。そのことは異民族が統治する属国(朝貢国)においても同様であり、中国暦を使うことが義務づけられ、独自の暦を施行することは許されなかった」(川原秀城「中国の暦法」)。義務を実際に守っていたかどうかは別問題で、それはこのお二方も当然踏まえての意見でしょう。まあ、これだけ明確に述べているのだから正朔ならびに朝貢は義務だったと書いて問題ないですね。Q.E.D. 今日は忙しいのでここまで。--獨頭 2006年7月28日 (金) 15:04 (UTC)
被冊封国が国内的な正朔を義務づけられていないであろうことは漢代の華夷思想で確認できそうです。「(漢代の華夷思想では)華とは天子の直轄地である郡県と各地に封ぜられた諸侯王の国で、官僚・王・侯(内臣)から一般庶民まで漢の礼制・法制に従うが、夷とは、漢に臣属した君主たち(外臣)だけが漢の礼制・法制に従い、その支配下ではそれぞれ独自の制度・風俗が行われるもの、および漢の徳を慕って朝貢するだけのものである。」(『中国思想文化事典』p.155-156「華夷」の項)これに基づけば、やはり君主が中華皇帝との外交上は中華帝国の元号・暦法を奉ずることを求められていたが、国内体制に拡大されるものでは理念上においてもなかったようです。上のDokutouさんがあげている事例はやはり外交上のことと見るべきでしょう。もちろん全時代的に適用できるかは疑問ですし、やはり時代の変遷や力関係で「義務」として求められるものも違ったのであろうことは指摘できます。同項では、近世になると名分論を重視する宋学の登場で華夷思想が強められ、「華夷の別」を厳しく論じるようになったと述べています。このことは崇禎暦問題と合わせてみますと、なんとなく朝鮮が国内体制まで中華の礼制に合わせようとしたことは、朝鮮における宋学の流行を考えて、小中華主義の観点から論じる方が適切であるような認識も抱かせます(これについては未だ私見ですので、後日改めて述べるべきと思います。また同じく私見ですが、唐が新羅に国内的な正朔を求めた事例もかつて漢の支配地であったことを鑑みれば、冊封関係ではなく、華夷思想の観点から説明可能に思われます、ただし西嶋自身はこの新羅の件は冊封体制の進展と捉えているようです)。ともかく今までの議論はじつに興味深い限りで私としても大変勉強になり、お二人には感謝するばかりです。--Kanbun 2006年7月28日 (金) 15:19 (UTC)

インデント戻します。なお保護解除が行われたならば、以前述べた冊封の「封建的土地支配の側面」については是非付け加えたいと思います。すなわち「冊封とは…(中略)…本来爵号の授与が一定の土地の領有を認める封建的な意味をもつことによる用語である。…(中略)…(高句麗・百済・新羅)三国の王は六二四年に唐から遼東郡王高句麗王・帯方郡王百済王・楽浪郡王新羅王の爵号をうけたが、このように郡王号と王号とを同時に賜与された例は唐代ではほかにない。…(中略)…つまり、三国ともそれぞれの領域に近い中国の郡名を郡王号としてえていたのであり、これによって三国にたいする冊封の意義も二重に強化されたのである。」(「補説22 冊封体制と東アジア世界」『中国史2』山川)という意味での一定の領地の支配を観念的に含むということです。これについてはいまのところとくに反論もないように思われますし、冊封が一種の封建制度で、特殊な土地支配の観念を含むものであることが今の記事ではあまり指摘されていないように思われます。--Kanbun 2006年7月28日 (金) 17:27 (UTC)

天下について。基本的に領土という観念が中華思想に存在しなかったというような観点に立つならば、「天下の領有」ではなく、「天下の支配」あるいは「天下を理念的に支配」などと表現を変えればよろしいと思われます。天下については時代とともに概念が変貌しており、天下=中国=九州全体(秦以前)であったのが、東アジア政治世界の進展とともに天下=世界と認識され、遼金元の時代には華夷秩序・冊封体制が分裂あるいは逆転したのと同じように、「天下も二分」(『中国思想文化事典』p.142-143「天下」の項)されたと理解されているようです。日本の天下、また周辺諸国の小中華主義的な天下も含めて、天下はある一定の存在を至高の存在としていただいており、中国におけるそれは、中国皇帝が至高の存在とされ、周辺諸国との君臣関係のヒエラルキーを設定し、その頂点にいたという感じがよい気がします。天下の意味内容の変化などについては別に記事を用意するのがよいと思われます。--Kanbun 2006年7月30日 (日) 01:20 (UTC)
Kanbunさんが言われる所の「封建的土地支配の側面」の加筆に付いては異論はありません。ただしこれが朝鮮三国のように「かつて中国王朝の直接支配を被った地域」に特徴的であることを明記すべきと思います。天下に付いてですが、私もここで天下思想に付いて詳しく説明するつもりはありませんでした。ただ天下の記事は未だ無く、補足的な意味合いで説明したいと思っていました。王化思想もまだありませんし、華夷思想≒中華思想の記事もあまり充実しているとは言いがたい状態であり、その辺りの思想的背景を理解に入れないと冊封を理解しがたいので簡単な説明をしておくべきかと思いまして。天下思想に付いても例の同心円状の概念図を注記しておいた方が良いかとも思いましたが、主題を外れるような気もしますね。その辺りは百科事典という性質の難しい所と思います。らりた 2006年7月30日 (日) 12:15 (UTC)
そうですね。関連記事はDokutouさんも含めてみんなでいろいろ増やしていくのが面白いですし、百科事典としての充実に資すると思います。あと山川の中国史の該当箇所ですが、ちょっとあげた部分がほかのことも書かれていたのでかなりばっさり削って一部だけ示しただけだったので、誤解されてしまったかもと思います。というのは、この部分は「郡王号・王号」という形が封建的支配を二重の意味で強化していると述べている箇所で、郡王号があるから、あるいは朝鮮だからというのではなくて、新羅王とか越南王とか一般的な冊封の称号が地理概念を含んでいるということなんです。つまりヴェトナムの場合も清朝に「南越王」に冊封してほしいと要請しているんです(ヴェトナムは14世紀頃に南越国の後継者という意識が醸成されていたようです)が、清は南越は中国内の土地概念なので、越南と名乗るようにというようなことを述べています(これは「南越」は中国内だからそこの支配は認めないが、その南側の支配は認めようという意味だと思われます。したがってこれらの冊封号にはどの程度明確は判然としませんが、観念上一定の土地支配を認める地方分権的な性格があったと思えます。おそらくDokutouさんの指摘する冊封関係の属国自主という観点もこのことから説明可能でしょう。外交的には中華王朝からの制約をいろいろ受けることがあっても、国内的には独立が保たれるという意味です。ただ近代的な「独立」というのは外交も内政も全て決定権を持つ「主権」が存在するという意味なので、両側面において主権が貫徹されていないと、近代的な意味で独立しているとはいえない、つまり逆にいえば近代的意味でこの関係を捉えると被冊封国を属国と見なさざるを得ないということを私は申しておりました。しかしまたヴェトナムの例と朝鮮の例から冊封関係といっても内実が異なり、ヴェトナムのように外交主権をほぼ制限されていないと見える事例と朝鮮のように清側の制限を受けている事例があり、それにより冊封関係が主権の制限を必ずしも含むのではなくて、朝鮮のように密接な関係を築いていた場合にのみ強くあらわれたと見ています。つまり冊封関係があるから近代的な意味での宗属関係が成り立つのではなく、冊封関係以外に朝鮮の場合にはより強く宗属関係を設定できる要因があったと見ています。すなわち「相違点は、まず、「自主」のあり方が異なることが挙げられる。朝鮮では勅使、貢使、国境交易に見られるように清との厳しい宗属関係に置かれた。日本との書契問題はその反映とも言える。一方、越南の場合は清との宗属関係が弱く、北の清に属国の礼はとるが、南のインドシナでは帝国を以て自任し「皇帝」の称号と「元号」を用いたので、日朝間の書契問題のようなことはあり得なかった。このように、「政教禁令」は「自主」と言いながら、同じ属国であっても朝鮮と越南とのあいだには大きな差異があった。たとえて言えば、清朝における属国の「自主」は、文字通りの「自主」の越南から、拘束が強い「自主」の朝鮮まで大きな幅があったのである。その理由は宗属関係の成立の事情に由来している。」と原田が述べるごとくです。なので、一概に被冊封国の属国自主といっても内実において近代的意味の属国ととれる関係と独立国ととれる場合が存したと見ています。またDokutouさんは近代的な属国というのを、何か統治官が派遣されるとか、そういうことを考えておいでのようですが、近代的な「属国」あるいは「半独立国」というのは、独立国でない国という消極的意味です。すなわち属国といってもぴんからきりまであるので、問題は属国かどうかということではなくて、どの程度制限を加えられていたかということです。なので私自身は冊封関係は近代的な宗属関係を理念上含むが、実際に近代的な宗属関係に置き換えて考えられたかは内実によるという見方です。すなわち一般化すれば「被冊封国≠属国」、ただし理念上においてのみ「被冊封国=属国」、また朝鮮は「被冊封国=属国」)。ただ金子修一は冊封関係を徳化王(土地概念はあまり含まない、世襲されない)・外属王(おもに国王号)・内属王(おもに郡王号)に分ける見方を示していて(これは隋唐時代に限られたことですが)、郡王号についてはそれに関連するところです(またこのことから冊封関係=外臣といったような栗原・西嶋説的理解とは異なる冊封概念が抽出されます)。なので、郡王号が特殊だということを示すことは重要だと思います。さらに高句麗・新羅・百済などの朝鮮の冊封国は隋の時代に「夷」ではなく「華」の土地であると議論されていることにはらりたさんのいうように特徴的なことです。西嶋自身はこのあたりは明確でないように思われますが、金子の見方もすこし示してみてもよいかもしれません。保護解除されたら、付け加えてみるつもりですので、適宜修正など加えてくださればと思います。--Kanbun 2006年7月30日 (日) 14:05 (UTC)

なお、外交能力としての主権が、なぜ理念上の「冊封関係」において制限されるのかについて、以前にDokutouさんが書契問題を清が認知していなかったから、清が朝鮮の外交主権を侵しているとはいえないというようなことをおっしゃっていましたが、これは清が実際に朝鮮の外交において影響力を発揮したかどうかの問題以前のことです。一番簡単にこの外交能力の一部欠如を指摘できる例は理念上被冊封国が宗主国と敵対する国家と同盟関係に入ることが禁止されていたということでしょう。もちろん実際においては高句麗などがこれを破っている、統一新羅が二重朝貢しているなどの例があるのですから、実際面においてまで厳密に外交能力が制限されていたとはいいがたいということです。--Kanbun 2006年7月31日 (月) 04:28 (UTC)

まずKanbunさんが天下の記事を作ってくださったことにお礼申し上げます。パソコンが壊れてしまい、返事が遅れてしまいました。しばらくの間はまとまった形での返事は難しくなるかもしれません。ご迷惑をおかけします。らりた 2006年8月5日 (土) 09:14 (UTC)
いえいえ、迷惑などとんでもない。そもそもらりたさんのほうがおそらく素敵な天下記事のイメージを考えていらっしゃったでしょうし、きっと付け加えるべきこといろいろ思いつかれているかもと思いますので、いまだ簡単な説明を述べるのみの記事ですから、気が向いたら適宜加筆してくださるとにぎやかになって良いと思います。どうせこの記事はしばらく保護されたままでしょうし、私としてもらりたさんが天下その他中国の思想に関連する記事をたてたり、当方がたてた記事を加筆してくだされば、大変喜ばしく思う次第です。らりたさんが再び記事執筆ができるようになり、いろいろご教授いただければと思います。--Kanbun 2006年8月5日 (土) 10:23 (UTC)

多忙につき、返答できませんでしたが、以下まとめてします。 Kanbunさんへ。属国概念について、いろいろ言われていますが、外交と内政双方をもってないと属国だという風に言われていますが、これは誰の学説に拠っているのですか。また学説では近代と前近代の属国ではどう違うと説明されているのですか。おそらく具体的な例が説明には付けられているでしょうから、その部分の引用お願いします。さらにそれには李氏朝鮮が近代的属国であったと書いているのですか。書いてあるとして、それはどの時期が属国に当たると書いているのでしょう。提示願います。ちなみに原田論文は根拠とはなり得ません。原田氏は李氏朝鮮と清朝の朝貢―冊封関係が実質的であったと書いていますが、それでも近代的属国ではなかったと考えている点は、以前示したように金度享氏とのやり取りから判りますし、Kanbunさんの前々回投稿の際の引用数行後にはっきり「越南、清、朝鮮が中華なるものの束縛から若干解き放たれて、近代なるものに向かうのは日清戦争(1894-95)によって清を宗主国とする冊封体制が崩壊して以降である」と書いています。引用の利用は正確にお願いします。付言すれば、原田氏は岡本氏の研究を注に挙げていますが、その岡本氏も「一般にいう西洋の属国と清朝のいう属国とのあいだには、その意味でやはり懸隔がある」と記し、李氏朝鮮を近代的属国と捉えることを否定しています。「自主」云々、私見を述べるのは結構ですが、それは査読論文や研究書に書かれたものでなく、単にKanbunさんの私見に過ぎません。論じるときは専門研究に依拠して書いてください。あらかじめ述べますが、はっきりとした証拠の提示願います。はっきりしたというのは誰か研究者の「李氏朝鮮は近代的属国的要素を濃厚に有していた」等の文言です。とりあえず私はいくつか提示しました。根拠があるのであれば、どちらが現在の学会で有力かをそれから論じればよいでしょうが、朝貢や正朔の時のように単に私見だけで証拠が無いので有れば、貴重な時間を浪費することになり無駄なやり取りでしょう。

猶、誰かの学説に仮に依拠しているとして(依拠してなければ以降の文は意味を為しませんが)、記事にどう反映させたいとお考えなのですか。試みに文案を提示してください。

皆さんに。浜下・フェアバンク両氏の学説掲載について。これまでのところ、両者の学説について掲載すべきでない、あるいは西嶋氏の冊封体制学説との関連性が非常に薄いという研究は提示されていません。逆に多くの研究者が触れている点については、上で提示しています。というよりも冊封といった国際関係の研究史を述べるとき、浜下説に触れるのは中国研究の常道ですので、触れなければその方が異様でしょう。ですので、掲載という方向で、加筆投稿しようと思います。これで意見がまとまらないので有れば、中国史に興味ある人々に声をかけ、投票とした方が時間の節約になると思うのですがどうでしょうか。--獨頭 2006年8月8日 (火) 16:48 (UTC)

「Kanbunさんへ。属国概念について、いろいろ言われていますが、外交と内政双方をもってないと属国だという風に言われていますが、これは誰の学説に拠っているのですか。また学説では近代と前近代の属国ではどう違うと説明されているのですか。おそらく具体的な例が説明には付けられているでしょうから、その部分の引用お願いします。」まず現在の国家というものが基本的に「主権国家」という形態を取っていることはご存じでしょうか。主権国家とは基本的に「上位の権威を承認しないもの」(長尾龍一)です。誰の学説といわれると、ジャン・ボダンからホッブズ、そしてロック、ルソー、イェリネック、ケルゼン、カール・シュミットとつながってくると思いますが、たとえば美濃部達吉は「国家の意思力を称して国権という、国家の権力というもその意同じ。国家の意思力はその最高独立、ほかのいかなる権力の支配をも受けざるものなることにおいて他の全ての意志力と区別せらる。」(『憲法撮要』)と述べています。意志力とはすなわち予見能力、正確には判断力という意味での理性であり(ホッブズ)、具体的には以前あげた国際法講義の引用が述べるとおりです。正確に言えば主権を欠如している国を「半独立国」といい、宗主国がはっきりしている場合をとくに「属国」といいます。辞典をひもとけば「形式的には独立しているが、実際には政治的・経済的にほかの国の支配・制約をうけている国」(『日本語大辞典』)と書いてあるとおりです。対義語の独立国は「他の国家から支配されることなく、完全な主権を保っている国家」(同上)とあります。誰の学説によっているといわれても、今日の国際法がこのような概念に従っているとしかいいようがありません。実際の国際関係が主権概念によって規定されているのですから、学説以前としかいいようがありません。
朝貢と正朔について。「朝貢や正朔の時のように単に私見だけで証拠が無いので有れば、貴重な時間を浪費することになり無駄なやり取りでしょう。」とおっしゃってますが、なんのことでしょう?「無駄なやりとり」などございましたでしょうか(文意からすると無駄なやりとりは朝貢や正朔の時のような議論を指すと思われますが、誤解であればご指摘ください)。これまでの議論のことを「無駄なやりとり」とおっしゃっているのでしたら、参加してくださったらりたさんにも大変失礼でしょうし、私自身も大いに遺憾です。私自身はDokutouさんの見解を一度も「無駄な」ものとは考えたことはありませんし、Dokutouさんが記事を充実させるための議論を「無駄な」ものと考えてられていらっしゃるのでしたら、ウィキペディアのような公共性の高い記事を書くのはやめられたほうがよいでしょう。人の意見を「無駄な」などと自分の立場で評価するような方とは思っていませんでしたが、大変残念です。ところで「一般に朝貢→冊封という関係であること、正朔については外交的な規制にとどまると見るのが妥当なこと」については合意していただけるのでしょうか?お返事を伺っておりません(西嶋説を中心に記載していいかどうかも返事を伺っていない気がします、また以前の記事をDokutouさんがどこの誰の学説だと思っていたかも伺ってません。当方の意見はすぐ私見だ、研究を示せなどとおっしゃるのに奇妙なことです)。またDokutouさんのおっしゃる冊封体制の「理念と実態」とは具体的にはどんなものでしょう?
「「一般にいう西洋の属国と清朝のいう属国とのあいだには、その意味でやはり懸隔がある」と記し、李氏朝鮮を近代的属国と捉えることを否定しています。」について。私自身もヴェトナムと朝鮮がだいぶ状況が異なることから、「冊封関係≠近代的な宗属関係」でないことは述べています。何をおっしゃりたいのか判りませんが、近代以前だからそこに近代的な意味での関係性がないということはいえません。冊封関係と近代の国際関係が異なるものであったにせよ、実例を見れば両者の関係に共通性を見出すことも可能だということです。つまりあくまで両者は別個のものであるけれども、両者の関係性に近代的な主権概念をあてはめると、朝鮮の場合は主権が制限されている例が抽出できる。ところが、ヴェトナムはそうではない。あくまでその論点は原田と共通です(最後の部分をよく読まれますよう)。


「1)批評者(金度亨氏)の指摘は、要するに朝鮮は中国(清)の属国ではないというものである。その論理は次の2つから成っている。①「西洋の論理と用語」では「東アジアの中世的国際秩序」は説明できない。②兪吉濬が朝貢国と属国とを区分し、斥邪論者も朝貢国と附庸国とに区分している。まず、①について。批評者が②で挙げている兪吉濬の主張について、私は1979年に言及している(拙著『朝鮮の開国と近代化』、渓水社、広島、1997、325-326頁)。彼のこの主張は『西遊見聞』(交詢社、東京、1895)「第3編邦国の権利」(85-99頁)で展開されている。ちなみに『西遊見聞』は福沢諭吉の『西洋事情』(1866-70)の影響を大きく受けている。兪吉濬は清からの独立と近代化を目指す開化派に属し、その立場から贈貢国と属国とを区別し、清に対し朝鮮は贈貢国であるが属国ではないと主張した。贈貢国と属国とを区別する時、兪吉濬は近代国際法に依拠している。斥邪論者も同様である。したがって兪吉濬は近代国際法という「西洋の論理」を用いたのである。また彼が贈貢国と属国とを区別する時、その「贈貢国」と「属国」は漢訳された近代国際法の用語であり、漢字語ではあっても「西洋の用語」なのである。したがって、①は事実に反すると言える。②について。伝統的に中国の朝貢国は属国、藩属国、服属国、贈貢国、屏藩、藩屏などと様々に表現されていたのを、近代国際法の訳語に在来の漢語を適宜当てたため、本来は共通の意味を持っていたものが異なる意味を持たされる事態が生まれた。だから兪吉濬が漢訳の近代国際法に依拠して贈貢国(朝貢国)と属国とを区分したからと言って、それらが本来的に異なるものだと言うことはできない。それ故②は贈貢国(朝貢国)と属国を区分する決定的なものとは言えない。以上から上記の①②は合理的ではなく、これらに基づく批評者の意見には疑問である。」(原田)


「2)批評者は、清と朝鮮の朝貢関係は朝鮮後期(いわゆる丙子胡乱:1636)以来儀礼的であり、朝鮮独自の国家経営には何らの影響もなかった、と述べている。批評者は、清との関係において朝鮮の政教禁令(国政)は自主とされていたことをもって、清と朝鮮の関係が儀礼的であったとしているようである。清と朝鮮の宗属関係については、拙論Ⅰ-2-1)で述べたように、清と朝鮮の関係の特徴は、この関係が清の利益追求の結果成立したものであることである。この点は越南や琉球などの他の属国と異なっている。朝鮮は清の利害に基づき武力によって服属させられ、辺境開市などを通じて清朝の故地である満州の供給基地とされた。清と朝鮮の宗属関係においては、その成立当初から朝貢儀礼以外にこうした実質的な関係があったのである。国際環境が変わらず、朝鮮が満州の供給基地としての機能など清への義務を果たす限り、朝鮮は政教禁令(国政)は自主という原則の下に清から干渉されなかった。これが清の朝鮮支配であった。それゆえ清が朝鮮の国政に直接干渉するか否かだけによって、清と朝鮮の宗属関係が実質的であったのか儀礼的なものに過ぎなかったかを判断することはできない。19世紀後半以降になると国際環境が変わり、欧米、それに明治維新後の日本の開国圧力に対して、朝鮮は自らの安全保障のために清への依存を強め、清も自らの安全保障のために朝鮮の戦略的に重視し関与を強めた。清は朝鮮の国政に直接関与しなくても清の利益を得ることができる国際環境の下では朝鮮の政教禁令をその自主に任せたが、国際環境が変わり朝鮮の国政に直接関与しなければ自らの利益を得ることができなくなると、朝鮮自身の依存と相まって、朝鮮への関与を強めたのである。以上要するに、清と朝鮮の関係は儀礼的なものではなく実質的なものであった。それ故、朝鮮は清に服属後、清との国境貿易や清への貢使と清からの勅使の経費などの負担に長年苦しみ、1880年に清が『朝鮮策略』を通じて清と朝鮮の関係の改編を図った時、朝鮮はこの機会を利用して1882年に清に「開市改編」「派使駐京」を提起し状況を打開しようとしたのである。以上のことから、明らかなように、清と朝鮮の宗属関係は実質的なものであり、儀礼的なものではない。なお、批評者は、属邦が問題になるのは壬午軍乱(1882)以後という言い方をしている。これは清の支配が強い場合が属邦ということであろうか。」(原田)


「「一般にいう西洋の属国と清朝のいう属国とのあいだには、その意味でやはり懸隔がある」と記し、李氏朝鮮を近代的属国と捉えることを否定しています。」という論が、近代以前の冊封関係と近代的な国際関係が異なるから両者に共通性がないという論であれば、その見方に原田は批判的です(1の部分の①を参照されたし。原田の文章から議論が始まったのに、Dokutouさんは原田の文章を独自に解釈したまま、都合のいい部分しか利用しないばかりか、最近では意図的に原田の文章から話題を逸らしたいように思えます、なぜでしょう?また引用文は「その意味」とはどういう意味なのかがはっきりしません)。もう一度原田の文章をよくお読みになられてはいかがですか(できれば私の見解もよく読んでいただきたいものです)。
「これまでのところ、両者の学説について掲載すべきでない、あるいは西嶋氏の冊封体制学説との関連性が非常に薄いという研究は提示されていません。」とありますが、冊封体制学説との関連性ではなく、あくまで「冊封」記事との関連性を問題にしていることは最初から述べてきたとおりです。ほかのウィキペディアンに100回ノートを読んでから、意見を言えなどとおっしゃっているようですが、Dokutouさんも100回ほど声に出されて読まれてはいかがでしょうか。フェアバンクと浜下については投票で決したいとおっしゃるなら、投票でかまいません(おそらくこれ以上は水掛け論になりそうな気がします)。私自身は関連性を疑っているだけで、関連性があるという方が多数であれば、何ら問題のあることではありません。私自身は浜下説は朝貢の記事に付け加えるべき、フェアバンクについても別の箇所に記載すべきという立場であるとだけ述べます。--Kanbun 2006年8月8日 (火) 20:59 (UTC)
属国概念について。また正確に読みとっていないようですが、このノートの最初からわたしは近代的な属国ではないと述べています。原田氏や他の方が「伝統的に中国の朝貢国は属国、藩属国、服属国、贈貢国、屏藩、藩屏」と述べていることを踏まえた上で、近代と前近代とでは異なると述べているのです。「ジャン・ボダンからホッブズ、そしてロック、ルソー、イェリネック、ケルゼン、カール・シュミット」など累々と挙げてもらう必要はありません。というより、こちらの質問に正確に答えておられません。近代と前近代の属国ではどこがどう異なるのですか。その典拠を示してくださいと述べています。言うまでもありませんが、冊封体制下の属国は近代的な属国ではない、というのは常識です。しかしそれは主権が欠けているから「冊封関係≠近代的な宗属関係」と述べているのではない。そんな短絡的なものではありえません。
「前近代のアジアには歴史的に形成された朝貢体制があった。それは朝貢国の君主が中国皇帝からその国の国王であることを認知されて冊封を受け、中国皇帝に臣属し、朝貢をおこなうことを基本形態としている。・・・中略・・・ここでいう朝貢体制はもっとふくらみをもった多元的な体系である。アジア的世界の国際秩序の外交・交易原理として作用し、それぞれの民族や国家が独自性を保持しつつ、相互にその存在を認めあう共存の体制である。・・・中略・・・それは近代的な支配-被支配の権力関係、搾取-被搾取の経済関係とは次元を異にする」海野福寿『韓国併合』8頁 、「東アジア国際社会における特徴は、中国を中心とする中華観念-華夷秩序、事大-朝貢・冊封体制の支配的傾向にもかかわらず、一般的に事大-朝貢・冊封体制が維持される限り、中国の朝貢・冊封国に対する直接的支配関係は成立しなかった」朴忠錫「韓国近代史における国際関係観念-伝統的な存在様式の変容過程を中心に」(日韓共同研究叢書11、2005)
「近代以前だからそこに近代的な意味での関係性がないということはいえません。冊封関係と近代の国際関係が異なるものであったにせよ、実例を見れば両者の関係に共通性を見出すことも可能だということです」と言われますが、だから誰の研究によって見いだせたと述べているのですか。ここで単なるKanbunさんの私見をさも研究成果のごとく提示するのはおかしいでしょう。原田氏は近代的な宗属関係にあったとか、「両者の関係に共通性を見出すことも可能」とか一言でも書いていますか。Kanbunさんがそう読みとっているだけで、原田氏はそのようなことは何も書いていません。「原田の文章を独自に解釈したまま、都合のいい部分しか利用しないばかりか、最近では意図的に原田の文章から話題を逸らしたいように思えます」というおことば、そっくりお返しします。また岡本氏の研究を引いたのは、原田氏自身が清・朝関係について岡本氏の研究を注として引用しているからです。つまりまったく無関係ではなく、岡本氏の研究に依拠していると原田氏が述べているのです。何度も言うように、Kanbunさんが独自に読みとったものでなく、はっきり研究者が書いたものの提示願います。またどう編集したいのか文案にて示して欲しい、という質問には答えてもらえていませんが、再度求めます。このノートに書いてください。
朝貢と正朔について。記事を充実させるための議論であれば、無駄ではないでしょう。しかしこの件や皇帝号の件にしても、中国研究の常識中常識であって、本来争点になるようなものではありません。たとえば正朔についてなど、暦についての研究を数種当たれば、私が引用したような義務だとしていることは書いてある。それを見当違いな研究を引いて延々論じ、議論を重ねるのは無駄だと述べているのです。もし正朔を義務でないとする確かな研究があって、今現在学会で優勢を占めているのはどちらかということを議論するなら有意義でしょう。しかしそうではない。Kanbunさんの義務ではなかったという私見と研究の常識とをくらべても意味があるとは思えません。
フェアバンク・浜下説について。「「冊封」記事との関連性を問題にしている」と述べていますが、その「冊封」記事では冊封体制学説を説明しているのですよね。加えて浜下氏も冊封について言及した研究がある。これで触れない方がおかしいでしょう。触れるべきではないというのは、単なる詭弁にしか聞こえません。Kanbunさんもノートを100回ほど声に出されて読まれてはいかがでしょうか。--獨頭 2006年8月9日 (水) 00:32 (UTC)
「近代と前近代の属国ではどこがどう異なるのですか。その典拠を示してくださいと述べています。言うまでもありませんが、冊封体制下の属国は近代的な属国ではない、というのは常識です。しかしそれは主権が欠けているから「冊封関係≠近代的な宗属関係」と述べているのではない。そんな短絡的なものではありえません。」について。では翻って、Dokutouさんのいう近代的な属国とはなんでしょう?近代の国際法では主権概念に触れずに属国を論じられるとは思いません。また主権の欠如態であるからという理由で私があげているのは「清・朝鮮=近代的な宗属関係」の場合で、「冊封関係≠近代的な宗属関係」においては冊封関係には基本的に主権概念という視点が存在しないから成立形態としては別種であるということは述べています。そのうえで理念上の冊封関係に主権概念を照らし合わせれば、主権を制限されていると思われる関係を指摘できると述べています。それで、Dokutouさんのいう近代的な属国とは何ですか?まさか「近代的な支配-被支配の権力関係、搾取-被搾取の経済関係」(これは帝国主義、植民地政策などと呼ばれるべきですよね。つまり「冊封関係=帝国主義」ではないということを言いたいのでしょう)が近代的な宗属関係であると考えているわけではないと思いますが。


「「前近代のアジアには歴史的に形成された朝貢体制があった。それは朝貢国の君主が中国皇帝からその国の国王であることを認知されて冊封を受け、中国皇帝に臣属し、朝貢をおこなうことを基本形態としている。・・・中略・・・ここでいう朝貢体制はもっとふくらみをもった多元的な体系である。アジア的世界の国際秩序の外交・交易原理として作用し、それぞれの民族や国家が独自性を保持しつつ、相互にその存在を認めあう共存の体制である。・・・中略・・・それは近代的な支配-被支配の権力関係、搾取-被搾取の経済関係とは次元を異にする」海野福寿『韓国併合』8頁 、「東アジア国際社会における特徴は、中国を中心とする中華観念-華夷秩序、事大-朝貢・冊封体制の支配的傾向にもかかわらず、一般的に事大-朝貢・冊封体制が維持される限り、中国の朝貢・冊封国に対する直接的支配関係は成立しなかった」朴忠錫「韓国近代史における国際関係観念-伝統的な存在様式の変容過程を中心に」(日韓共同研究叢書11、2005)」について。「旧来の清と朝鮮の宗属関係は、仁川口華商民地界章程のような新たな清の帝国主義的な利権を含みながら条約関係へと改編されていった。ちなみに、中国と周辺諸国との冊封体制(宗属関係)は、宗主国中国と属国のそれぞれの事情とこれらの国を取り巻く国際条件によって異なり、決して一定のものではない。宗主国中国にとっては冊封体制は自国の安全保障の維持が主要であり、この観点から体制の構築が図られている。したがって属国の自主が常に保証されていると言うものではない」と原田は述べています。冊封関係が決して一定の関係性において捉えられるものでないことは、堀・金子・西嶋・李・原田にいたるまで共通しています。また「万国公法は、批評者が主張するように強者の利益を擁護する面も持っていたが、それとともに上下関係的な前近代の国家関係を解体し、国家平等論に基づく国際関係を促進する面も持っていた。つまり、万国公法は国家平等論に基づく国際関係の促進と、強国の論理による国際社会支配という両側面を同時的に持っていた。」と原田が述べていることは、「それは近代的な支配-被支配の権力関係、搾取-被搾取の経済関係」という見方だけで近代的な国際関係を規定するのに否定的といえるでしょう。また私自身は冊封関係と近代国際関係が「次元を異にする」ことに全く同感なので、海野についてはどうしてこれをもってこられたのか疑問です。「宗主国と属国は上下関係にあったが、属国間は基本的に対等で、交隣関係と称した。したがって冊封体制下の国家関係は、国家平等論に基づく近代的な国家関係とは異なっている。」と原田が述べているのは、近代国際法と冊封関係の構造上の違いを述べているだけであって、そこで使われた「属国」という用語が近代的な用法とは異なるということを述べているのではありません。それは以下の部分で判ります。


1)批評者(金度亨氏)の指摘は、要するに朝鮮は中国(清)の属国ではないというものである。その論理は次の2つから成っている。
①「西洋の論理と用語」では「東アジアの中世的国際秩序」は説明できない。
②兪吉濬が朝貢国と属国とを区分し、斥邪論者も朝貢国と附庸国とに区分している。
まず、①について。批評者が②で挙げている兪吉濬の主張について、私は1979年に言及している(拙著『朝鮮の開国と近代化』、渓水社、広島、1997、325-326頁)。彼のこの主張は『西遊見聞』(交詢社、東京、1895)「第3編邦国の権利」(85-99頁)で展開されている。ちなみに『西遊見聞』は福沢諭吉の『西洋事情』(1866-70)の影響を大きく受けている。
兪吉濬は清からの独立と近代化を目指す開化派に属し、その立場から贈貢国と属国とを区別し、清に対し朝鮮は贈貢国であるが属国ではないと主張した。贈貢国と属国とを区別する時、兪吉濬は近代国際法に依拠している。斥邪論者も同様である。したがって兪吉濬は近代国際法という「西洋の論理」を用いたのである。また彼が贈貢国と属国とを区別する時、その「贈貢国」と「属国」は漢訳された近代国際法の用語であり、漢字語ではあっても「西洋の用語」なのである。したがって、①は事実に反すると言える。
②について。伝統的に中国の朝貢国は属国、藩属国、服属国、贈貢国、屏藩、藩屏などと様々に表現されていたのを、近代国際法の訳語に在来の漢語を適宜当てたため、本来は共通の意味を持っていたものが異なる意味を持たされる事態が生まれた。だから兪吉濬が漢訳の近代国際法に依拠して贈貢国(朝貢国)と属国とを区分したからと言って、それらが本来的に異なるものだと言うことはできない。それ故②は贈貢国(朝貢国)と属国を区分する決定的なものとは言えない。
以上から上記の①②は合理的ではなく、これらに基づく批評者の意見には疑問である。


「属国」は近代的な意味と冊封関係的意味の両方を内包し、両者に共通して使用されているものと原田が述べているのはおわかりでしょうか。金の批評の「朝貢国」(冊封関係的属国)と「属国」(近代的属国)を区分すべきという見方に対して、論じられた部分であることから明らかです。また「壬午軍乱以後に前近代的な「従属関係」を近代的な形態の属国、属邦、つまり植民地にしようと画策していた。」と金は述べていますが、植民地だけが属国であるわけではないので、列強による植民地化を近代的な宗属関係の形成であると捉えることは正しくありません。
フェアバンクについて。「「冊封」記事との関連性を問題にしている」と述べていますが、その「冊封」記事では冊封体制学説を説明しているのですよね。」とありますが、私自身は冊封体制についての記事ではなくて、冊封関係に関する記事だと述べています。フェアバンクは朝貢の結果として「冊封・回賜」がおこなわれると述べるのみで、冊封自体を分析的に解明していませんし(これは浜下も同様)、冊封体制論(あるいはその反論、変異説)としてあげるのには反対です。「浜下氏も冊封について言及した研究がある」とおっしゃりますが、用語としての冊封が出てくるから取り上げるべきというような意味であれば、それこそ詭弁というべきでしょう。冊封と朝貢が異なることをDokutouさん自身が認めていらっしゃるのに、両者に関連性があるとはいえ、朝貢の分析理論と冊封の分析理論を一緒くたにしてしまっているDokutouさんの見解には疑問を覚えます。新しく両学説の記事でも作られて、関連項目にしてはいかがですか。私は基本的に学術用語としての「冊封」記事から学説としての「冊封体制論」も分離されるべきだという姿勢にあります。
浜下説について。なぜ朝貢あるいは東アジア史に記載せずにこちらに記載されるべきだと考えてらっしゃるのか理解できません。フェアバンクについても同様です。
「たとえば正朔についてなど、暦についての研究を数種当たれば、私が引用したような義務だとしていることは書いてある。」とありますが、暦法関係の文献もいくつか当たりましたが、被冊封国の国内的な規定を論じているものはありません。また私は全ての段階において「正朔を義務でない」と述べているのではなく、外交次元では相手国が中国であるから義務としてみてかまわないでしょうが、それを国内体制にまで拡大して見るのは適切ではないと述べています。またDokutouさんは「中国研究の常識中常識」などとおっしゃっておられますが、この常識とは「通説」と同じような意味でしょうか。学問的な話題であまり常識という言葉は聞きません。--Kanbun 2006年8月9日 (水) 06:27 (UTC)

インデント戻します。さて、私自身週末からまた旅行の予定がありますので、議論を長引かせるのもよくないと思い、また論点もほぼ出尽くしたと思いますので、整理をしてお互いの妥協点を見出してはどうかと思います。

具体的には、冊封関係での属国と近代国際法での属国が異なるかどうかについては、主に韓国を中心に冊封関係での宗属関係と近代的なそれとは異なるという見方がある一方、冊封関係内での宗属関係が近代国際法上の概念と異ならないケースがとくに朝鮮の場合に成立しているという見方があるようですので、両論併記がよろしいかと思います。

正朔と朝貢については、中国側の主観では両方を義務としていたと記述した上で、朝貢については一般に朝貢→冊封という形でおこなわれることを記し、正朔については中国側は理念上これを貫徹しようとしたようであるが、実際には朝鮮の場合を除いて、日本・ヴェトナムが冊封体制下にありながらも独自の元号を制定し、これを咎めることがおこなわれていないことから客観的に義務として成立していたとはいえないことを明記すべきと思います。

浜下については、Dokutouさんがそれほど情熱をもっておられるのでしたら、まあ記載してもかまわないんじゃないでしょうか。ただし朝貢において新たに朝貢体制についての言及が必要と思われますし、冊封体制と朝貢体制が現状においては異なる次元で成立していることは明記すべきでしょう。フェアバンクは中国の歴史など違う箇所に記載すべきと思います。フェアバンクを記載するよりは、私は金子の言説のほうが直接的に冊封体制に関わってくると思いますので、そちらのほうが尊重されるべきと思います。

ここらへんが妥協点だと思われますが、いかがでしょうか。--Kanbun 2006年8月10日 (木) 12:33 (UTC)

[編集] まとめに向けて2

いきなりで申し訳ないのですが、節を改めます。
今までに指摘された部分を荒くではありますが改め、批判に付いてもごく少量付け足しました。
ちょっとまだ考えがまとまらない状態で書いてしまったので、おそらく訂正されるべき所がありましょうが、ご指摘をお願いいたします。
現在、パソコンのご機嫌伺いをしながらの状態なのでまたしばらく返事が途切れることがあるかもしれませんが、ご容赦ください。らりた 2006年8月11日 (金) 13:27 (UTC)

とりあえず編集ありがとうございます。当方は議論の当事者ですので、論点に該当する箇所に直接手を加えることは編集合戦を招くかもと思い、記事の内容に合意点を見出すまでは慎重を期そうと思っています。らりたさんがとりあえず編集してくださったことは大変喜ばしい限りです。なお天下の記事のほうでヴェトナム・朝鮮の記述を追加しました。当記事にも関わりのある内容だと思いますし、至らない点も多いと思いますので、らりたさんのほうで気になることなどありましたら、率直に意見を述べてくださったり加筆してくださったりしていただけると幸いです。--Kanbun 2006年8月11日 (金) 13:42 (UTC)


参考までに冊封関係下の朝鮮を国際法上の主権概念に基づく「半独立国」として位置づけている事例を示しておきます。
「そして、和親条約を締結した以上は独立国とみなしうるとしたうえ、もしも「半属国」が第三国と意にそわない条約を結んだとしても、「管轄国若くは保護国は該条約締結の時に於て、其権理に付き抗論を為したるにあらざれば、之れに干渉することを得ず」といい、清国の干渉をしりぞけることができるのだと述べている。ただし、この議論は清国と朝鮮の特別な関係の存在を否定したものではない。井上が属国論を議題にすることを避けたのも、万国公法が必ずしも日本の主張に適合するものでなく、列国のなかで「万一清国に左袒するものある時は、以外之面倒を引起す」ことを恐れたからであった。井上は、17世紀前半の清による朝鮮征服の事例をあげ、「右征服之事蹟ある上は、朝鮮之事公法依り局外より平心に論じ候へば、朝鮮は公法之所謂半独立之邦にて、・・・貢属国にして外国交際にのみ、自主之権を有するものとなす事至当と存候」という。万国公法に照らして、宗主権を否認することはできないことを自認していたのであり、「今度之葛藤に付ては、専ら一直線に我が国之朝鮮における直裁之関係に支那之干渉を容れざる事をのみ主張」すべきであり、「朝鮮之半独立たるの理に依り、其交際上には自主之権ありて朝鮮自ら其責に任ずべく、我国は単純に条約第一条に拠り、朝鮮と直接に談判すべきの論理を主張」するのが「最も精確之議」だとしたのである。」(吉野誠「朝貢体系の崩壊と変質」)
「ボアソナードも、「一朝其自国の小弱にして、隣邦に抗敵するの難きを悟りたるにおいては、其最も信任する所の一国、若くは其最も恐怖する所の一国の保護を仰ぐこと一に其意の随ふ所にして、決して他邦の嘴を容るべき所に非ざるなり」といい、こうした関係に他国が干渉することは許されないのだとしている。このように、「朝鮮は各国と平等之約を為し、内治外交其自主に任じながら全く支那之属邦たり」という現実を前提とした」(同上)
以上は万国公法に基づけば朝鮮を「半独立国」と規定せざるを得ないことを日本の外交筋(井上毅、ボアソナードが検討した理論的根拠)が認め、日朝修好条規の「自主の邦」規定だけに基づいて清国の干渉を排除すべきだという議論の様子です。吉野は琉球の事例もあげ、ここでも慎重に清国が万国公法概念によって琉球を「半独立国」と主張してくることを警戒している様子を論じます。吉野は「江華島事件ののち日朝修好条規が結ばれ、明治政府は万国公法を前面にかかげて清国と朝鮮の宗属関係の解体をめざし」ながらも、一方で「公法が宗属関係を排除するわけでないことを充分に認識し」ていたと述べています。--Kanbun 2006年8月19日 (土) 14:06 (UTC)
なお同時期の興味深い事例としてはブルガリアの事例を挙げることができます。ベルリン会議の結果ブルガリアはオスマン帝国の朝貢国(属国)として主権(宗主権)はオスマン帝国にあると国際法上規定されましたが、実際にはロシアの影響下にあるのではないかと列強は考えていました(ただしロシアの意図に反してブルガリアはその後オーストリアに接近します)。ブルガリアは主権を制限されオスマン帝国の属国と位置づけられながらも、オスマン帝国からの独立を目指して活発に行動します。この場合ヨ-ロッパの勢力均衡も当然影響したと思われますが、トルコとブルガリアの宗属関係は「近代的な形態の属国、属邦、つまり植民地」(金)、「近代的な支配-被支配の権力関係、搾取-被搾取の経済関係」(海野)というのが「近代的な宗属関係」について述べるものであるとすれば、全く逆の事例といわざるを得ません。近代国際法上の宗属関係の規定が必ずしも植民地主義的・帝国主義的な関係に一律化されるわけではなく、さまざまな形態があったと見るべきでしょう。また以上の事例から贈貢国(朝貢国)と属国が区別され、朝貢国が近代国際法においては独立国であったとする考え方には疑問です。冊封関係と万国公法に構造上・理念上の相違がある以上宗主国と属国の関係、属国と属国との関係において異なる定義が存在することは確かであるとはいえ、原田が述べているように両者の間での宗属関係の定義自体が本質的に異なるものであったとは思えません。--Kanbun 2006年8月19日 (土) 14:20 (UTC)

[編集] 言語間リンク(zh:朝貢体系

 →Talk:朝貢 を確認して下さい。Amanatsu 2006年7月22日 (土) 19:56 (UTC)

[編集] 歴史歪曲者の二重基準について

「冊封国であることは属国であることの必要条件であるが十分条件ではない。朝鮮が冊封国離脱だけをもって独立国となったとする見解では、必然的に朝鮮が清の属国であったことになる。」を説明なしに削除しないように。これまでの言説と矛盾していますよ独島さん。Ji-ji 2006年7月23日 (日) 09:15 (UTC)

どうでもいいことですが、わたしは「獨頭」であって、「獨島」ではありませんよ。念のために付言しますが、由来は章炳麟です。知らなかったら、ここで検索してください。
それと何度も言うようですが、あなたの主張する事柄を裏づける研究を提示してください。矛盾しているようにみえるのは、Ji-jiさんのお考えがこのノートで会話している他の方々に追いついてないせいですよ。ここのノートを百回ほど読んで、ご自分の主張の根拠となる査読論文なり研究書を手間隙かけて探し出してください。ネットで簡単に探せるような国語辞典の一節を引いて自論を展開するような手抜きは、自らの怠慢を宣伝するようなものです。互いが根拠を示しあってから議論は始められるべきでしょう。以後、根拠の示されない会話はお相手できませんので悪しからず。--獨頭 2006年7月23日 (日) 09:41 (UTC)
よく読んでください。「これまでの言説と矛盾していますよ独島さん。」です。まずあなたが削除した一部「冊封国であることは属国であることの必要条件であるが十分条件ではない。」についてご意見を。あなたの言説と矛盾していませんね?Ji-ji 2006年7月24日 (月) 16:45 (UTC)

朝鮮が清の属国であったことは、歴史的に広く知られた事実であり獨頭の主張は何の説得力もありません--平田恵里香 2006年7月24日 (月) 13:12 (UTC)

アカウント作成後に初めてやったことが無期限ブロックされたユーザに類似した名称のアカウント作成と削除処理への妨害行為([1])であり、初投稿で恥ずかしげもなくブロック中アカウントの生まれ変わりだと述べている([2])、そんな人物が「荒らし」以外のなんでしょうか。そんな人が何を言っても説得力はありません。 -- NiKe 2006年7月24日 (月) 13:47 (UTC)

誰が言おうが正しい話は正しい、間違っている話は間違っている。全く無関係な話をここに持ち出す事自体NiKeの問題管理者たる所以でしょう。ここでなぜ冊封での3rrブロックを獨頭さんには適用せずわたしにだけ適用したか。わたしの利用者ページでは管理者NiKeが不当なレッテルテンプレ貼り付けで自ら3rr違反を犯しているにもかかわらずである。さらにもっと酷いのは、あなたはわたしとの編集合戦中にわたしを管理者権限でブロックしたしましたね。と言う事でここはノート:冊封であるからその議論に無関係なことは持ち出さないほうがいいでしょう? あなたの不当削除のように皆模倣しますよ問題管理者さん。Ji-ji 2006年7月24日 (月) 14:17 (UTC)

Ji-jiさんは、リバートされたのならば最低限ノートは読んで下さい。獨頭さんのように100回とは言いません1回で充分です。獨頭さんのリバートはノートでの合意事項に沿った編集なので3rr違反と見なされなかっただけです。--TEy 2006年7月24日 (月) 15:42 (UTC)

当事者から釈明がないのでユーザーNiKeとユーザーTEyを同一人物と見なさせていただきます。この項目の編集にも議論にも参加していないNiKeさん、わたしの編集内容について削除するという何らかの合意事項があったならその部分を示してください。ありますか?


「わたしの利用者ページでは管理者NiKeが不当なレッテルテンプレ貼り付けで自ら3rr違反を犯している」「さらにもっと酷いのは、あなたはわたしとの編集合戦中にわたしを管理者権限でブロックしたしましたね。」についての釈明もお待ちしています。Ji-ji 2006年7月24日 (月) 16:45 (UTC)

反論できないようですね。管理者の解任手続きの準備に入らせていただきます。Ji-ji 2006年7月25日 (火) 10:51 (UTC)

このノートで冊封に付いて言及したいならば、西嶋氏の論文くらいは最低限読んできてください。私が本記事で参考文献に挙げている本のうち、どれか一冊くらいはおそらく図書館にあると思いますので。それをしないで何を言っても相手するつもりないので。らりた 2006年7月25日 (火) 12:37 (UTC)

[編集] 保護理由

編集合戦。3RR。--Los688 2006年7月23日 (日) 10:23 (UTC) 微訂正。3rrは保護理由ではなくブロック理由という指摘により。ただし、編集合戦は保護要件。--Los688 2006年7月28日 (金) 11:24 (UTC)

[編集] 「現代の日本における冊封体制下と呼ばれる政治家」という節について

ここにある「現代の日本における冊封体制下」というのは「親中国的な政策を主張している政治家」というような意味なのでしょうか?またこの意味での「冊封体制」とはどのような定義がされるのでしょう?一部のマスコミで使われている用語なのかとも思いますが、これはどのような場面で使われ、どのようなコンセンサスを得て使用されるものなのでしょう?今のままではこの方々に対する単なる揶揄にしかならないような気がしますので、コメントアウトします。しばらくしても特に返答などないようでしたら、当該部分を削除しようと思います。--Kanbun 2006年9月4日 (月) 15:33 (UTC)

該当部分を除去いたしました。--Kanbun 2006年9月6日 (水) 08:29 (UTC)

[編集] 隋書 俀國

大業三年(607) 其王多利思北孤遣使朝貢。使者曰、聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜 兼沙門數十人來學佛法。
其國書曰、日出處天子致書日没處天子無恙云云
帝覽之不恱、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、勿復以聞。(『隋書』俀國)


十六年(608) 夏四月、小野臣妹子、至自大唐。々國號妹子臣曰蘇因高。
大唐使人裴世清・下客十二人、從妹子臣、至於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世清等。
爲唐客更造新館於難波高麗館之上。

すいません。知識がないもので 2回も連続で行って 上の表記は小野を指すんでしょうか?

その伝聞の国書は 本当にそう書いてあったんですか?

これ以外にあるのですか? --Lulusuke 2006年10月12日 (木) 10:18 (UTC)

これは冊封記事のどの部分について、あるいは冊封記事のどんな点に関しておっしゃっていられるのでしょう?「2回連続で行っ」たというのと、その「伝聞の国書」とは何のことですか?「これ以外にあるのですか?」というのも意味がつかめません。具体的におっしゃってください。--Kanbun 2006年10月12日 (木) 12:07 (UTC)
なお解釈を施せば、
大業三年(607) その王多利思北孤が使者を派遣して朝貢した。その使者がいうことには、「海西の菩薩天子は佛法を重んじよく興隆しているというので、入朝して拝見しようと遣わされてきました。僧侶を数十人連れてきたので仏法を学ばせたい。」とのこと。その国書には「日の出るところの天子が日が沈むところの天子に親書を送ります。ご健勝でいられますでしょうか……云々」とあった。皇帝はこれをご覧になると不快なご様子で、鴻臚卿に通達するところによれば、「蠻夷で無礼なことを書いてきたやつがいる。二度とそいつの書は上表しないように」とのこと。
十六年(608) 夏四月に、小野臣妹子が大唐より帰還した。大唐の使者、裴世清と下客十二人が妹子臣とともに、筑紫に来着した。唐国は妹子臣を蘇因高と呼んでいた(?)。吉士雄成を難波に派遣し、大唐客裴世清一行を迎えた。さらに唐の使者のために難波の高麗館の上に新しい館を建造した。
というような意味になるものと思われます。--Kanbun 2006年10月12日 (木) 12:48 (UTC)

はっきり言ってこのノートでする質問とも思えませんし、質問する前に調べてください。この日本語版ウィキペディア遣隋使の項に大体の答えが書かれてますよ。それくらい見てください。二回目の遣使の際には隋書に妹子とはかかれてませんが、日本書紀にはかかれてます。逆に「日出ずる処の~」は隋書のみで日本書紀にはありません。らりた 2006年10月12日 (木) 13:07 (UTC)

[編集] らりた様の挑発的な無言rrによる編集妨害について

歴史が気に入らないからと言って、事実を書くことを妨害し、リバート合戦による編集保護を狙うのはお止めください。 もし私が記述した以下の項目の中に、間違った記述があるのなら無言rrではなく、当ノートでの対話にてご指摘をお願いします。 誤った記述であると言う論拠が明確に提示されるのであれば、喜んで修正することを約束します。また、私の記述の根拠に対するご質問も受け付けます。

  • 清国はアヘン戦争での敗北により、条約体制に参加せざるを得なくなり、更にはベトナムの阮朝清仏戦争の結果、フランス植民地となる。この時点でも、未だに清朝はこれらを冊封国に対する恩恵として認識(あるいは曲解)していた。しかし、1895年日清戦争で日本に敗北し、日本は下関条約によって清朝最後の属国であった朝鮮を独立国と認めさせ、ついに冊封体制が完全に崩壊することとなった。

--ちとせ 2007年2月12日 (月) 12:57 (UTC)

論拠はこのノートにあります。過去ログも含めるとものすごく長いので全部を読めとは言いませんが、冊封国≠属国であるということは既に合意が取れています。李氏朝鮮が清の属国であったという論拠が示せるならば是非お願いします。らりた 2007年2月12日 (月) 13:10 (UTC)
補足。近代的な意味(国際法下)での属国とそれ以前の漢語としての属国があり、それは明確に区別されるべきです。上の冊封国≠属国の属国は前者、国際法下での属国です。清と李氏朝鮮の関係に付いて漢語としての「属国」という言葉は使用が不可とまでは言いませんが、冊封国という言葉を使わないで「属国」という言葉を使うのは恣意的なものを感じずにはいられません。少なくとも使いたいならば誤解を防ぐためにも説明を挟むべきであり、そのような手間を使わずとも冊封国を使えばすむ話です。らりた 2007年2月12日 (月) 13:17 (UTC)
横から補足。「属国」という漢字表記が同じでも、その意味するところは違うのは、歴史学の常識。また歴史学者だけでなく勢力均衡説で有名な国際政治学者ハンス・モーゲンソーも「朝鮮はその長い歴史の大半を独立国として存在してきた」(『国際政治』第五版、188頁)と明記し、近代的な属国ではないと認識している。「属国」ということばを使用するなら、そうしたことを本文なり、注なりで説明しないと読者に誤解を与えかねない。--218.221.0.177 2007年2月12日 (月) 13:26 (UTC)

一つだけ言わせてください。上の議論で私が確認したと思ったことは、

  1. 冊封体制と近代の条約体制が異なること
  2. 条約体制下での「属国」がそれほど明瞭に定義されないこと(朝貢国が属国とされることが多いようであるが、朝貢していれば「属国」というわけではない。あるいは植民地を「属国」であるとする見方がある)

です。 それで私が原田環と金度亨の説を検討してほぼ確認されたと思ったのは、

  1. 清の強い牽制下にあったとして、冊封体制下の朝鮮を「半独立国」(今日的な意味での「属国」)とする見方(原田環)
  2. 冊封体制は緩い関係であったとして、冊封体制下の朝鮮を「独立国」とする見方(金度亨)

があり、また

  1. 冊封体制と条約体制が異なるから、両体制では宗属関係の意味は異なるとする見方(金度亨)
  2. 冊封体制と条約体制が異なっていても、宗属関係自体の意味は同じであるとする見方(原田環)

がある、ということで、「『属国』という漢字表記が同じでも、その意味するところは違うのは、歴史学の常識。」というのは、上で言及されている原田環の所論とも異なります。私は以上のことから上の議論の最後で両論併記が望ましいと述べたわけです。原田が言うように、冊封体制と条約体制が異なるのはもちろんですが、だからといって、清と朝鮮の間に宗属関係がなかったといえるわけではありません。で、なにをいいたいかといいますと、「被冊封国」を近代的な意味での「属国」に含むことができるとする見方と「属国」に含むのは適切ではないとする見方があるようなので、記事内では「属国」という表記を避け、「冊封国」あるいは「被冊封国」と表記するのが一番無難であると考えているという次第です。--Kanbun 2007年2月12日 (月) 14:15 (UTC)

冊封国≠属国であるということは既に合意が取れています。はい。そのとおりですね。しかし、それは朝鮮が清の属国であったかどうかとは関係がありません。ここでの記述は、現在の国際法における、属国の解釈ではなく、過去の世界における認識が重要視されるでしょう。例えば日本が現在の観点で中国の朝貢国では無いからと言って、過去にも朝貢国だったかそうでなかったかとは、全く関係の無いことです。

まず、清朝では、どう認識していたか。過去のノートにもありますが、『清史稿』属国伝において、属国の一と認識されております。機会があれば是非、『清史稿』属国伝の原文をご参照ください。次にあえて現代の国際法からの観点で申し上げますと、属国とは、国家の持つ主権の一部が他国にあり、制限されている国と定義できます。例えば一例ですが、朝鮮が自主的な外交を行う権限を持っていたかといえば、実際は清の許可無く外交を行うことはできなかったわけです。これは属国とは言えないわけですか?

それでは、日本ではどう認識していたか。日清戦争の「清国ニ対スル宣戦ノ詔勅」において、「朝鮮は日本と日朝修好条規を締結して開国した独立の一国である。それにもかかわらず、清国は朝鮮を属邦と称して、内政干渉し、朝鮮を救うとの名目で出兵した」とあるとおり、日本においても清朝は朝鮮を属国とみなしていたのは常識であるわけです。

「朝鮮はその長い歴史の大半を独立国として存在してきた」がいつの時代を指すのかは明らかではありませんが、清朝末期において独立国であったとの根拠にはならないと思います。

お伺いいたしますが、218.221.0.177様のおっしゃる「近代的な属国」や、らりた様のおっしゃる「近代的な意味の属国」とはいかなる定義なのでしょう?その定義に該当しなければ、過去に属国と称された国も、属国ではなかったと言わなければなければならないのですか?

--ちとせ 2007年2月12日 (月) 14:29 (UTC)

えっと、「清朝末期において独立国であった」かどうかは確定的ではない事柄であると思います。上の原田環と金度亨に即して言えば、原田は「独立国とは言えない」、金は「独立国である」となり、上の議論でさまざま引用した同時代の日本人や朝鮮人のものを見ましても、一概にどちらだと結論づけるのは適当ではなさそうです。ので、朝鮮が清の属国であったかどうかは「事実かどうか不明」ですが、朝鮮が清の被冊封国であったことは「事実」ですので、事実に即した表現にすればよいのではないでしょうか。より正確に言いますと、前近代のどのような国が条約体制の「半独立国」に当たるかは明確ではないので、「被冊封国」を一括りに近代的な意味での「属国」にすることもできませんし、そこは実情を研究して判然とさせるわけですが、既存の研究は「独立国」とするものと「半独立国」とするものがそれぞれあり、どっちかに決着しているようにも見えないと言うことです(「冊封体制」が「条約体制」と異なっているという点だけは諸家一致しています)。ので、ウィキペディアとしてはこの場合、「被冊封国」は「属国」であるとする見解とそうでないとする見解があるという立場を取るのが「中立的」ではないでしょうか。またノートで提案する際は「らりた様の挑発的な無言rrによる編集妨害について」というような節名は避けて、「朝鮮は清の属国であるか否か」とかもっと議題自体に忠実な内容にしていただけると幸いです。--Kanbun 2007年2月12日 (月) 14:38 (UTC)
どうもKanbunさん、言葉足らずでご迷惑をかけたようです。清末期の李氏朝鮮が国際法の定める所の独立国かどうかは議論がある所でしょう。少なくとも現時点で結論は出ていないと思われます。そうするとこれに関して書こうとするならば両論併記でその議論に付いて字数を裂かないといけない訳ですが、それはどちらかといえば李氏朝鮮の項目で記述すべきことだと思います。この冊封の記事に於いてはそのことに関してはあまり突っ込まない記述で良いと思います。私としては現在の記述ならば何も問題はありません。らりた 2007年2月13日 (火) 09:20 (UTC)
迷惑なんてとんでもないです。ちょっと物騒な節名であったので、必要以上に険悪な雰囲気にならなければよいと思い、少し出過ぎました。ここで属国と被冊封国の比較について記述するのはおそらく難しいであろう事は、私も全く同意見です。上のことから「冊封国≠属国」ということで合意が過去になされた経緯と理由についても、ちとせさんの納得が得られるのではと思いますし、ともかく「冊封体制≠条約体制」なので、一概に近代的な意味での属国と同じように捉えるのは早計であるということをご理解いただけたのではと思います。私自身は属国に関する両論併記については、記事のスタンスの問題と考えております。つまり、それを記述しなければいけないと言うのではなくて、記事の立場として被冊封国と属国が違うかどうかについては両論あるのだという立場を維持すべきというものです。これはらりたさんとも共通の立場ではないかな、と考えています。したがって、この記事内では、「被冊封国」は「属国」とせずに記述しておくのが無難であると思っている旨、上で述べたとおりです。--Kanbun 2007年2月13日 (火) 12:09 (UTC)
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