羈縻政策
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羈縻政策(きびせいさく)とは中国の唐王朝によっておこなわれた周辺民族統治政策。唐に融和的な国王・酋長を選んで、都督・刺史・県令などに任じ、彼らがもともと有していた統治権を唐の官吏であるという名目で行使させた。このような羈縻政策が適用された地域を羈縻州という。したがって羈縻州の長官は唐に対しては一地方官吏であり、部族内部から見れば王または酋長であった。一般に冊封と対比されているが、歴史的には冊封と対立しておこなわれたのではない。羈縻の「羈」とは馬のおもがい、「縻」とは牛の鼻縄でつなぎとめる意である。
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[編集] 歴史的展開
羈縻州は初期には辺境の都督府が管掌し、漢人官僚の下に酋長など辺外部族の有力者が組織されたが、領域が広がるにしたがって新たに都護府が設けられ、これによって統括されるようになった。都護府では長官である都護をはじめ主要な職員はすべて漢人あるいは漢化した異民族が当てられた。これらの都護府はほとんど太宗・高宗の時代に置かれた。
[編集] 都護府の場所と、それぞれの役割
都護府とは、辺境警備や占領政策のための軍事機関である。
- 安西 - 640年設置。シルクロードの天山南路の守備。
- 安北 - 647年設置。外モンゴル支配。
- 単于 - 650年設置。内モンゴル支配。
- 安東 - 668年設置。朝鮮北部・満州支配。
- 安南 - 679年設置。ベトナム・その他の南海諸国支配。
- 北庭 - 701年設置。天山北路の守備。
[編集] 中国史における役割
20世紀前半の中国史では唐の世界政策を羈縻政策に則ったものとする見方が有力であったが、西嶋定生が冊封に注目した東アジア世界論(冊封体制論[1])を提唱してからは、冊封体制に重点が移された。とはいえ、羈縻政策と冊封は必ずしも対立するものではなく、渤海王が忽汗州都督として羈縻政策に組み込まれているように補完的な関係も見出される。また突厥の可汗についても唐(隋)と突厥に父子(舅婿)関係や君臣関係があったとし、冊封関係を適用する見方から、『新唐書』「太宗紀」に太宗が「天可汗」と号したとあることから突厥はこのときすでに冊封関係から羈縻支配に移行していたとみる説もある。
ひろく府兵制などと羈縻政策を関連付ける見方から、羈縻政策を冊封と直接支配の中間に過ぎず、羈縻政策の後退によって冊封関係が主流となったとする見方などが存在し、羈縻政策についての評価は必ずしも一定ではない。