写真植字機
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写真植字機 (しゃしんしょくじき)は、写真の技術を利用して印画紙などに文字を印字して組版を行い、印刷用の版下を作る装置。写植機と通称される。光を使って版下を作るタイプライターとでもいうべきコンセプトで作られている。
ここでは手動写植機について扱い、電算写植は別記事を参照されたい。
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[編集] 開発
写真植字機は、石井茂吉と森澤信夫という二人の日本人によって実用化された。なお、この二人が出会ったのが星製薬(星新一の父である星一が経営、のちに星新一も関わっている)である。その着想以外、すなわち技術の面においてはすべて日本人の手になる(技術の輸入ではない)発明である。
1924年にプロトタイプが完成、特許申請し、翌1925年に特許が成立。1929年に世界で初めて実用機が完成した。 開発にあたっては、石井が写植文字の文字盤を、森澤が装置部分の開発を主に担当したとされる。当初は活字の字形をそのまま流用していたが、のちに平版オフセット印刷の特性を考慮した、いわゆる写植文字の開発・改良がなされていく。この二人は後にそれぞれ写研とモリサワという、業界をリードする2大企業を設立し、引っ張っていくことになる。
英語ではPhotoTypeSetttingMachineといい、第二次世界大戦後に英語圏でも独自に実用化されたが、日本メーカーによる手動写植機がそれぞれの言語向けに開発され、輸出された。
[編集] 構造
機械装置としての写真植字機は、
などで構成される。
光源ランプからの光が、左右が反対の文字部分のみが透明になったガラス製の文字盤、級数レンズ、変形レンズの順で通り、オペレータ正面右のハンドルを押し下げる事で、文字盤が固定しシャッターが切られ、暗箱に入った印画紙に植字される仕組みである。ただし、ファインダーを開いている時は、シャッターを切っても暗箱まで光が届かない構造になっている。(ファインダーは空打ちをする場合、そして形が複雑で文字盤の目視だけでは正しい文字を拾えてるかの確認が困難な場合に使用される)
一文字植字するごとに、点字板に水性マーカー等で、植字した場所に点字が打たれる。点字の大きさは文字サイズ変更でも変わる事はない。新しい機種になるとCRT画面搭載により、文字の実画像でのレイアウト表示が可能になっている。
光源の明るさは、印画紙の種類や文字の形状によって可変させる。白抜き用の印画紙を入れる事で黒地に白抜きでの植字が可能になるが、白抜き用の印画紙使用の場合は、光源の明るさを大幅に上げ、複数回シャッターを切る事で植字する。また、ゴナUなどの様に極太ウェイトの文字を拾う場合、光源が明るすぎるとハレーションを起こし、文字がにじんでしまう事もある為、足下のペダル操作で一時的に光源を落として植字をする場合もある。
印画紙に感光させる事で植字する為、植字作業が終わると暗室で現像作業をする必要がある。現像は自動現像機で行う事が多いが、予算的に自動現像機が購入出来ない場合や、厳密な濃度管理が要求される仕事の場合は、手現像で行われる事もある。
[編集] 級数制
写植における文字サイズは級数、行間は歯数で指定された。歯というのは、送り装置の歯車一つ分の移動、に由来する。この級数制は、その後の電算写植やDTPの時代にも受け継がれていくこととなる。1級は0.25mmであり、Q(QとはQuarter、つまり1/4mmということ)と略記した。1歯=1級で、Hと略記した。級と歯は同一だが、文字サイズについてのみ級を、長さについてのみ歯を用いるため、混同が少ないという利点がある。また、通常のメートル制の定規があれば、4文字分の長さを測って(ミリメートルの)目盛りを読めば、それが文字の級数となる、という使い方もできる。(ポイント活字、号数活字も参照)
[編集] 写植文字
文字のサイズごとに違う活字を用意せねばならなかった活版印刷では、漢字のように字数の多い言語の組版を行う場合、一書体あたりの専有面積が大きく、また開発や保有コストが高くなってしまう。そのため活版印刷の時代では、たいていの印刷所では明朝体とゴシック体ぐらいしか備えていなかった。
写真植字においては、一つの文字盤からあらゆるサイズの文字が出力できるため、欧文組版のように、多彩な書体を用意することが可能になった。本文用の文字を大きく拡大して使うと痩せて見えたり、逆に縮小するとつぶれてしまうことから、さまざまな太さ(ウェイト)の書体が追加設計された。ウェイトの考えは欧文においては活字時代から存在したが、和文では写植の登場によって実現したと言える。活字時代は、それぞれの文字サイズに合わせたデザインがなされており、それは現代で言うウェイト/ファミリー構成ではなく、明らかに骨格を異にする別書体であった。現在ではモリサワが、かつての秀英舎の明朝体の3号活字・5号活字をDTP用フォントとして復刻しているのでそれを参照すると、違いが分かる。(モリサワの復刻書体は、3号・5号それぞれの明朝を整理して、ウェイト別のファミリー構造にしている)
日本のタイプフェイスデザインは、手動写植全盛時代に大きな発展を遂げ、現在もその流れの延長上にある。文字盤は写植の命とも言える部分で、非常に高価であった。各メーカーは、自社の文字盤を他社製写真植字機で使用するのを禁じている例が多かったが、実際には複数の会社からリリースされている書体が混植されている印刷物も多かった。文字盤の形状を他社と変えることで互換性が無いようにしてあるとき、載せたい機械よりも小さい場合にはそのまま載せたり、文字盤に補助フレームを取り付けたりして対応できた。また逆に大きすぎる場合には、文字盤を細工していた例もあるという。
[編集] 特徴
活版と異なり、レンズを使って自由に文字を拡大縮小あるいは変形レンズにより長体や平体そして斜体などに変化させることができたことや、多彩な書体が使用できたことなどから、組版の自由度が飛躍的に上昇した。また、活版の設備に比して場所を取らず、習熟に必要な期間も短く、また低コストで導入することができた。
それでも、初期の写植機は、印字する度に打ち込まれる点字で大まかなレイアウトを確認しながらの作業である為写植オペレータの経験や勘に頼る所も大きく、打ち終えた印画紙を現像するまでは正確な仕上がりは分からなかった。その為、現在のDTP組版と比べた時、仕上がり品質はオペレータの質に左右される部分が大きかった。
また先述の通り、変形レンズを使用する事で長体・平体・斜体の変形が自由に行える様になったが、斜体の場合、右上がり又は左上がりに印字されていた為、ライン合わせと言う斜め方向への印字をしていかなければならなかった。その為、斜体を機械で混植する事が出来ず、斜体部分だけを別の場所にバラ打ちをしておいて、版下手作業に於いて斜体部分を貼り込んでいくと言う作業が必要だった。
だが時代が進むにつれ、制御が機械工学的なものから徐々にマイコン制御に代わることで、詰め打ち用文字盤と併せて字送りを自動制御出来る様になり、回転レンズの搭載で斜体の混植も可能になり、さらにその後のCRT搭載機の登場により、ほぼ正確なレイアウトを目で確認しながら作業出来る様になった。 一番新しい機種では、斜め組や円組の混植も可能で、かなり複雑な版下も一枚の印画紙の中で組む事が出来る。
文字のサイズは当初、あらかじめ定められた倍率にしか指定できなかったが、JQレンズの登場によって中間の値を指定できるようになり、デザイナーの要望に応えられるようになった。
写植機の操作は版下の作成に直結するので、平版オフセット印刷工程において工数の減少につながった。しかし一方、文字の訂正が必要な場合、版下を薄く切り取って貼り替えるという作業が必要になり、行単位で少しずつずれるような場合には大変な労力を必要とした。ただしこの欠点はデータの状態で組版結果を保存することで訂正を容易にする電算写植において解消された。
DTPに完全に駆逐されたかに見える技術だが、現在でも一部では手動写植機が現役で活動している。