出口辰夫
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出口辰夫(でぐち たつお 大正12年(1923年)-昭和30年(1955年)1月30日)は、昭和20年代に活躍した「横浜愚連隊四天王(出口辰夫・吉水金吾・井上喜人・林喜一郎)」のひとり。宮崎県西諸県郡飯野町(現:宮崎県えびの市)出身。実家は農家で、5人兄弟の四男だった。初期の稲川会と深い関係を築いた。
昭和13年(1938年)加久藤尋常小学校高等科二年を卒業。卒業後、すぐ上の兄とともに、横浜市鶴見区潮田に住む次兄夫婦のもとに預けられた。出口辰夫は、ここで夜学の工業高校に進学した。まもなく、川崎の「薄田拳闘クラブ」に通い、本格的にボクシングを始めた。このころから、喧嘩三昧の生活を送るようになり、愚連隊の世界に入っていった。 横浜で売り出し中のころ、井上喜人と知り合い、兄弟分となった。 太平洋戦争中に、召集令状が届くが、肺浸潤により兵役不合格となった。このころから、出口辰夫は肺結核を患っており、痛みを紛らわせるために、ヘロインを常用していたと云われている。
昭和21年(1946年)、恐喝事件により、井上喜人とともに横浜刑務所に収監された。翌年には出所。出所後、出口辰夫は賭場荒らしに明け暮れ、これをシノギとした。このころ、塚越辰雄を舎弟とした。 横浜の愚連隊で一大勢力となったころ、吉水金吾と知り合い、兄弟分となった。吉水金吾の紹介で、林喜一郎と知り合い、兄弟分となった。
昭和23年(1948年)、前橋刑務所から出所した井上喜人とともに、神奈川県湯原温泉を訪れた。この際に、稲川聖城と知り合い、井上喜人とともに若衆となった。
昭和24年(1949年)、吉水金吾と林喜一郎も稲川聖城の若衆となり、出口辰夫と井上喜人と吉水金吾と林喜一郎は、「横浜愚連隊四天王」として、初期の稲川会の勢力拡大に尽力した。
「モロッコの辰」の通り名で知られたが、近年その生涯は実録小説やVシネマで広く知られることとなった。
なお、野村秋介は若年のころ、出口辰夫の舎弟であった。
[編集] 参考資料
- 三枝 豪『モロッコの辰―横浜愚連隊物語』大陸書房、1990年、ISBN 4-47976-037-7
- 山平重樹『愚連隊列伝 モロッコの辰』幻冬舎<アウトロー文庫>、1996年、ISBN 4-87728-681-0
- 『愚連隊伝説』洋泉社、1999年、ISBN 4-89691-408-2
- 『Morocco 横浜愚連隊物語』(和泉聖治監督、柳葉敏郎主演 1996年)
- 『Morocco 横浜愚連隊物語2』(和泉聖治監督、柳葉敏郎主演 1996年)