利根運河
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
利根運河(とねうんが)は、利根川と江戸川をつなぎ、千葉県柏市、流山市、野田市を流れる人工河川。
目次 |
[編集] 地理
柏市船戸において利根川と接し、そこから野田市の市境におおむね沿って柏市大青田・野田市上三ヶ尾の境界まで流れる。その後は流山市東深井から、やはり流山市と野田市の市境におおむね沿っている。流山市深井新田で江戸川と接する。延長約8キロメートルで、建設当時の川幅は約18メートル、水深は1.6メートルであった。
両河川には水位差があったため、江戸川側には閘門が設けられており、長らく遺構が残されていたが、導水路として再整備された際に撤去された。
[編集] 歴史
水害防止などを目的として江戸時代初期に行われた利根川東遷事業などの河川工事により、関東地方の川筋が大きく変えられ、利根川は関宿で、銚子にいたる現利根川と、東京湾にいたる現江戸川とに分流された。この結果、東北地方の太平洋岸と江戸を結ぶ水運のルートとして、房総半島をまわるルートのほかに、銚子から利根川にはいって遡り関宿を経由して江戸川を下る、というルートが開拓された。このルートには、一部に浅瀬があって大型船が通行できず積み替えが必要だったこと、距離が長かったことなどの理由から、関宿まで遡らずに、途中を陸路でショートカットする場合があった。
明治時代になり、貨物の輸送量が増えたことから、この陸路でのショートカットの部分に運河を開削するという計画が立てられた。調査にあたったのは、1873年に来日したオランダ人の土木技術者のヨハニス・デ・レーケである。この計画は公的事業としては採択されなかったため、民間企業として建設すべく利根運河株式会社が設立され、結局1888年に着工され1890年に完成した。工事を監督したのは、1879年に来日したオランダ人技術者のアントニー・ムルデル(Anthonie Thomas Lubertus Rouwenhorst Mulder)である(ムルデルの顕彰碑が、運河駅近傍の利根運河水辺公園に設置されている)。なお、この計画は、単に利根川と江戸川を結ぶということだけではなく、茨城県沖の鹿島灘をショートカットする内陸水路の建設とも連携し、太平洋岸の水運を一気に改善しようという壮大な計画の一環であった。
開通直後には一日平均百隻を上回る輸送実績をあげたが、鉄道の敷設が進むにつれて貨物輸送は水運から鉄道へと移行し、先細りとなった。最盛期は、開通から1910年頃までのわずか20年間程度であったとされる。通過貨物の減少に伴い、1944年には水運用の運河としての使命を終えた。また、この水運廃止に先立ち、1941年には利根運河は国有化されている。
1975年に、首都圏の水需要をまかなうために利根川から江戸川へ導水するための利根川広域導水事業が開始され、その導水ルートのひとつ・野田緊急暫定導水路として利根運河が再利用されることとなった。この際、それまでは500m程下流にあった利根川との接続点を現在の場所に移動し、入口に野田導水機場を設けたため、利根川の水が自然に流入することはなくなった。北千葉導水路が完成し導水としての役目を終えた現在では、親水公園の整備などが行われている。
[編集] 環境
過去の経緯から、現在の水量の割には土手が広大。特に東京理科大学キャンパスの最寄り駅となる運河駅付近は整備も進み、春には見事な桜並木を見ることができる。
[編集] 関連項目
- 運河駅 - 駅名は利根運河に由来する。