刺史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
刺史(しし)とは中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。
刺史は前漢武帝が紀元前106年に全国に十三州を設置したのと同時に設置された。元々、州の設置理由は現地の官僚が豪族や商人たちと密着し、その犯罪を見過ごすことが多発したためにそれを監察するためのものであり、刺史も純然たる監察官であった。その俸禄は監察される側の郡守(郡長官)が二千石なのに対して、六百石と低く、その権限も郡守に比べてはるかに小さかった。これでは不都合であると元帝の紀元前8年に二千石に改められて郡守と同格になり、牧(ぼく)と改称され、州が最高行政単位となり、牧は州の行政権に介入するようになる。以後名称は刺史と牧の間で何度も変わる。
後漢に入った42年、それまでの刺史はこれといった中心地を持たず領内を回って監察を行っていたものを州の中に治所を持つようになり、更にその治所の周辺の地域の行政権を完全に握るようになった。
更に社会不安が醸成され、各地で反乱が起きるようになる霊帝期に入ると、刺史に対して軍権も与えるようになり、州牧と称されるようになる。これ以降は完全な地方に於ける最高行政の役職となった。『三国志』の群雄たちはほとんどがこの州牧を経験している。名前が変わっても刺史と言う呼び名もまだ使われており、混同されることも多い。より強い権限を与える時に牧に任命するというように使い分けられており、牧が刺史より格上とははっきり認識されていた。三国時代では、蜀漢の諸葛亮、呉の陸遜などの有力者が州牧を務めた(丞相などと兼務)他は、多くは州刺史に任命されていた。
魏晋南北朝時代では将軍が刺史を兼ねて地方に割拠するようになるが、この間に行政区分がどんどんと細分化されるようになり、それに伴い刺史の権限も低下していった。
隋に入り、南北を統一した文帝はそれまでの州・郡・県の三段階の地方制度を州・県の二段階とし、増えすぎた行政単位を300州・1500県に整理した。更に刺史の軍権を都督府に吸収させて刺史はかつての郡守と変わらない立場になった。
五代の戦乱時では刺史が兵力を握って自立することもあったが、北宋代に入ると代わって知州が州の長官となり、刺史は名称のみを残されて実態は消滅した。