前期チャールキヤ朝
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バーダーミのチャールキヤ朝(Badami Chalukyas;前期チャールキヤ朝)は、6世紀の中葉(543年頃)-755年にインド、西部デカン地方を中心に支配した王朝。
[編集] 歴史
543年頃に、プラケーシン1世(位543年頃~66年)が、カルナータカ州の北部バーダーミ(古くは、ヴァーダーピVādāpīと呼ばれた。)に自立したことに始まる。彼の2人の子、キールティヴァルマン1世(位566/7年~97/8年)とマンガレーシャ(位597/8年~609年)は、近隣の勢力との争いに打ち勝って領域を拡大した。
609年頃、キールティヴァルマン1世の子、プラケーシン2世(位609年~42年)は、叔父のマンガレーシャを殺して即位し、国内の内乱を鎮圧し、祖父の時代まで旧主であったカダンバ朝の都、ヴァナーヴァーシを陥落させて屈服させ、北方は、グジャラートやマールワ地方にまで勢力を伸ばし、当時北インドの覇者であったヴァルダナ朝の英主ハルシャ・ヴァルダナをナルマダー河畔で打ち破ってその南進を阻止した。さらに、東方に勢力を伸ばし、アーンドラ地方(現アーンドラプラデーシュ)を征服して、弟のヴィシュヌヴァルダナ1世(位624~41)にヴェンギ周辺の東部アーンドラ地方を治めさせた(東チャールキヤ朝の祖)。
次に、南方の強国、パラヴァ朝のマーヘンドラヴァルマン1世と争って、これに打ち勝ち、その北方の地を併合した。ササン朝ペルシャのホスロー2世との間に使節や贈物の交換をするなど外交も行ったらしい。あるいは、北インドの勢力に対抗する意味もあったと思われる。641年、プラケーシン2世の治世にこの地を訪れた玄奘は、『大唐西域記』に、「土地は肥沃で、農業が発展し、家臣は勇敢で主君に忠誠をつくした。戦闘の折には、配下の兵士や象を率いる将軍が決戦の前に、宴を催し、兵士に酒を飲ませて勇を鼓舞した。当時の習慣でもあった阿片も吸った兵士たちは、勇敢な象に乗って突進した。敵に後れをとって敗れるようなことがあると、王は、全軍の前で、士官に女性の服を着せる罰を与えた。」と記録しているという。当時は、百戦錬磨を自認する兵士たちにとって、女性の衣服を着せられることは、死刑以上の不名誉、屈辱と考えられていた。プラケーシン2世の支配は、ほぼ全デカンに及んだ。しかし、晩年、復讐戦に燃えるパラヴァのマーヘンドラヴァルマンの子、ナラシムハヴァルマン1世と戦って、ヴァーダーミは破壊され、プラケーシン2世は、敗死した。
しかし、プラケーシンの子、ヴィクラマディーティヤ1世(位654/5年~81年)は、パラヴァの勢力を追い払って、一時は、滅亡の危機に瀕した王朝を再興した。第7代のヴィジャヤディーティヤ(位696年~733/4年)の治世は、もっとも安定して繁栄した時代とされ、彼の子ヴィクラマディーティヤ2世(位733/4年~744/5年)は、次第に有力化した封臣たちの協力のもとに、パキスタン南部のシンド地方からデカンに侵入を企てたイスラム勢力を破り、南方のパラヴァ朝に対しては、3度にわたって、その都カーンチプラムを陥れるなど勢いを示した。
ヴィクラマディーティヤ2世は、パラヴァ朝の建築文化の水準の高いことに感銘を受け、建築家グンダを招聘し、南部の石工や工匠たちを多く駆り集めてパッタダカルに多くのヒンドゥー寺院を建設した。そのため、パッタダカルの寺院群は、パラヴァ朝のカーンチプラムの寺院群の影響を強く受けている。これらの寺院には、柱や天井、壁画に石工や彫刻家たちによって、「マハーバーラタ」や「ラーマーヤナ」などに題材を取った様々な場面が彫刻された。なかでも優れているのは、ヴィクラマディーティヤ2世の妃ローカ・マハーデーヴィーが、夫君のパラヴァ朝に対する戦勝を記念して、グンダに設計を命じて建てさせたシヴァ神を祀った雄大なヴィルーパークシャ寺院で、エローラーのカイラーサ寺院にも影響を与えていることで知られる。これらのすばらしい寺院群は、1987年に世界遺産に登録されている。しかし、これらの寺院群が建設されてから10年後、後を継いだキールティヴァルマン2世(位744/5年~755年)が、有力な封臣の一人であったダンティドウルガ(ラーシュトラクータ朝の創始者)に王位を追われ滅亡した。
[編集] 参考文献
- 『アジア歴史事典』6(タ~テ)貝塚茂樹、鈴木駿、宮崎市定他編、平凡社、1960年