インド
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- インド共和国
- भारत (ヒンディー語)
India (英語) -
(国旗) (国章) - 国の標語 : सत्यमेव जयते
ラテン文字転写: Satyameva Jayate
(サンスクリット語: まさに真理は自ずと勝利する) - 国歌 : ジャナ・ガナ・マナ
-
公用語 ヒンディー語(連邦公用語)
英語(連邦準公用語)及び
複数の各州公用語首都 デリー(ニューデリー) 最大の都市 ムンバイ 大統領 アブドゥル・カラーム 首相 マンモハン・シン 面積
- 総計
- 水面積率世界第7位
3,287,590km²
9.6%人口
- 総計(2005年)
- 人口密度世界第2位
11億0337万1千人
324人/km²GDP(自国通貨表示)
- 合計(2005年)
32兆9,532億ルピーGDP(MER)
- 合計(2005年)世界第11位
7,719億㌦ドルGDP(PPP)
- 合計(2005年)
- 1人当り世界第xx位
xxx,xxxドル
xxxドル独立
- 日付イギリスより
1947年8月15日通貨 ルピー(INR) 時間帯 UTC (+5:30)(DST: なし) ccTLD IN 国際電話番号 91
インドは南アジアに位置し、インド亜大陸の大部分を占める連邦共和国である。パキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカ、モルディブ、インドネシアと国境を接する。
10億人を超える国民は、多様な人種、民族、言語、宗教によって構成されている。ヒンドゥー教徒が最も多く、ヒンドゥー教にまつわる身分制度であるカースト制度の影響は今でも残っており、クラス(階層)や貧富の差が非常に大きい。このように多様な人々が存在するためインド人をひとまとめにして理解するのは難しく、貧富の差については「インドは貧しい国ではなく、貧しい人が多く住む国である」などともいわれる。
1947年のイギリスの植民地から独立の際、それまでのインドは、インドとパキスタンに分裂した。その後、パキスタンの飛び地となっていた「東パキスタン」がバングラデシュとして独立している。
正式名称は、भारत (ヒンディー語: ラテン文字転写は、Bharat。読みは、バーラト)。補助公用語の英語による国名は、India (インディア)。
政体名を付け加えた、ヒンディー語のभारत गणराज्य (ラテン文字転写: Bharat Ganarajya)、英語の Republic of Indiaを正式名称とする資料もあるが、憲法その他の法的根拠に基づくものではない。
日本語による表記は、インド。これもまた、共和制であることから政体名を付加して、インド共和国とされることもある。また、連邦制をとっていることから、インド連邦としたり、さらには、インド連邦共和国という表記も稀に目にする。1947年の独立から1950年に大統領制に移行するまでを、インド連邦、それ以降を、インド共和国と使い分ける人もいる。なお、日本の外務省はインドとしている。また印度という漢字の表記がある。
目次 |
[編集] 地理
多くの地域では雨期が存在し、三つの季節、夏、雨期、冬に分けられる。雨期を除いてほとんど雨の降らない地域が多い。
インドでは早い時期に農耕牧畜が発達したため、無制限な開発が行われ、それが土地の乾燥をもたらした。現在も放牧が行われており、植生が元に戻るのは難しい。ただし、全土が乾燥しているわけではなく、緑があふれている地域もある。ちなみに、木材の価格は高く、多くの場合豊富な大理石のほうが安く使える。
[編集] 地方行政区分
- 詳細はインドの地方行政区画を参照
インドは 28 の州と, 6 つの連邦直轄地域と、首都圏 (National capital territory) である デリーから構成される。 ただし、ジャンム・カシミール州はその全域をパキスタンが、ジャンム・カシミール州の一部とアルナーチャル・プラデーシュ州のほとんどを中国が、それぞれ領有権を主張している。
[編集] 代表的な都市
[編集] 歴史
[編集] ヴェーダ時代からラージプート時代まで
紀元前3500年頃に地中海方面から移住してきたドラヴィダ人が紀元前2600年頃からインダス川流域に定住・農耕生活を築きインダス文明が栄えたが、紀元前1800年頃に滅亡した。その後、前1500年頃にイラン・イラク高原から遊牧民であるアーリア人がカイバル峠を越えてパンジャーブ地方に移住した。彼らは前1000年頃にガンジス川流域へ移動、ドラヴィダ人をはじめとする先住民を支配して定住生活に入った。そのため、インド北部にはアーリア人の比率が非常に高い。アーリア人は神々への賛歌であるヴェーダを重視し、司祭階級はバラモンとして特権的な地位を得た。バラモンを頂点とした身分制度はヴァルナ(いわゆるカースト制度)と称され、今日に至るまでのインド社会を規定している。
前4世紀、最初の統一国家であるマウリヤ朝が成立し、2世紀頃には、デカン高原にサータヴァーハナ朝がローマ帝国との海上交易で繁栄、5世紀は、グプタ朝が北インドを統一し、サンスクリット文学がさかんになる一方、アジャンター石窟などの優れた仏教美術が生み出された。これらの古代王朝の後、7世紀からはラージプートの諸王朝が分立。エローラ石窟群やカジュラーホーなどが建設された。
[編集] インドのイスラム化と南インドのヒンドゥー王朝
11世紀初めよりイスラム教勢力(ガズナ朝)の侵入があって、ガズナ朝から独立したゴール朝が北インドを支配した。13世紀よりデリーに都を置くデリー・スルタン朝が北インドをあいついで支配し、14世紀初頭には、デカン遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。一方、南インドでは、10世紀後半ころからタミル系のチョーラ朝が貿易で繁栄し、11世紀には東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国まで遠征を敢行した。その後、14世紀後半から16世紀初頭にかけてヴィジャヤナガル王国が栄えた。1498年にヴァスコ・ダ・ガマがカリカットへ来訪したことを契機に、ポルトガル海上帝国も沿岸部に拠点を築いた。
[編集] ムガル帝国
16世紀、中央アジアでティムール帝国が滅亡すると、ティムールの一族であるバーブルが北インドへ南下し、デリー・スルタン朝を倒してムガル帝国を建てた。3代皇帝のアクバルは、ヒンドゥー教徒との融和を図るとともに統治機構の整備に努めた。しかし、6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラム教スンナ派に基づく統治を行ったために各地で反乱が勃発、帝国は衰退にむかった。
17世紀、スペイン・ポルトガルの没落に伴い、アジア海域世界への進出をイギリスとオランダが推進した。両国は東南アジアでアンボイナ事件で衝突し、イギリスは東南アジアから駆逐されたためインドへ進出した。しかし、インド産の手織り綿布をイギリス東インド会社がヨーロッパに持ち込むと大流行となり、イギリスは対インド貿易を重視した。一方、フランスも徐々にインド進出を図っており、利害が対立した両国は、新大陸と同様にインドでも抗争を続けた。
18世紀後半、七年戦争によってフランスをインドから駆逐すると、1765年にベンガル地方の徴税権(ディーワーニー)を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社主導の植民地化が進み、19世紀前半にイギリスの対インド貿易が自由化されたことで、イギリスから機械製綿織物がインドへ流入、インドの伝統的な綿織物産業は破壊された。さらに、近代的な地税制度を導入したことも、インド民衆を困窮させた。こうした要因から1857年、第一次インド独立戦争(セポイの反乱、シパーヒーの反乱、インド大反乱)が起こった。徹底的な鎮圧を図ったイギリスは、翌年にムガル帝国を完全に滅ぼし、インドを直接統治下においた。20年後の1877年には、イギリス女王がインド皇帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。
ただし、小規模な貿易拠点などのいくつかが、フランスやポルトガルの植民地のまま残った。
[編集] 被植民地時代
イギリスはインド統治に際して分割統治の手法をとった。インド人知識人層を懐柔するため、1885年には諮問機関としてインド国民会議を設けた。しかし、民族資本家の形成に伴い反英強硬派が台頭したこと、日露戦争における日本の勝利、ベンガル分割令への憤りなどから反英機運が一層強まった。こうした中、イギリスは独立運動の宗教的分断を図り、親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させた。
第一次世界大戦で、自治の約束を信じてイギリスに戦争協力したにもかかわらず裏切られたことや、民族自決の理念が高まったことに影響され、インドではさらに民族運動が高揚した。マハトマ・ガンディーの登場は、いままで知識人主導であったインドの民族運動を、幅広く大衆運動にまで深化させた。ガンディーが主導した非暴力独立運動は、イギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。第二次世界大戦では国民会議派から決裂した左派のチャンドラ・ボースが日本の援助によってインド国民軍を結成し、独立をめざす動きも存在した。
[編集] 独立
戦後、インド内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いは収拾されず、1947年8月15日、イスラム教国家のパキスタンとの分離独立となった。初代首相にはジャワハルラール・ネルーが就任した。長期にわたって国民会議派が政権を担ったが、1990年代よりインド人民党が勢力を伸ばしアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー政権が誕生した。
パキスタンとの対立はその後も続き、カシミール問題と東パキスタンを原因として、三度の印パ戦争が勃発した。両国の対立は現在も続いている。
また、隣国の中華人民共和国とは領土問題で緊張状態が現在も続いている。
[編集] 現代
近年はIT産業や製造業を中心に経済成長を続け、ロシアやブラジルなどとともにBRICsの一角として注目を集める存在となった。また、2006年7月9日には、核弾頭搭載可能な中距離弾道ミサイル「アグニ3」(射程3500km)の初の発射実験を行った。当局は当初、発射は成功したとしたが、その後上空でミサイル下部の切り離しが出来ず、目標落下地点には到達しなかったと発表した。
広大な国土に対するインフラ整備が進んでいないこともあり天災による被害を受けやすく、2006年8月10日、モンスーンによる洪水の被害者は、東部のグジャラート、南東部のアーンドラ・プラデーシュの2州だけで、約1300万人に上った。全土での死者は、10日までの9日間で240人に達した。
[編集] 政治
国家元首は、大統領である。実権はなく、内閣の助言に従い国務を行う。議会の上下両院と州議会議員で構成される選挙会によって選出される。任期5年。
副大統領は、議会で選出される。大統領が任期満了、死亡、解職で欠ける場合は、副大統領の地位のままその職務を行う。任期は大統領と同じ5年だが、就任時期をずらすことで、地位の空白が生ずることを防止する。また、副大統領は、上院の議長を兼任する。
行政府の長は、首相で、下院議員の総選挙後に、大統領が任命する。閣僚は、首相の指名に基づき、大統領が任命する。内閣は下院に対して連帯して責任を負う(議院内閣制)。
議会は、両院制で、州代表の上院(ラージヤ・サバー)と、国民代表の下院(ローク・サバー)とで構成される。上院は、245議席で、233議席を州議会議員による間接選挙で選び、12議席を大統領が有識者の中から指名する。任期は6年で、2年ごとに3分の1ずつ改選。下院は、545議席で、543議席を18歳以上の国民による小選挙区制選挙で選出し、2議席を大統領がアングロ・インディアン(イギリス系インド人:植民地時代にイギリス人とインド人との間に生まれた混血のインド人、もしくはその子孫の人々)から指名する。任期は5年だが、任期途中で解散される場合がある。有権者の人口が多いため、選挙の投票は、5回にわけて行われる。2004年の下院選挙は、4月20日に第1回の投票が行われ、5月13日に開票された。
インドの政治を軍事の面から見てみると、インドの軍事制度は非常に安定している。特に、シビリアン・コントロールがアジアでも有数と言えるほどに徹底されている。
[編集] 領土紛争
[編集] カシミール問題
- 詳細はカシミールを参照
カシミール地方のインドとパキスタン・中国との間での領土問題。特にパキスタンとは激しい戦闘が繰り返され(印パ戦争)現在は停戦状態にある。現在のインドの領土は、ジャンム・カシミール州となっている。
[編集] 日本とのつながり
- 近代以前の日本では、中国を経由して仏教関連の情報とともにインドについての認識があったが、情報は非常に限られていた。そのころはインドのことを天竺と呼んでいた。また日本・震旦(中国)・天竺(インド)をあわせて三国と呼ぶこともあった。
- 第二次世界大戦ではインド国民会議派から分派した独立運動の指導者チャンドラ・ボースが日本軍の援助の下でインド国民軍を結成し、日本軍とともにインパール作戦を行ったが、失敗に終わった。
- 原爆の落とされた毎年8月6日に国会が会期中の際は黙祷を捧げている。
- 1948年、第二次世界大戦の極東軍事裁判において、インド代表判事パール判事(ラダ・ビノード・パール、1885年1月27日 - 1957年1月10日)はイギリスやアメリカが無罪なら、日本も無罪であるとして、日本無罪論を発表した。
- 1952年4月 - 国交樹立。(1951年のサンフランシスコ講和条約には欠席)
- 昭和天皇崩御の際には3日間喪に服した。
- 日本テレビ系番組ウッチャンナンチャンのウリナリ!!にてインド映画を紹介したり、自ら主演する企画があった。この後日本でインド映画が上映されることが多くなったことがある。
- 第85・86代総理大臣の森喜朗が2000年8月18日~8月26日の東南アジア訪問の際にインドを訪れている。
- 2005年に、小泉純一郎首相がデリーを訪れている。
- 2006年1月に、麻生太郎外務大臣がデリーを訪れている。
- 2006年アジア開発銀行年次総会の際に、谷垣禎一財務大臣がハイデラバードを訪れている。
- 2007年1月に、菅義偉総務大臣がデリーとチェンナイを訪れている。(なお、余談であるが、チェンナイでの同行記者団との懇談の中で、「総務省の通信部門と経済産業省の情報部門等を統合させ、情報通信省を設置すべき」との見解を示し、国内外に衝撃を与えた。このチェンナイでの発言は、後の省庁再々編論の発端となった。)
[編集] 経済
独立以降、重工業の育成を図り、国内産業保護を政策としていた。その後、1991年に通貨危機をきっかけとして経済自由化に政策を転換した。2007年現在、インドは他の経済成長を遂げている国と併せてBRICsと呼ばれるなど、将来を有望視されている。
産業構造は、農業、サービス業の比率が高い。傾向としては、農業が減りサービス業が伸びている。
貿易については、産業保護政策をとっていたため貿易がGDPに与える影響は少なかったが、経済自由化後は関税が引き下げられるなどされ、貿易額が増加、GDPに与える影響力が大きくなっている。主な貿易品目は、輸出は宝石や医薬品、輸入は宝飾製品や原油など。主な取引相手は、米国、中国や中東などとなっている。
[編集] 課題
インドの経済については、以下の課題が指摘されている。
[編集] インフラ
インフラ整備等の事業環境に、各都市間で格差がある。世界銀行のレポートによれば、首都でもインフラ整備は十分ではないという。「不動産登記にかかる日数を例に取ると、ハイデラバードが35日なのに対し、ニューデリーでは約4倍の138日、コルカタでは5倍近い155日と大きな開きがある」[1]。行政府は外国企業の誘致をさらに進める意向であるとともに、事業環境が十分ではない状況をを改善する意向を持っている。
- マンモハン・シン首相は「外国企業の誘致に向け、インフラ整備や税制の簡素化、関税の削減、申請手続きの迅速化を進めてきたが、「まだ十分ではない」と述べ、改善を急ぐ考えを明らかにしている」[1]
- P・チダンバラム財務大臣は「民間企業による投資が、年率9%成長の維持に不可欠とみており、「国内外を問わず民間企業が投資できる環境を整備する必要がある」と述べた」[1]
- 2007年度予算案では、インフラ整備への予算配分を増加。投資額は前年度40%増の1兆3400億ルピーとなっている。また、経済成長持続に向けてさらなる投資が必要としている。「インドは今後5年間で道路や空港、港、鉄道などのインフラ整備に向けて14兆5000億ルピー規模の投資が必要としている」[2]
[編集] その他
他には、人材不足による賃金上昇が指摘されている。
[編集] 見通し
今後の見通しについて、インフレ圧力や、経済が過熱して、実際の成長率が潜在成長率を上回っているという報道もあるが、見通しとしては基本的には明るい。
BRICsを最初に提唱したゴールドマン・サックスは、「インド経済が今世紀半ばに米国を追い抜き、中国に次ぐ世界2位の経済大国に成長する」とのレポートを出している[3]。
[編集] 通貨
ルピー (Rs, Rupee) とパイサ (Pise)。1ルピーは100パイサ。25パイサ未満の通貨はほとんど出回っていない。 1万円は約3900~4000ルピー(2004年8月現在。一般が銀行で両替する場合のレート)。[1]
[編集] 主な農業
- 米 パンジャブ地方、ガンジス川中下流域で盛ん。 世界生産量第2位
- 綿花 デカン高原で盛ん。 世界生産量第3位
- 小麦 北部で盛ん。 世界生産量第2位
- ジュート 世界生産量の60%以上を占める。 世界生産量第1位
- 茶 アッサム地方で盛ん。アッサムティーと呼ばれる。 世界生産量第1位
[編集] 主な工業
[編集] ハイテク関連施設
大学や研究機関などには直径十数メートルから数十メートルのパラボラアンテナが地上や屋上に設えてあり、衛星を用いてインターネット接続ができる。
International Tech Park in India | Software Technology Parks of India |
インド国内にはこのようなパラボラアンテナを備えた施設が国全体を取り囲むように州ごとに存在し、周辺地域へは光ケーブルを用いてサービスされている。しかし、建設工事の近代化は遅れており、STPI (Software Technology Parks of India) から周辺に敷設中の光ファイバーの工事現場では、建設重機は見当たらず、殆どが手掘りであった。(2002年2月現在)
International Tech Park in India の模型 | 光ファイバーの敷設工事風景 |
[編集] バイオテクノロジー
インドというとITが有名だが、バイオテクノロジーの分野にも力を入れている。1986年にはバイオテクノロジー庁が設立された。
[編集] アメリカとのつながり
冷戦期の反米親ソ路線とは裏腹に現在では友好関係を保っている。 インドではソフトウェア産業の優秀な人材が揃っており、英語を話せる人も多いためアメリカへの人材の引き抜きや現地でのソフトウェア産業の設立が盛んになっている。そのため、ハイテク産業でのアメリカとのつながりが大きく、アメリカで就職したり、インターネットを通じてインド国内での開発、運営などが行われたりしている。NHKスペシャルの「インドの衝撃」では、NASAのエンジニアの1割がインド人だと伝えている。
また、アメリカとインドは地球の反対側に位置するため、アメリカの終業時刻がインドの始業時刻に相当し、終業時刻にインドへ仕事を依頼すると翌日の始業時刻には成果品が届くことからもインドの優位性が評価されるようになった(→オフショア)。
一時期、シリコンバレーは“IC”でもつと言われたことがあるが、この場合のICは集積回路のIntegrated Circuitsを指すのではなくインド人と中国人を意味する。
近年、英語についての学習能力が高く人件費も低廉な為に、アメリカでのコールセンターはインドに設置されている場合が多い。発音の難しさから、名前を名乗る際にアメリカ向けの名前をコールセンターの担当者に与えられている。
[編集] 中国との比較
ともにアジアの超大国として、インドと中華人民共和国(以下中国)は様々な面で比較されることが多い。
- 産業構造では、中国は製造業の比率が高く、これが成長を牽引したといわれており、インドは製造業の比率が低いことがマイナス要因となっている。
- 両国ともに製造業は労働集約型である。中国は組み立て型が中心であるのに対し、インドは知識集約型が主力商品に含まれている。
- インドのIT関連技術者の英語能力の方が高く、同一のIT知識を有している技術者でも、アメリカIT産業のレインとしては、インド人の英語能力に優位性が認められ、高く評価されている。またインド人自らもこれを自負している。
- ともに移民(印僑、華僑)が多く、移民先で経済的成功を収め大きな影響力を発揮することが多い。
- ともに冷戦期は東側に近く、社会主義計画経済政策をとっていた点は共通している(※上記の移民の原因の一つとなった)。現在は市場経済を導入しているにも関わらず、「社会主義の国」と今も憲法で唄っている点も同じである。これは社会主義が独立の理念の一つになっているからであり、それ故にソ連とは極めて親密だった。このため、かつてのアメリカは同じ社会主義国でもソ連と対立していた中華人民共和国に接近した(米中接近)。
- ともに立襟仕立ての上着が正装である。それぞれの首脳の名をとって中国ではマオカラー、インドではネルージャケットと呼ばれる。
- 建国以来、一貫して共産党の一党独裁体制の続く中国に対して、インドの政治体制は多党制民主主義を基本とし、政治体制においては両国は対照を成している。
- 日本では歴史認識やそれに由来する対日感情について親日的なインド、反日的な中国という捉え方をされることが多い。
- 両国の財界は伝統的に関係が深い。例えば、タタ財閥(ジャムシェードジー・タタ)は中国との交易から始まった。
- 中国が近い将来、少子高齢化社会となるのに比べ、インドは少子化問題の懸念がずっと少ない。
[編集] 交通
[編集] 自動車道路
高速道路などは計画・建設中の段階である。デリー・コルカタ・チェンナイ・ムンバイを結ぶ延長約5800kmの道路(通称「黄金の四角形」)が2005年末に完成予定であり、また、国内を東西方向・南北方向に結ぶ +型の延長約7300kmの道路(通称「東西南北回廊」)も2007年末に完成する予定である。
[編集] 鉄道
- 詳細はインドの鉄道を参照
現在では鉄道が移動の主体となっている。貧富の差が激しいのにあわせて、使う乗物によってかかる費用が大きく違う。例)ムンバイ、デリー間。飛行機の外国人料金: 6000ルピー。二等の寝台: 400ルピー。また日本の新幹線を基にした高速鉄道や貨物鉄道も計画されている。
[編集] 航空
かつては旅客機は一部の富裕層でしか使われていなかったが、2000年代に入り国内大手資本により格安航空会社が多数設立され、それに併せて航空運賃が下がったこともあり中流階級層を中心に利用者が増加している。
[編集] 人口
- インドの人口は1950年以降、毎年1,000万~1,500万人の勢いで増加し続け、2005年には11億人を突破した。国連の予測では今後もこのペースで増加し、2030年代に中華人民共和国を追い抜くと言われる。中華人民共和国が一人っ子政策を見直されない限り2030年代で人口が頭打ちになるのと比べ驚異的な伸びといえる。ただし2030年代以降は毎年500~700万人増と人口増加はやや鈍化する。とはいえ2050年には16億人近くに達し、その後も増加し続け、2100年には18億人近くになるというのが大方の専門家の見方だ。またインドは人口構成が若いのが特徴で、2000年の中位年齢は23歳、2050年でも38歳と言われている。因みにアメリカ合衆国の2050年の中位年齢は40歳、中華人民共和国は43歳、EUは48歳、日本は53歳と推定される。
- インドの人口の推移と予測
年 | 人口(万人) | 増加率 (%) |
---|---|---|
1950 | 3億5756 | × |
1960 | 4億4234 | 2.2 |
1970 | 5億5491 | 2.3 |
1980 | 6億8885 | 2.2 |
1990 | 8億4641 | 2.1 |
2000 | 10億169 | 1.9 |
2005 | 11億337 | × |
2010 | 11億7380 | 1.4 |
2020 | 13億1221 | 1.1 |
2030 | 14億1657 | 0.8 |
2040 | 14億8571 | 0.5 |
2050 | 15億9000 | 0.3 |
2100 | 17億9000 | 0.3 |
[編集] 国民
パンジャーブ地方に暮らす一部の民族は、起源をヨーロッパのロマ(ジプシー)と同じにする。そのほか、民族によって服装や生活様式の違いがはっきりと分かれていることが多い。
[編集] 人種
有史以前からユーラシア大陸の東西から何派にもわたって様々な集団が流入してきたため、黄色、白色、黒色等、多様な肌の色の人種が古来より暮らしている。一部他人種と混血している場合もあるが、クラスがはっきり分かれているため明確な違いがある場合が多い。同じ地域に暮らしていても、混血していることがすくない。人種はかなりの割合で重なった地域に暮らしている。
インド、特に北インドには、イラン・イラク高原から移住してきた遊牧民を祖とするアーリア人が多く居住している。彼らは分布上はコーカソイドに属する。コーカソイドと言っても飽くまで人種としての区分であり、アラブ人、南アジア人、などもコーカソイドである。北インドに居住する人々はドラヴィダ人程ではないにしろ日焼けをしたように濃色の皮膚で、同じコーカソイド人種でありながらヨーロッパ人と対照的である。(詳細はアーリア人、コーカソイド参照)
しかし、南部には、ネグロイドに属するドラヴィダ人が多数を占めている。ドラヴィダ人はアーリア人とは大きく異なり、典型的な農耕民族で、人種形質から遺伝系統までが違う。アーリア人と比べ、皮膚の色彩は黒褐色が非常に濃く、背が低い傾向にある。また、ドラヴィダ人はアーリア人に比べ学問に優れていると言われており、インド人の優秀性としてよく引き合いに出されるシュリニヴァーサ・ラマヌジャンや他の天才的な学者の殆んどがドラヴィダ人である。現代においてはIT産業の7割が南インドに集中していることからも窺える。ドラヴィダ人はアフリカ中南部に起源を持つ他の黒色人種とも異なり、彼らの祖先は地中海周辺の農耕地帯に起源を持ち、紀元前3500年頃、アーリア人より2千年ほど前にインドに移住して、農耕を築いた集団とされ、それによりインダス文明の繁栄をもたらした。(詳細はドラヴィダ人、ネグロイド参照。)
ちなみにヴェッダ人などの非アーリア、非ドラヴィダの先史時代以来のインド亜大陸先住人種も非常に濃い色の皮膚を持つが、これらの人種群から区別する作業が行われている。彼等はドラヴィダ人が到達するよりも更に古い時代からインドに居住していた人々の形質を色濃く残す子孫であると思われる。
- 黄色人種
- 中央蒙古人種: ネパールよりの北インド
- 南蒙古人種:ミャンマーよりの東インド
- 白色人種
- インド・アフガン人種: インダス低地およびデカン西方
- アナトリア人種: ヒンドスタンの西全域
- 系統不明(一説にオーストラロイド)
- メラノ・インド人種: インド南東部
- ヴェダ人種: デカン高原中央(スリランカにも先住)
[編集] 言語
インドの言語、インドの国語の一覧、インドの言語の話者数一覧、ドラヴィダ語族 を参照
ヒンディー語を連邦公用語とするが、ヒンディー語圏以外では各地方の言語が日常的に話されている。インドで最も多くの人に日常話されている言葉はヒンディー語で、約4億人の話者がいると言われ、インドの人口の40%を占める。英語は全国に広く普及しており、ヒンディー語圏以外の地方では地方の言葉以外に英語とヒンディー語を加えた三つの言葉を話せる人も多い。またクラスや職業によっては、そもそも英語を母語にする人も珍しくなく、英語しか話せない人もいる。大企業やハイテク産業では大抵の場合、英語が話されている。しかし一方で、地域や階級によっては英語がまったく通じないこともしばしばである。1991年の国勢調査によると、178,598人(調査対象者の0.021%)が英語を母語にしており、9000万人以上(同11%)が英語を第一、第二、ないし第三の言語として話すとしている。
インドはイギリスの植民地であったため英語の影響は強く、現在も共通語的役割を果たしている。そのためインドの憲法も英語で書かれているが、この憲法の中には憲法施行(1950年)後15年で英語を公用語から除外するとしている。現在、憲法はヒンディー語で翻訳され、正文とされているが、現実には15年を経過しても英語を除外することができず、公用語法において英語の使用を無期限延長することとしている。そのため現在も英文憲法はヒンディー語憲法と共に正文となっている。ただし英語離れとでも言うべき動きは進んでおり、すでにボンベイ、カルカッタ、マドラスという大都市さえも、それぞれムンバイ、コルカタ、チェンナイという現地語の名へと公式に改められた。こうした傾向はインド国内でのナショナリズムの拡大・浸透が続く限り今後も進むものと見られるが、連邦公用語のヒンディー語は今だ全国に浸透していない。特にインド南部タミル・ナードゥ州などではヒンディー語を連邦公用語とすることへの反発が強い。
インドの言語は北部のインド・ヨーロッパ語族インド語派と南部のドラヴィダ語族に大きく分かれる。ドラヴィダ語族の言語は主に南部のアーンドラ・プラデーシュ州、カルナータカ州、ケーララ州、タミル・ナードゥ州で話され、それ以外の地域がインド・ヨーロッパ語族に含まれる。この様に北部と南部とで言語が大きく異なっているため、インド・ヨーロッパ語族に含まれるヒンディー語がドラヴィダ語族の人々への浸透の遅れる原因ともなっている。
近年(1980年代以降)のヒンドゥー・ナショナリズムの高まりと共に、サンスクリットを公用語にしようという動きも一部で高まっている。もともと中世以前においてはインド圏の共通語であったと予想されているサンスクリットは、各地方語の力が強まりその役割が果たされなくなった後も、上位カーストであるブラフミンの間では基礎教養として身に付けられてきたという経緯がある。しかし古い言語であるだけに、現在(学者・研究者による会議の席上や特殊なコミュニティー等を除けば)日常語として話している人はほとんど居らず、またその複雑さ故に同言語の学習に多年を要することなどもあり、実際の普及は滞っているのが現状である。
[編集] インドの公用語
多言語社会であるインドにおいて、国家が国民統合を推し進める上で、また実際に行政運営を行う上で言語は常に重要な位置を占めている。当初独立運動の過程では、植民地の行政言語(公用語)であった英語に代わって、北インドを中心に広く通用するヒンドゥスターニー語を新たに独立インドの象徴として積極的に採用していこうというガンディーらの意見があった。その流れを受けて、独立後制定されたインド憲法[2]の第343条では、ヒンドゥスターニー語の流れを組むヒンディー語が連邦公用語として規定されている。これに対しては憲法起草段階から現在に至るまで南部のタミル・ナードゥ州を中心に反対意見が根強いが、連邦政府はおりにつけ各地でヒンディー語の普及を推し進めている。
それ以外にもインド憲法条文(第8付則[3]、および憲法修正第92法[4]を参照)には以下列挙する「22の言語」が明記されている。これらの言語(通称「第8付則言語」)の「22」という数は、決して「インドの公用語の数」ではない事に注意されたい。その証拠として、かたや下記の「22」言語に名前が挙がっていながらいずれの州でも公用語として採用されていない言語(サンスクリット語やシンディー語など)があれば、かたや同「22」の中に含まれていないにも関わらず、いずれかの州で公用語の位置づけにある言語(シッキム州の公用語の一つであるレプチャ語など)も複数存在している。いわば憲法で「公的に認定された言語」ではあるが、決して「インドの公用語」のリストではない。
(※詳しくは インドの言語 、およびインドの国語の一覧 を参照)
- アッサム語
- ベンガル語
- ボド語
- ドグリ語
- グジャラート語
- ヒンディー語
- カンナダ語
- カシミール語
- コーンカニー語
- マイティリー語
- マラヤーラム語
- マニプル語
- マラーティー語
- ネパール語
- オリヤー語
- パンジャーブ語
- サンスクリット語
- サンタル語
- シンディー語
- タミル語
- テルグ語
- ウルドゥー語
各州及び連邦首都圏・連邦直轄地で公用語(第二公用語は除く)となっている言語は以下のとおりである。
(上記の憲法第8附則に明記されている言語、および連邦公用語のヒンディー語は太字で示してある。)
- アッサム州 (英語、アッサム語)
- アルナーチャル・プラデーシュ州 (英語)
- アーンドラ・プラデーシュ州 (テルグ語)
- ウッタラーカンド州
- ウッタル・プラデーシュ州 (ヒンディー語)
- オリッサ州 (オリヤー語)
- カルナータカ州 (カンナダ語、英語)
- グジャラート州 (グジャラート語、ヒンディー語)
- ケーララ州 (マラヤーラム語、英語)
- ゴア州 (コーンカニー語、マラーティー語)
- シッキム州 (ネパール語、レプチャ語、ボーティアー語、リンブ語)
- ジャールカンド州 (ヒンディー語)
- ジャンムー・カシミール州 (簡易ウルドゥー語)
- タミル・ナードゥ州 (タミル語、英語)
- チャッティースガル州
- トリプラ州 (ベンガル語、カク・バラク語、英語)
- ナガランド州 (英語)
- ハリヤーナー州 (ヒンディー語)
- 西ベンガル州 (ベンガル語)
- パンジャーブ州 (パンジャーブ語)
- ビハール州 (ヒンディー語)
- ヒマーチャル・プラデーシュ州 (ヒンディー語)
- マディヤ・プラデーシュ州 (ヒンディー語)
- マニプル州 (英語)
- マハーラーシュトラ州 (マラーティー語)
- ミゾラム州 (英語)
- メーガーラヤ州 (英語)
- ラージャスターン州 (ヒンディー語)
連邦首都圏と連邦直轄領
- デリー連邦首都圏 (ヒンディー語)
- アンダマン・ニコバル諸島連邦直轄領 (ヒンディー語、英語)
- ダードラー及びナガル・ハヴェーリー連邦直轄領 (英語)
- ダマン・ディーウ連邦直轄領 (英語、グジャラート語)
- チャンディーガル連邦直轄領 (英語)
- パーンディッチェーリ連邦直轄地 (タミル語、マラヤーラム語、テルグ語)
- ラクシャディープ連邦直轄地 (英語)
[編集] 宗教
多くの人はヒンドゥー教徒で、それにまつわる身分差別であるカースト制度の影響は今でも残っている。その為、クラス(階層)や貧富の差が非常に大きい。
イスラム教徒もインド国内に多数おり、その数ではインドは世界第3位のイスラム教国となり、(1位インドネシア、2位パキスタン)ヒンドゥー教から一方的に迫害されることはないが、ヒンドゥー教徒の力が強いためにイスラム教徒との勢力争いで、暴動が起きることもある。そのためイスラム教徒がヒンドゥー教の寺院を破壊したり、その逆にヒンドゥー教徒がイスラム教のモスクを破壊したりといった事件も後を絶たない。
その他インドの長い歴史の中で、ジャイナ教やスィク教(シク教)、ゾロアスター教がヒンドゥー社会の中で生き残って来た理由は、彼らの社会的な力のせいである。ジャイナ教徒には裕福な商人が多く、シーク教徒には強い戦士が多くまた裕福な人々が多い。ゾロアスター教徒(パールスィー)にも裕福な人々が多く、政治的な力を持っている人々も多い。ちなみに、インド最大の財閥のひとつであるタタは、ゾロアスター教徒の財閥である。
インドの人口に占める各宗教の割合: ヒンドゥー教徒80.5%、イスラム教徒13.4%、キリスト教徒2.33%、シク教徒1.84%、仏教徒0.76%、ジャイナ教徒0.40%、アイヤーヴァリ教徒0.12%
[編集] 仏教
仏教発祥の地であるが、5世紀から12世紀の間に衰退、十三世紀初頭のイスラム教徒によるビクラマシーラ大僧院の破壊により、僧院組織は壊滅的打撃をうけ、インド仏教は、ベンガル地方でベンガル仏教徒とよばれる小グループが細々と命脈を保つのみとなった。 カシミール州のラダック地方、ヒマーチャルプラデーシュ州の北部、シッキム州など、チベット系住民が居住する地方では、チベット仏教が伝統的に信仰されている。
しかし1956年、インド憲法の起草者の一人で初代法務大臣を務めたアンベードカルが死の直前に、自らと同じ50万人の不可触民と共に仏教徒に改宗し、インド仏教復興の運動が起こった。現在は日本人僧の佐々井秀嶺がアンベードカルの正式な後継者と認められ、インド仏教運動を継続している。
近年、ヒンドゥー教のカーストを嫌う不可触民や下層階級の人々がヒンドゥー教から仏教に改宗する動きがあり、公式統計では仏教徒は人口の0.7%(約700万人)に達している(1億人以上との説もある)。
[編集] 文化
日本人が持つインドのイメージは一般的には食料品のカレーの国であり、暑く、不潔で、階層があり、男性はターバンを女性はサリーをまとった人々が住む国と感じている場合が多い。この理由はインドを単純に南北に分けた場合、首都ニューデリーやガンジス川を含む北インドの情報が多く南インドの情報が少ないことに帰因している。
[編集] 思想
- 詳細はインド思想を参照
インドにおいて発達した思想は、法(धर्म ダルマ)・利(अर्थ アルタ)・愛(काम カーマ)の三つ、あるいはこれらに解脱(मोक्ष モークシャ)を加えた四つを主題として展開してきた。法は主にヴェーダに述べられる祭式とそれにまつわるバラモン等の四つのヴァルナの正しい生き方に関わり、利は主にクシャトリヤの国王を中心とした国家の正しい運営方法あるいはあり方に関わり、愛は格好よさ・夫婦の生活・性交・遊女など広く男女の間柄についてのあり方に関わっている。また解脱とその前提となる輪廻(संसार サンサーラ)は、人間の死後のあり方に関わっており、インドにおけるほとんどすべての宗教思想や哲学と密接な関係にある。
[編集] 教育
- 詳細はインドの教育を参照
情報産業の基礎としての数学教育に力を入れており、2桁の九九を学ぶ。加熱する教育熱のため、インドにも受験戦争が存在する。
[編集] 映画
- 詳細はインド映画を参照
インド国内では各地方の言語でそれぞれ独自に映画が制作されていることもあり、インドは世界で最も多くの年間映画制作本数をほこる国である。特に北部を中心にインド全土で上映されるヒンディー語による娯楽映画は、その制作の中心地であるムンバイの旧名ボンベイとアメリカのハリウッドをもじって「ボリウッドフィルム」と呼ばれている。様々なタイプの映画があるが、多くはミュージカル要素を含んだ映画で、これらは日本で「マサーラムービー」と呼ばれ親しまれている。
[編集] 世界遺産
- 詳細はインドの世界遺産を参照
インド国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が21件、自然遺産が5件ある。
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月26日 | 共和国の日 | Republic Day | |
8月15日 | 独立記念日 | Independence Day | |
10月2日 | ガンジー誕生日 | Gandhi Jayanti |
他に、ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教の祭日があり、信者が祝う。
[編集] その他
- ギリシャの数学がインドで応用され、数字の0(ゼロ)を加えて発展させ、アラビアでの完成への中継ぎの役目を果たした。
- 世界初の大学はインドのTakshilaにて紀元前7世紀に設立された。紀元前4世紀に設立されたNalanda大学における教育学も一つであるが、今は見る影もない。
- インドは世界で初めてダイヤモンドを広めた。GIAの発表によると、西暦1896年までインドは世界へのダイヤモンドの唯一の源であった。
- インドのサンスクリット語はラテン語やギリシャ語と兄弟であるらしい。Sir William Jonesは個人的な感想として「ギリシャ語よりパーフェクトであり、ラテン語より豊富であり、そのどちらよりも精巧である。」と言ったそうだ。一昔前の1987年7月号のForbes誌ではコンピューターソフトに最も適した言語という説が紹介されていたが、現在は不明。(インド・ヨーロッパ語族を参照)
- その膨大な数の人口と、コーカソイド特有の顔立ちが要因となり、インドは美人の産地という声も一部ではある。(2000年のミス・ユニバース、ミス・ワールド、ミス・アジアはインド人が席巻した)。
- 1500万人とも言われる膨大な数の在外インド人(NRI/Non Resident Indians)は世界中に移住しており、その中の一部はインドへの投資も積極的である。
- アインシュタインは「現在の我々があるのは数の数え方を教えてくれたインド人のおかげである。それが無かったら、その後の重要な科学的な発見は成しえなかった。」と個人的な感想を残した。
- 大野晋は南インドのタミル語が日本語の起源だという個人的な説を唱えた。
[編集] 関連項目
- 分野・時代別のインド人の一覧
- 南アジア史
- インドの数学
- インド哲学
- インド料理
- マハトマ・ガンジー
- カンパ・コーラ
- インドの観光地の一覧
- BRICs
- インドの言語・インドの国語
- インドの言語の話者数
- 南インド
- インド人の名前
- インド文化圏
[編集] 脚注
[編集] 外部リンク
[編集] 政府公式サイト
[編集] その他
- 世界の国々 > アジア
-
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