劉闡
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劉闡(りゅうせん、生没年不詳)は、劉璋の次子。劉循の弟。家系は劉氏。または、劉緯とも呼ばれる。
[編集] 略伝
劉備が益州を支配し、父の劉璋と兄の劉循と共に劉備に降伏した。 後に父の劉璋が荊州の公安太守として赴任した時に、兄の劉循が奉車中郎将として蜀に留め置かれたが、彼は父と公安に移住した。
219年に関羽が荊州を呉の孫権によって奪われた挙句に、捕虜となって斬られる前後に、父と共に呉に帰順した。やがて父が死去し、彼が跡を継ぐと、孫権に信頼され益州刺史・御史中丞を歴任したという。
223年に雍闔と通じた孫権によって、交州刺史も兼ねて広東付近に赴任された。だが、翌年に孫権が蜀漢の諸葛亮との和議が成ると、都に召還された。数年後に病に罹り、間もなく自邸で死去したという。