勾践
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勾践(こうせん、? - 紀元前465年)は中国春秋時代後期の越の王。名臣范蠡の補佐を得て当時大陸の南方で強大な勢力を誇っていた呉を滅ぼし、春秋五覇の一人に数えられることもある。句践と表記されることもある。
[編集] 概要
呉と越は長年の宿敵同士であり、呉王闔閭は越を滅ぼすべく大軍を率いて攻め込んだ。 しかし范蠡の奇策によって大敗し、闔閭はこの時の負傷がもとで死亡する。代わって太子の夫差が呉王として即位した。
夫差は父を殺された恨みを忘れないために薪の上で寝るようにし、功臣伍子胥の補佐を得て呉を建て直して、越に攻め込み、今度は越を滅亡寸前までに追い詰めた。
勾践は范蠡の進言に従って夫差に和を請い、夫差は伍子胥の猛烈な反対を押し切ってこれを受け入れた。勾践は呉に赴き夫差の召し使いとして仕えることになったが、范蠡の工作により程なくして越に戻ることになった。
勾践はこのときの悔しさを忘れず、部屋に苦い肝を吊るして毎日のようにそれを舐めて呉に対する復讐を誓った。前述の夫差と合わせて臥薪嘗胆という故事の元となった逸話である。
越は着々と国力を蓄え、夫差が中原の会盟に出かけたときを狙って呉に攻め込んだ。呉の太子友は斬られ、夫差は慌てて呉へ引き返してきたが、これより4年後に呉は越に滅ぼされることになる。
呉を滅ぼした勾践は、越の都を現在の山東省の琅邪に遷し(江蘇省との説もある)、更に諸侯を会盟して中原の覇者となった。
[編集] こぼれ話
日本では後醍醐天皇が隠岐に流された際に、児島高徳が「天勾践を空しゅうする莫れ 時范蠡無きにしも非ず」という歌を詠んで励ましたエピソードがある。