北条英時
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北条 英時(ほうじょう ひでとき、?-1333年7月7日(元弘3年/正慶2年5月25日))は、鎌倉時代末期の北条氏の一族。鎌倉幕府最後の鎮西探題。赤橋流北条氏の北条久時の子で、幕府最後の執権北条守時の弟。赤橋英時とも称される。官位は従五位下。修理亮。
1321年12月、北条随時(阿曾随時)の後を受けて鎮西探題に任じられて博多に赴く。鎌倉幕府の討幕運動が九州にまで及ぶと、その鎮圧に努め、1333年3月には後醍醐天皇の綸旨を受けて攻めてきた菊池武時を少弐貞経や大友貞宗らと共に返り討ちにして敗死させ、さらに北条高政(英時の養子)に菊地氏をはじめとする反幕府の残党勢力の追討に務めた。ところが京都で六波羅探題が足利尊氏らによって陥落させられた情報が九州に届くと、それまで従順であった貞時や貞宗、さらには島津貞久らが離反して攻めて来る。英時は懸命に防戦したが敗れ、5月25日に博多で一族240名と共に自殺した。
和歌に優れた教養人でもあり、『松花和歌集』や『続現葉和歌集』、『臨永和歌集』などには多くの作が収められている。また、英時の探題在任中に発給された書状百通ほどが、今日においても現存されており、歴史を知る上において貴重な史料となっている。