十河存保
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十河 存保(そごう まさやす、「ながやす」と読む説もあり、天文23年(1554年) - 天正14年12月12日(1587年1月20日))は三好氏の一族。実父は三好長慶の弟・三好義賢。子に十河千松丸、十河存英。
[編集] 経歴
義賢の弟・十河一存の養子となり、1561年、一存の死によって家督を相続する。三好氏が織田信長と敵対したとき、存保は信長と争ったが、やがて四国平定を目指す長宗我部元親の勢力が伸びてくるとそれに対抗するため、信長と手を結んだ。後に兄である三好長治が討たれると勝瑞城に入り、実質上の三好宗家の当主となった。
1582年、信長が四国征伐を計画すると存保はその先鋒として讃岐や阿波で奮戦したが、同年六月に本能寺の変が起きて信長が死亡すると存保は後ろ盾を失って勢力が大きく後退し、その後、阿波に攻め込んできた長宗我部軍と中富川の戦いで激突して敗北し、大坂に逃亡した。
1585年、豊臣秀吉の四国征伐に協力したため旧領を秀吉より与えられて大名として復帰したが翌年、秀吉の九州征伐に従った際、軍監の仙石秀久の無謀な作戦に巻き込まれて戸次川の戦いにおいて戦死した。