千坂景親
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
千坂景親(ちざか(ちさか)・かげちか、天文5年(1536年) - 慶長11年(1606年))は、上杉氏の重臣。対馬守。子は千坂高治。正式な名のりは藤原景親(ふじわら・の・かげちか)。
千坂氏は、藤原氏北家の流れを汲む犬懸上杉氏の上杉朝宗の孫の上杉高春が越後国沼垂郡女堂村の豪族となり千坂を苗字としたことにはじまる。代々、扇谷上杉氏の四家老の一つで、上杉謙信が上杉の名跡を継いだ時、千坂景親が上杉謙信の重臣となる。
景親は蒲原郡を領し、謙信の家臣の中にあっては、謙信を本営にて警固する、いわば親衛隊的な立場にあり、そのため謙信の本営が敵襲により危機に陥らないかぎり、景親には出動の機会はなく、それが謙信の他の重臣と比して千坂景親の名前が上杉謙信の合戦記になかなか登場しない理由でもある。謙信の没後は、上杉景勝に仕える。
1598年に、会津大沼郡5500石を受領。関ヶ原の合戦後には徳川家との折衝役を務める。1603年、米沢藩の初代江戸家老となる。1606年、71歳で死去。
赤穂浪人の吉良上野介邸襲撃の少し前まで、上杉家の江戸家老を務めていた千坂高房(千坂兵部)は、千坂景親の孫に当たる。