上杉景勝
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上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。出羽米沢藩の初代藩主。
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時代 | 戦国時代から江戸時代前期 | |||
生誕 | 弘治元年11月27日(1556年1月8日) | |||
死没 | 元和9年3月20日(1623年4月19日) | |||
改名 | 卯松(幼名)、喜平次(通称)、 長尾顕景(初名) |
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戒名 | 覚上院殿法印権大僧都宗心 | |||
官位 | 従三位、中納言、越後守、参議 | |||
氏族 | 長尾氏→上杉氏 | |||
藩 | 出羽米沢藩主 | |||
父母 | 父:長尾政景 母:長尾為景の娘で謙信の姉・仙桃院 養父:上杉謙信 |
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妻 | 正室:武田信玄の娘・菊姫 継室:大納言・四辻公遠の娘 |
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子 | 上杉定勝(長男) |
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 家督相続
弘治元年(1555年)、越後国(新潟県)に上田長尾氏当主・長尾政景の次男として生まれる。生母は謙信の実姉で、謙信の甥に当たる。永禄7年(1564年)、父の政景が死去し、春日山城に入って謙信の養子となった。永禄9年(1566年)の関東出兵が初陣であるとされている。
天正3年(1575年)、名を長尾顕景から上杉景勝に改めると共に、謙信から弾正少弼の位を譲られた。
天正6年(1578年)、謙信が死去すると、家督をめぐって同じく謙信の養子であった上杉景虎(北条氏康の七男とも親族とも)と対立し(御館の乱)、謙信の遺言であると称して春日山城を占拠し、御館に立て籠もった景虎と戦い、景虎を天正7年(1579年)に自害に追い込み、天正8年(1580年)には越後の豪族も従えて、謙信の後継ぎとしての地位を確立した。
[編集] 織田家との戦い
天正9年(1581年)、北越後の新発田重家が織田信長と通じて反逆した上、柴田勝家率いる織田軍に越中にまで侵攻されるなど、存続の危機に立たされた。
天正10年(1582年)に織田軍は越中を完全に制圧し、上杉家は滅亡寸前までに追い込まれるが、6月2日に織田信長が本能寺の変で自害したため、何とか滅亡を逃れることができた。しかし家督争いによる抗争、織田氏の侵攻によって上杉氏の国力は大きく衰退した。
[編集] 豊臣政権時代
信長の死後、北信濃に侵攻し、一部を支配下に置いた。また、天正13年(1585年)には真田昌幸を一時的に従属下に置いた。
天正14年(1586年)6月、信長の死後に台頭した羽柴秀吉(豊臣秀吉)に臣従して命脈を保った。 その際に、越中(魚津・松倉など)と上野(真田氏の大名としての独立)の領有を放棄、換わりに佐渡・出羽の切り取りを許可される。 このとき、景勝は正親町天皇に拝謁して左近衛権少将に任じられた。天正16年(1588年)にも上洛し、従三位・参議・中将に昇叙された。
天正15年(1587年)、反逆していた新発田重家を討ち、天正17年(1589年)には佐渡の本間氏を討伐し、佐渡を平定した。天正18年(1590年)、後北条氏との小田原合戦にも従軍している。
天正20年(1592年)の6月6日から9月8日まで、家臣の高梨頼親らを伴っての秀吉の朝鮮出兵に参加する。このとき最前線基地として熊川倭城を築城している。
慶長2年(1597年)、小早川隆景が死去した後を受けて、豊臣氏五大老の一人に列せられた。慶長3年(1598年)、秀吉の命により会津120万石に加増移封された。旧領地から引き続き統治が認められたのは、佐渡一国及び越後のごく一部(東蒲原)と本庄繁長が最上義光と激しい争奪戦をして奪った出羽庄内地方のみで、後は戦国時代伊達氏の領地だった出羽置賜地方、陸奥伊達郡、信夫郡、刈田郡と伊達政宗が征服した会津地方であった。また、各地は山地で隔絶され、現在でも交通の難所と呼ばれる峠道で結ばれているだけであった。常に北側に境を接する最上義光、伊達政宗と衝突の危険性が有り、改易された蒲生氏に代わり東北諸大名の監視と牽制のための配置であった。
景勝は要となる米沢城に直江兼続に30万石(与力を含む、直江本領は6万石との説あり)を与えて配置させ、対伊達氏最前線の白石城の甘糟清長、福島城の本庄繁長、東禅時城の志田義秀を指揮させた。
[編集] 会津征伐
慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、家老の直江兼続が五奉行の石田三成と懇意にあった経緯から徳川家康と対立する。慶長5年(1600年)2月になると、景勝は夏までに領内諸城の補修を命ずる。3月になると鶴ヶ城が将来手狭になると考え、会津盆地のほぼ中央に位置する神指に新城の建築を命ずる。
4月、家康から上洛して領内諸城改修の申し開きをするように召還命令(この召還命令は景勝を排除するための策だとされる)が出るがこれを拒否する(直江状)。
このため、家康は大軍を率いて景勝討伐に出陣する(会津征伐)。景勝は神指城の突貫工事を命ずるが、6月になると普請を中断して家康軍の対応にあたる。7月、討伐に向かった家康の留守中に三成らが挙兵(関ヶ原の戦い)し、家康が西上するとなると会津から出兵。東軍に与した伊達政宗や最上義光らと戦ったが、9月15日の本戦で三成ら西軍が敗れたため、12月に家康に降伏することを余儀なくされた。
慶長6年(1601年)、直江兼続と共に上洛して家康に謝罪し、上杉氏の存続は許されたが、所領の大半を召し上げられ、うち米沢、信夫、伊達の3郡のみ安堵され、出羽米沢30万石(実高51万石)に減移封され、米沢藩主となった。
[編集] 江戸時代
景勝は直江兼続と協力して、米沢藩における城下町建設や法整備などの支配体制確立に尽力し、米沢藩の藩政確立に尽力した。だが、このとき上杉氏は所領を大幅に減らされたにも関わらず、抱える家臣をほとんど減らさなかったため、以後これが原因で、何度も財政難に見舞われた。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方について先鋒として活躍した。
元和9年(1623年)3月20日、米沢で死去。享年69。後を嫡男の定勝が継いだ。
墓所:山形県米沢市の御廟の上杉家御廟所。また、和歌山県高野町の高野山清浄心院。上杉神社摂社である松岬神社に、祭神として祀られている。
[編集] 人物 ・逸話
- 養父の謙信を戦国武将として尊敬していた景勝は、自分の器量は謙信に遠く及ばないことを承知していながらも、常に謙信のようにありたいと考えて行動していたと言われる。そのため、感情を表に出すことがほとんどなかったそうだ。ある時飼っていた猿が景勝の座でさももっともらしくうなずいたり、部下に指図したりといった景勝の物まねをしていたのを目にした。そのあまりの可笑しさに景勝は思わず大声で笑ったが、これが彼が生涯でただ一度見せた笑顔であったとまでいわれている。
- 景勝は関ヶ原で敗れたとき、「武運ノ衰運今ニ於テハ驚クヘキニ非ス」(上杉家年譜)と一言語ったのみとされる。
- かなりの愛刀家だったとされる。
[編集] 関連項目
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