上杉朝宗
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上杉朝宗(うえすぎ ともむね、1334年(建武元年)? - 1414年10月8日(応永21年8月25日))は南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。上杉憲藤の子。上杉氏憲(禅秀)、上杉氏朝(四条上杉家)の父。官位は修理亮。中務大輔。
犬懸上杉家(又は四条上杉家)出身。幼名は幸若丸。1338年、父が戦死したときは幼少であったため、兄の上杉朝房と共に家臣の石川覚道に養育された。1365年から1376年まで上総の守護に補任され、1377年に兄から家督を譲られて犬懸上杉氏の当主となった。1395年3月には関東管領に就任する。同時に武蔵国の守護にも任じられた。1399年、応永の乱で大内義弘に共謀して鎌倉公方・足利満兼が呼応して挙兵しようとしたときはこれを諌めている。このため、満兼は出兵が大幅に遅れ、義弘は足利義満に討たれることとなったと言われている。1405年9月、管領職を辞任する。
1409年、満兼の死を契機に剃髪して禅助と号し、上総に隠退する。家督も子の上杉氏憲(禅秀)に譲った。応永21年(1414年)8月25日死去。享年81。法号は徳泉寺道元禅助。墓所は上総国長柄郡長柄山(現・千葉県長生郡長柄町長柄山)の眼蔵寺。
生年には異説が多く、父死後の1339年出生とも言われている。
[編集] 関連
- 上杉高春(千坂高春)
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