吉田郡山城
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吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)は広島県安芸高田市にある城。吉田郡山城は毛利氏が広島城へ移るまで使われた。
所在地 | 広島県安芸高田市吉田町郡山 |
城郭構造 | 山城 |
築城主 | 毛利時親 |
築城年 | 建武3年(1336年) |
主な城主 | 毛利氏 |
主な改修者 | 毛利元就、毛利輝元 |
廃城年 | 元和19年(1591年) |
遺構 | 曲輪、石垣、土塁、堀切、井戸 |
目次 |
[編集] 概要
城は江の川と多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する郡山全山に及ぶ。
[編集] 構造
城の遺構は、標高約360mの山頂部から放射状に延びる尾根とその支尾根や谷部に大小270以上の郭が見られ、一部は堀切等によって区画する。 山頂部が本丸で一段下がり二の丸、さらに三の丸と続く。三の丸は城内最大規模の郭で、虎口郭的なあり方を示している。
[編集] 歴史
毛利氏が吉田荘(よしだのしょう)の地頭職として下向した建武3年(1336年)に毛利時親が郡山南東の一支尾根に築城した。 以来12代目にあたる元就の相続までは城のこの部分が居城であった。毛利元就が家督を相続すると、この郡山全体に城域を拡張した。 1541年吉田郡山城の戦いでは、尼子詮久(後の尼子晴久)率いる2万の軍に包囲され攻められるが、大内氏の援軍として駆けつけた陶隆房勢の応援もあり、これの撃退に成功している。
その後も毛利氏の勢力拡大と共に拡張・整備され、元就の孫の毛利輝元の頃には石垣等も使用された近代的な城郭へと変貌した。見張り台としての櫓が本丸に建てられたが、天守閣は存在しなかったとされる。
毛利氏が豊臣大名になるに及び、山間部の盆地に位置する吉田郡山城は交通の便も悪く、本城の移転が計画され、天正19年(1591年)に広島城がほぼ完成を見ると、吉田郡山城は毛利氏の本拠としての役割を終え、家臣や城下町の商人らは広島城下に移住した。 廃城時期については、毛利氏の広島移住後の天正19年(1591年)、関ヶ原の戦い直後の慶長5年頃等と諸説あるが、毛利氏の本城としての役目を終えた天正19年(1591年)が事実上の廃城時期と言って差し支えないと思われる。
寛永14年(1637年)の島原の乱の後にキリシタンの決起を恐れた江戸幕府によって、石垣や堀などが破却された。