毛利輝元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
毛利 輝元(もうり てるもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。毛利元就の嫡孫に当たる。豊臣政権五大老の1人であり、関ヶ原の戦いのとき、西軍の総大将として擁立された。長州藩の初代藩主である。
|
||||
時代 | 安土桃山時代から江戸時代前期 | |||
生誕 | 天文22年1月22日(1553年2月4日) | |||
死没 | 寛永2年4月27日(1625年6月2日) | |||
別名 | 幸鶴丸(幼名)、少輔太郎(通称) | |||
諡号 | 玄庵宗瑞 | |||
戒名 | 天樹院巌宗瑞 | |||
墓所 | 山口県萩市の沙麓山天樹院 | |||
官位 | 従四位下、侍従、参議、従三位、権中納言 | |||
藩 | 長門萩藩主 | |||
氏族 | 毛利氏(大江氏) | |||
父母 | 父:毛利隆元 母:内藤興盛の娘(大内義隆の養女) |
|||
妻 | 正室:南の方(宍戸隆家の娘) 側室:児玉元良の娘 |
|||
子 | 毛利秀就、毛利就隆、竹姫(吉川広正室) 養子:毛利秀元 |
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 家督相続
天文22年(1553年)1月22日、毛利元就の嫡男・毛利隆元の嫡男として安芸国(現在の広島県)に生まれる。永禄6年(1563年)に父・隆元が急死したため、11歳で家督を継ぐ。しかし若年のため、祖父・元就が実権を掌握し、政治・軍事を執行した。永禄8年(1565年)、将軍・足利義輝より「輝」の一字を受けて元服し、輝元と名乗る。
元亀2年(1571年)、祖父・元就が死去すると、叔父の吉川元春や小早川隆景らの補佐を受け、親政を開始する。天正2年(1574年)には右馬頭に任官される。
[編集] 織田氏との戦い
その後、毛利両川体制により、輝元は中国地方の覇者となるべく各地に勢力を拡大していく。元就の時代からの敵対勢力である尼子勝久や大友宗麟らとも戦い、これらに勝利し、九州や中国地方に勢力を拡大し続けていた。
ところが天正4年(1576年)2月、織田信長によって追われた将軍・足利義昭(義輝の弟)が転がり込み、保護せざるを得ない状況となる。さらに石山本願寺が挙兵すると、本願寺に味方して兵糧・弾薬の援助を行なうなどしたことから、信長と対立する。当時、織田軍は越後の強敵・上杉謙信に対して軍を集中していたことも優位に働き、緒戦の毛利軍は連戦連勝し、7月には第一次木津川口の戦いで織田水軍を破り、大勝利を収めた。また、天正6年(1578年)7月には上月城の戦いで、羽柴秀吉・尼子連合軍との決戦に及び、羽柴秀吉は三木城の別所長治の反乱により退路を塞がれることを恐れて転進。上月城に残された尼子勝久・山中幸盛ら尼子残党軍を滅ぼし、織田氏に対して優位に立つ。
しかし3月に上杉謙信が死去、更に11月の第二次木津川口の戦いで鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆に敗北を喫し、毛利水軍が壊滅するなど、次第に戦況は毛利側の不利となっていく。天正7年(1579年)には毛利氏の傘下にあった備前の宇喜多直家が織田信長に通じて、毛利氏から離反した。
天正8年(1580年)1月には、織田軍中国攻略の指揮官である羽柴秀吉が、播磨三木城を長期に渡って包囲した結果、三木城は開城、別所長治は自害する(三木合戦)。翌、天正9年(1581年)には因幡鳥取城も兵糧攻めにより開城。毛利氏の名将・吉川経家が自害する。これに対して輝元も叔父たちと共に出陣するが、信長と通じた豊後の大友宗麟が西から、山陰からも信長と通じた南条元続らが侵攻してくるなど、次第に追い込まれてゆく。
天正10年(1582年)4月、羽柴秀吉は毛利氏の忠臣で、勇名を馳せている清水宗治が籠もる備中高松城を攻撃する。攻防戦の最中の同年6月2日、京都本能寺にて本能寺の変が発生。明智光秀の謀反により織田信長は自害した。秀吉は信長の死を秘密にしたまま毛利氏との和睦を模索し、毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に働きかけた。戦況の不利を悟り、和睦を願っていた輝元や小早川隆景らはこの和睦を受諾する。結果、備中高松城は開城し、城主・清水宗治は切腹。こうして毛利氏は危機を脱した。
[編集] 豊臣政権時代
信長の死後、中央で羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を巡り火花を散らし始めると、輝元は勝家・秀吉の双方から味方になるよう誘いを受けたが、時局を見る必要性もあり、最終的には中立を保った。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いには協力しなかったものの、秀吉側には戦勝祝いを贈っている(資料が残っていないだけで、柴田側にも同様に戦勝祝いを贈っていた可能性がある)。
賤ヶ岳の合戦後、天下人を羽柴秀吉と見定めて接近する。人質として輝元自身よりは年少であるが、叔父の毛利元総(のち秀包)や従兄弟の吉川経言を差し出し、秀吉に臣従した。その後は秀吉の命令で、天正13年(1585年)の四国征伐、天正14年(1586年)の九州征伐にも先鋒として参加し、武功を挙げ、秀吉の天下統一に大きく寄与した。その結果、秀吉より周防・長門・安芸・石見・出雲・備後など120万5,000石の所領を安堵された。
天正17年(1589年)、当時の交通の要衝である太田川三角州(当時の名称は五箇村)に、秀吉の聚楽第を模した広島城の築城を開始。天正19年(1591年)には、長年の毛利氏の居城であった吉田郡山城を廃して、まだ工事中であった広島城に入った。
文禄元年(1592年)から始まる秀吉の2度の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも主力軍を派遣した。これらの功績から慶長2年(1597年)、秀吉より叔父の隆景とともに五大老に任じられた。慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉死去の際、臨終間近の秀吉に、遺児の豊臣秀頼の補佐を託された。
[編集] 関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成による対立がついに武力闘争に発展。6月に家康が上杉景勝討伐に出陣すると、翌7月、遂に石田三成は挙兵。この時、三成は大谷吉継の進言に従って自身は総大将に就かず、徳川家康に次ぐ実力を持つ毛利輝元を西軍の総大将として擁立しようと画策する。安国寺恵瓊の説得を受けた輝元は、総大将への就任を一門や重臣に相談することなく受諾。輝元は7月17日、三成らに擁されて大坂城西の丸に入った。その後は西軍の総大将として大坂城にあったが、9月15日の関ヶ原本戦においては自らは出陣せず、一族の毛利秀元と吉川広家を出陣させるに止まった。そして三成ら西軍が壊滅した後の9月24日、立花宗茂や毛利秀元の主戦論を押し切り、徳川家康に申し出て、自ら大坂城から退去したのである。
家康率いる東軍と三成率いる西軍の争いで、西軍が負けると判断していた吉川広家は、黒田長政を通じて本領安堵、家名存続の交渉を家康と行っていた。関ヶ原本線では吉川軍が毛利軍を抑える結果となり、毛利軍は不戦を貫いた。しかし徳川家康は戦後、その約束を反故にして、毛利輝元を改易、その上で改めて吉川広家に周防・長門の2カ国を与えて、毛利氏の家督を継がせようとした。しかし広家は家康に直談判して毛利氏の存続を訴えたため、輝元の改易は避けられた。ただし、所領は周防・長門2カ国の29万8,000石に大減封されたのである。
[編集] 江戸時代
関ヶ原の戦い後の10月、輝元は剃髪して幻庵宗瑞と称し、嫡男の毛利秀就に家督を譲ったとされているが、実際にはこれ以後も法体のまま藩主の座にあった。慶長9年(1604年)、長門萩城を築城し、居城とした。
慶長19年(1614年)からの大坂の役においては、密かに重臣の内藤元盛を佐野道可と称させて大坂城に送り込んだが、結局、家康の命を受けると病を押して東軍として出陣する。この軍役や江戸城などの手伝普請、江戸藩邸の建設でかさむ借財や、関ヶ原以後に生じた家中の分裂を解消すべく腐心した。
寛永2年(1625年)4月27日、萩の四本松邸で死去した。享年73。
[編集] 人物
- 器量と覇気に欠け、性格も優柔不断な3代目にありがちなお坊ちゃまであったと言われている。現に、祖父・元就のぼやきを記した文書が現在にも残っており、教育係であった叔父の小早川隆景にも厳しい躾を受けていたとも言われている。
- 天正17年(1589年)には家臣である杉元宣を殺害し、その妻を奪ったという逸話が残るほどの我侭で我の強い人物であった。
- 中国地方の太守としての地位を維持できたのは、叔父の元春・隆景という2人の名将の存在があった。関ヶ原の際には既に両者が死去し、残った有能な重鎮で叔父の穂井田元清も死去し、輝元を補佐する人物がいなかったことも彼にとって不幸であった。結果、関ヶ原の戦いの際に、石田三成らに乗せられた輝元は、西軍の総大将として書状に「安芸中納言輝元」と署名、花押を捺印し、さらに四国・九州にも軍勢を差し向けるなど、徳川家康への敵対行為を取り、自ら大減封を招いてしまった。
- 長門移封後は、長州藩の支配体制強化を目的に家臣団を整理・粛清し、血縁でもある熊谷元直一族や吉見広長を粛清、外様の益田元祥を取り立てるなどしている。内政にも意を払い、藩政のほとんどを優秀な一族の毛利秀元や、または家臣の益田元祥らに委任。自身は隠居し、後見役として院政を引き、新田開拓や特産品を奨励し、長州藩の礎を築いた。
- 現在でも愚かな大将とする風潮が強いが、「佐野道可事件」についても関ヶ原での失策に対する意地の反抗であり、「徳川憎し」の感情がこのような事件を引き起こしたとも言える。また当時、家臣に命じ熊本城等の九州諸城の図を密偵により作成させるなどもしている。知力に劣るイメージのある輝元であるが、上記のように謀略・策略の類も好み、関ヶ原の敗戦後、輝元自身が自らを律して、内政を委任したことにより、長州藩の基礎を固めることに成功したのである。そして長州藩内に残った「徳川憎し」の感情は260年の間に凝縮され、江戸幕府打倒、そして明治維新へと向かうのである。毛利輝元の最大の功績は「徳川憎し」の感情を長州藩に植え付けたことかもしれない。
[編集] 家系
[編集] 関連項目
|
|
|