建武 (日本)
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建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で1334年1月29日~1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日~1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。
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[編集] 改元
元弘3年/正慶2年(1333年)、鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇は流刑先の隠岐から京都に復帰して、鎌倉幕府によって擁立された持明院統の光厳天皇の即位とその元号である「正慶」の無効を宣言した(光厳天皇はこれを拒んだが、後醍醐天皇側の軍事力を前になすすべがなかった)。後醍醐天皇は親政を開始して、元弘4年1月29日(ユリウス暦1334年3月5日)、武の字が不吉だという周囲の反対を押し切り、勅を出し建武に改元した。後漢の光武帝の使った元号(建武)にちなんだものである。
その後、武家勢力の離反にあい建武の新政は二年余りで崩壊した。後醍醐天皇は吉野に移って南朝を樹立し、建武3年2月29日(ユリウス暦1336年4月11日)に延元に改元した。北朝方ではその後も建武の元号を使い続け、建武5年8月28日(ユリウス暦1338年10月11日)に暦応に改元した。
[編集] 出典
[編集] 建武期におきた出来事
- 元年(1334年)
- 2年(1335年)
- 6月、西園寺公宗の建武政権転覆計画が発覚する。
- 7月、信濃国で北条時行を中心に北条氏の残党が蜂起する中先代の乱が起こり、鎌倉が攻略される。足利直義が鎌倉脱出の際に護良親王を殺害する。
- 8月、足利尊氏が征東将軍として時行討伐のために鎌倉へ向かい、そのまま建武政権から離反する。
- 12月、足利尊氏が箱根・竹下で新田義貞を破り、京都へ向かう。
- 3年(1336年)
- 1月、足利尊氏が京都へ入り、後醍醐天皇は比叡山へ逃れる。足利方は新田義貞や楠木正成、陸奥国より駆けつけた北畠顕家により駆逐される。
- 2月、足利方が摂津国打出浜、豊島河原などで敗北し、九州へ敗走する。
- 3月、足利方は筑前国多々良浜の戦いで菊池武敏らに勝利する。北畠顕家らが陸奥へ戻る。
- 4月、足利方は仁木義長や一色範氏らを九州へ残して再び上京する。
- 5月、足利方が湊川の戦いにて新田・楠木軍を破る。足利方は光厳上皇を奉じて入京し、後醍醐天皇は比叡山へ逃れる。
- 8月、光明天皇が即位して北朝が開かれる。
- 9月、後醍醐天皇が皇子の懐良親王を九州へ派遣する。
- 10月、新田義貞が恒良親王・尊良親王を奉じて越前国へ下る。後醍醐天皇が北朝へ降伏する。
- 11月、北朝が後醍醐より三種の神器を受け取る。建武式目制定。
- 12月、後醍醐が京都を脱出し、吉野(奈良県)で南朝を開いて南北朝時代が始まる。
- 4年(1337年)
[編集] 死去
- 護良親王
- 名和長年
- 楠木正成
- 楠木正季
- 新田義貞
- 尊良親王
[編集] 西暦との対照表
建武 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 |
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西暦 | 1334年 | 1335年 | 1336年 | 1337年 | 1338年 |
南朝 | - | - | 延元元年 | 延元2年 | 延元3年 |
干支 | 甲戌 | 乙亥 | 丙子 | 丁丑 | 戊寅 |